2024-11-25

自由主義のイスラエル批判

オスカー・グラウ(音楽家)
2024年9月3日

(経済学者)ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは、中央計画と社会主義の時代における自由の理想の擁護者であった。著書『自由主義』において、国家とは「社会における生活のルールに従うよう人々を強制する社会的装置」であり、自由主義の教義においてミーゼスが国家に割り当てた機能は、財産・自由・平和の保護である。そして、国家がその活動を進める際の規則から成る「法」がある。そして最後に、国家を管理する責任を負う機関から成る「政府」がある。
ミーゼスにとって、少数の人々による政府は被統治者(統治される人々)の同意に依存しているため、被統治者の大多数が自分たちの政府は優れていると納得しない限り、その形態、体制、人員を維持できる政府は存在しない。自由主義のその他のすべての要求は、財産という根本的な要求から生じる。財産とは、生産手段の私有所有(「消費可能な商品に関しては、私有所有は当然のことであり、社会主義者や共産主義者でさえも異論を唱えることはない」)を指す。

ミーゼスが言うように、自由主義の政策を一言で要約するとすれば、「財産」という言葉になるだろう。

戦争・征服・イスラエル国家


1948年、パレスチナにイスラエル国が建国された際、大多数の土地所有者の同意を得ることなく、政府が樹立され、その支配地域が拡大された。土地所有者の大半は追放されたり、殺害されたり、あるいは二級市民の地位に甘んじたりせざるをえなかった。実際、彼らはイスラエル軍によって奪われた広大な土地に住み、所有していた住民の大多数であった。このように、戦争と征服によってイスラエル国家が誕生し、建国前の数十年間にパレスチナに移住したユダヤ人の大半が、イスラエルという新国家の統治者の多数派となった。それ以来、イスラエル軍はイスラエルの拡大を目的とした戦争を止めず、新たな領土を征服し、それらの領土もまた、イスラエル国家の建国時に征服された領土と同様に、合法的に国有地として指定されている。

もし戦争が万物の父であるというのなら、人類の福祉と進歩のためには、人命の犠牲は必要であり、戦争による犠牲者を悼んでも、その数を減らそうとする努力をしても、戦争を廃絶し、永遠の平和を実現したいという願いを正当化することはできない。しかし、自由主義の視点は根本的に異なる。ミーゼスが説明しているように、自由主義の視点は、戦争ではなく平和こそが万物の父であるという前提から出発している。自由主義者が「戦争を忌み嫌う」のは、戦争が有害な結果しかもたらさないからである。

人間を進歩させ、動物から区別するのは社会協力である。生産的なのは労働だけである。労働は富を生み出し、それによって人間の精神的な開花のための外的基盤が築かれる。戦争は破壊だけをもたらす。何も創造できない。戦争、殺戮、破壊、荒廃は、我々をジャングルの捕食獣と同類にする。建設的な労働は、人間特有の特性である。

イスラエルの元首相メナヘム・ベギンが同国の征服を正当化するために用いた格言は、「我々は戦う、だから我々は存在する」というものだった。これはパレスチナのアラブ人が奪われた土地を取り戻すために用いることもできる(特に成功した場合)。いずれにしても、ミーゼスは戦争を悪とみなし、戦争を遂行し勝利する能力の有無に関係なく、次のように述べている。

(自由主義者は)勝利した戦争は勝者にとっても悪であり、戦争よりも平和の方が常に望ましいと確信している。強者に対して犠牲を要求するのではなく、自らの真の利益がどこにあるのかを理解し、平和は弱者だけでなく強者にとっても有益であることを理解することを求めている。

しかしミーゼスにとって、各々が戦う目的は重要である。

平和を愛する国家が好戦的な敵に攻撃された場合、抵抗し、攻撃を撃退するためにあらゆる手段を講じなければならない。自由と生命のために戦う人々によるこのような戦争における英雄的行為は、完全に称賛に値する。ここで、大胆さ、勇敢さ、死への軽蔑は、それらが善き目的のために役立つものであるため、称賛に値する。

ミーゼスに従えば、人間の行動が善か悪かは、「その行動が何のために行われ、どのような結果をもたらすか」によって決まる。この意味で、彼は次のような例を挙げている。

(ペルシアの大軍に対し少数の軍勢で戦って戦死した古代スパルタの王)レオニダスでさえ、祖国の防衛者としてではなく、平和な民から自由と財産を奪うことを目的とした侵略軍のリーダーとして斃れたのであれば、我々が彼に対して抱く尊敬に値する人物ではなくなるだろう。

戦争・宗教・自由主義


イスラエルの指導者たちは、パレスチナのアラブ人の祖国への侵略や財産の略奪を、戦争遂行能力に基づいて正当化しない場合、神学上の根拠に基づいて自らの行動を正当化し、ユダヤ民族を選ばれた民として選んだ神に訴えることで、戦争と征服を正当化する。しかし、これが自由主義の法の下の平等を否定する議論でないにしても、自由主義が理想とする、平和という同じ目標に向かって融合する自由主義的な国内・外交政策による全人類の完璧な協力という究極の理想とは明らかに異なる。つまり、国家間においても、各国内においても、自由主義は平和的な協力関係を目指している。

