カトリックの最高権威であるローマ教皇はしばしば、資本主義や市場経済を厳しく非難する。CNNの報道によると、教皇フランシスコは回勅で、新型コロナウイルス禍における資本主義は失敗に終わったとの見解を示したという。
キリスト教と自由な経済活動は、昔からあまり馬が合わない。聖書によると、イエスは神殿の境内にいた両替商を怒って追い払ったり、弟子たちに「富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」と説いたりしている。初期キリスト教の伝道者で聖人とされるパウロは「金銭を愛することは、すべての悪の根である」と述べている。
けれども一方で、富の追求はキリスト教の信仰と矛盾せず、むしろ奨励されると考える人々もいた。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーが、宗教改革で生まれたプロテスタントの禁欲的な倫理が西欧における近代資本主義の精神的支柱となったと論じたのは有名だ。プロテスタントに限らず、カトリックの中心だった中世イタリアでも、活発な商業活動を背景に、近代資本主義の根幹をなす複式簿記などの制度が生まれている。
それだけではない。戦国から安土桃山時代にかけて日本にキリスト教を伝えたカトリックの修道会、イエズス会は極東の地で商業活動にいそしんだ。貿易である。清貧のイメージが強い修道会がどうして、何も生産しないと批判されがちな商業にみずから携わったのだろう。
1549年(天文18)、日本布教を志したイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し、大内義隆、大友義鎮(宗麟)ら大名の保護を受けて布教を開始した。布教を認めた大名領の港には、イエズス会を保護するポルトガルの貿易船が入港したため、大名はポルトガルとの貿易(南蛮貿易)を望んで宣教師を保護するとともに、布教に協力し、なかには改宗してキリシタン大名となる者もあった。
1560年代に、日本のイエズス会は一ダースほどの欧州人会士を養わなければならなかった。それに三〜四人の日本人会士、さらに同宿(ドウジュク)と称される会士の補助者がいた。宣教活動のため離れた土地に出かける費用も必要だった。
ポルトガル王国は日本のイエズス会に手厚い支援を行っていた。それにもかかわらず、イエズス会の財政状態は余裕があるとは言えなかった。送金が不正や難船で失われたうえ、送金が無事に日本まで到着しても、約30%の税を課されたからだ。17世紀初めの頃は、赤字状態だった。苦境を見かねた徳川家康がイエズス会士に金子を与えたほどだった。
イエズス会は恒常的な財政問題を解決するため、ポルトガル商人の助けを借りて、独自に中国と日本の貿易に乗り出すことにした。貿易へのイエズス会の参入には、二つのやり方があった。
一つは、イエズス会が大名に代わって金の仲買人になることだ。大名はイエズス会士とポルトガル商人が親しい間柄にあるのを利用して、銀を渡してこれを中国で金に交換してもらう。中国は銀本位制のため、日本よりも銀売却が有利だった。
もう一つは、イエズス会が直接に貿易を行うことだ。貿易品の最たるものは絹を織る原料となる生糸だった。イエズス会は中国で良質の生糸を購入し、日本で売りさばいた。当時、とりわけ京の都では高級織物の生産が盛んになり、高価だが良質の中国産生糸が求められた(佐藤彰一『宣教のヨーロッパ』)。
生糸には糸をよった撚糸も含まれた。イエズス会士が作成したと考えられる覚書には、「五から六、一〇箱までの反物と撚糸を取引するのは悪くない。これらは肉厚で良質、深紅色でなければならない。なぜならこれらは銀の吸収がよく、よく売れ、確かな収益が上がるからである」という記述があり、撚糸が売れ筋商品であったことがわかる(岡美穂子『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』)。