……自由主義の政策と計画全体は、人類の仲間同士の相互協力の現状を維持し、さらにそれを拡大するという目的を果たすために設計されている。

ミーゼスにとって、自由主義の思考は全人類を視野に入れ、コスモポリタンでエキュメニカル(全人類的)である。すべての人間と全世界を視野に入れている。

一方、自由主義は関心を世俗のものに限っている。宗教の王国は世俗のものではない。それゆえ、ミーゼスによれば「自由主義と宗教は、それぞれの領域を侵すことなく並存しうる」のである。両者が衝突するようなことがあっても、それは自由主義のせいではない。なぜなら、自由主義は「宗教的信仰や形而上学的教義の領域」に立ち入ることはないからだ。また、平和の確保が何よりも優先されるべきであるという信念から、自由主義は「あらゆる宗教的信仰と形而上学的信念に対する寛容」を宣言している。しかし宗教的には、ベギンは、エホバの神の永遠の贈り物であるイスラエルの地(古代のユダ王国とイスラエル王国)をユダヤ人入植者に与えることでイスラエルの領土拡大を主張し、占領した土地を「解放された」と位置づけた。

そして、自由主義が(かつて)「来世における人間と世界の関係だけでなく、現世の問題についても自らの判断に基づいて規制する権利を主張する政治的な力である」教会と対決したのであれば、イスラエル国家とも対決しなければならない。イスラエル国家が宗教戦争を行なっているからだけでなく、何十年にもわたって、住民全体の財産、自由、平和に対して政治的・軍事的権力を恣意的に偏見をもって濫用することによって、民族・宗教の帰属によって歴史的なパレスチナの世俗の問題を規制してきたからである。

戦争・私有財産・自己決定


自由主義者は「説教や道徳的な訓戒によって戦争を廃絶できるとは思っていない」けれども、戦争の原因を排除する条件を作り出すことはできると考えている。そして、戦争の原因を排除するための第一条件は私有財産であると述べたうえで、ミーゼスは次のように付け加えている。

戦争時においても私有財産を尊重しなければならない場合、すなわち、戦勝国が民間人の財産を自らのものとする権利を持たず、また、生産手段の私有が至るところで優勢であるため公有財産の接収がさほど大きな意味を持たない場合、戦争を遂行する重要な動機はすでに排除されている。……自決権の行使が茶番に終わらないよう、政治制度は、ある政府から別の政府への領土の主権の移譲が、誰にとっても何の利益も不利益ももたらさない、最も重要性の低い問題となるようなものでなければならない。

しかし、イスラエル国家の指導者たちは、戦争の原因を排除しようと努力したことは一度もなく、むしろそのような原因を作り出すことに固執してきた。イスラエルの領土のほとんどすべてが国有地であり、同国の法律では、同国の土地はすべて公共の信託財産として保有され、排他的な私有財産としては保有されないと規定されていることを考えると、イスラエルにおける公共財産は大きな意味を持つ。そして1948年以来、戦争の征服者であり勝利者であるイスラエル国家は、今日に至るまで、多くの私有財産を民間人から接収してきた。

さらに、パレスチナの主権は、英政府によってアラブ人多数派やその他の誰かに譲渡されることは決してなく、むしろユダヤ人少数派に大きく委ねられた。その多くは、イスラエル建国以前から英国の国家権力から恩恵を受けており、それはユダヤ人の移住を促進するためにアラブ人の土地収用を推奨し、幇助するものだった。これらの出来事は、英政府がアラブ人の大多数の市民権を保証すると約束したことや、その故郷における自決権を真剣に考慮したことを茶番劇におとしめた。それ以来、1948年以降はイスラエル国家の手によって、何百万人ものアラブ人が不利益を被るだけでなく、死や貧困にも直面してきた。

実際、アラブ人と同様に、イスラエル建国以前のパレスチナのユダヤ人社会にも、同様の自己決定権が認められていた。そして、自由主義の考え方では、この権利は戦争を防ぐためにきわめて重要である。

……特定の領土の住民が、それが単一の村であろうと、地域全体であろうと、あるいは隣接する複数の地域であろうと、自由に行われる住民投票によって、その時点で属している国家に留まることを望まないことを表明し、独立国家の樹立を望むか、あるいは他の国家に併合されることを望む場合、その意思は尊重され、遵守されるべきである。これが革命や内戦、国際紛争を防ぐ唯一の現実的かつ効果的な方法である。

しかし、イスラエル国家の建国がまさにこの権利をはるかに超えたものであり、イスラエルはアラブ人の運命をその自己決定権に反して決定する権限を持っていたため、戦争を防ぐことができなかった。

ユダヤ教のラビの息子であったミーゼスの考えに従うならば、自由な国の民でありながら社会協力を選ぶのではなく、宗教的な正当化によって戦争や征服を選ぶ選民であることはできない。要するに、イスラエルの建国とその拡大継続は、自由主義を放棄することによってのみ正当化できるのである。

(次を全訳)
A Misesian Case Against the State of Israel | Mises Institute [LINK]

【コメント】パレスチナ問題についてはミーゼスの弟子であるマレー・ロスバードも取り上げ、イスラエル政府を厳しく批判している。今回の記事はリバタリアンの論客グラウ氏が、「もしミーゼスがパレスチナ問題を論じたら」という趣旨で書いたものだが、説得力がある。ロスバードがパレスチナの正義という倫理的な側面を強調するのに対し、ミーゼスは功利主義者らしく、戦争は害悪しかもたらさないと損得に訴えるだろう。いずれにしても重要なのは、自由主義の立場からは、イスラエル政府によるパレスチナの侵略と虐殺は愚かで許されない行為だということだ。

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