1580年(天正8)には、大名の大村純忠が長崎をイエズス会に寄進する。イエズス会はマカオから長崎への生糸輸出に投資するとともに、日本とポルトガル船との交易や投資も仲介して、マカオ—長崎貿易に大きな影響力を持った。南蛮貿易の拡大と並行して日本布教も進展し、1592年(文禄元)には全国の信者数は二十二万人弱にのぼっている。
マカオの当局は、イエズス会に毎年3トンの生糸の購入を許可していた。宣教活動の初期の段階において、ここから上がった収入が実質的に宣教活動の唯一の財源だった。イエズス会宣教師ヴァリニャーノは「実にこの〔日本宣教〕企てを継続するために、我々には現在までのところ中国との船による貿易しか手立てがない」と書いている。
毎年の利益は現在の邦貨換算で、8750万円から1億500万円だった。ヴァリニャーノは、宣教をさらに拡大するためには、イエズス会はもっと本格的に貿易に乗り出すべきだと主張した。
しかし、たとえ宣教活動の財政基盤強化のためであっても、そもそも商取引に関わることに反対の意見を持つイエズス会士もいた。
ザビエルとともに日本に最初に渡来した古参会士コスメ・デ・トレスは1559年(永禄2)、スキャンダルを恐れて、インド支部がこの問題について判断を下さない限りは禁止するとして、一度は取りやめとなった。だが、取引はすぐに再開された。「イエズス会にとって貿易からもたらされる収入は、あまりに大きかったからである」と名古屋大学名誉教授の佐藤彰一氏は指摘する。
修道院で禁欲的に暮らす修道士とは身分が異なるとはいえ、清貧を誓った者が、果たして商業取引に携わることが許されるかどうかは、修道会として根本問題だ。ヴァリニャーノの問い合わせに応じ、イエズス会の第五代総長アクアビバは1596年(慶長元)、日本での布教の経費には収入が必要であり、このために貿易を行うのは許されるとした。教皇グレゴリウス13世もこの意見を支持した。
それでも、日本で宣教活動に従事するイエズス会士の中には、貿易実践に反対する向きはなくならなかった。1570〜81年に日本布教区の責任者になったフランシスコ・カブラル神父は、倫理的、宗教的な規範の点から、貿易をみずから行うべきではないと主張した。だがヴァリニャーノによると、カブラル自身、宣教活動の財源を確保するために、貿易に頼らざるをえなかったという。
1580年に豊後(大分県)で開かれた会議では、会士の間でこの問題が激しく議論された。だが、他に財源を確保する手段を見つけることができなかった(佐藤前掲書)。
イエズス会には財務を担当する、プロクタドールという職名の会員がいた。修道会といえども、地上に設置され、俗世間の中で活動する以上、世俗との関わりをまったく断つことは不可能だ。どうしても、それを職とする会員を必要とする。それがプロクタドールだった。
プロクタドールの仕事は、必需物資や資金の調達・保管・配給、帳簿の記入、信徒らに対する物質的援助などさまざまだが、商業もその一環である。
日本でプロクタドールは当初イルマン(平修道士)が任じられたが、のちにパードレ(神父)、さらに最高位の盛式四誓願司祭が就くようになる。これはプロクタドールが重い役職になっていったことを意味している。その背景には、独自の才覚によって財源を求めなければならない日本の特殊事情があった(高瀬弘一郎『キリシタンの世紀』)。
イエズス会の宣教師たちは極東でキリストの教えを広めるため、宗教倫理との板挟みに悩みながら、当時のグローバル経済の最前線で貿易に奮闘した。資本主義を悪魔のように忌み嫌うローマ教皇は、布教を財政面で支えた市場経済にささやかな感謝を捧げてほしいものだ。
<参考文献>
- 佐藤彰一『宣教のヨーロッパ 大航海時代のイエズス会と托鉢修道会』中公新書
- 岡美穂子『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』東京大学出版会
- 高瀬弘一郎『キリシタンの世紀 ザビエル渡日から「鎖国」まで』岩波オンデマンドブックス
- 九州国立博物館編『「新・桃山展」公式図録 大航海時代の日本美術』
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