グローバル経済がこれだけ発展した現代でも、人々が経済の道理を正しく理解しているとは限りません。それはやむをえない面もあります。私益の追求が社会を良くするという経済の道理は、人間の直感に反するからです。
フリマアプリのメルカリで読書感想文や夏休みの自由研究などの宿題が販売され、問題になりました。宿題を家族が時間を割いて助けてあげるのはほほえましく語られるのに、お金を払って他人に助けてもらうと批判されるのは、理屈で考えるとおかしなことです。
仲立ちをしたメルカリも、金儲けのために宿題をさぼる手助けをしたと非難されました。けれども助けてもらった側と助けてあげた側の双方が満足し、進んで対価を払ったのですから、周囲がとやかく言う必要はないはずです。
理屈はそうでも、納得できないかもしれません。それはオランダのマンデビルや英国のアダム・スミスといった18世紀の経済学者が明らかにした「私的な悪徳こそが実は公益につながっている」という逆説が、人間の直感に反するからです。
キリスト教社会ではかつて利子が禁じられ、イスラム教社会では今も禁止されています。江戸時代には士農工商の序列がありました。経済学者の蔵研也氏によれば、これらの背景には、商業は卑しく劣った活動だという人間に普遍的な感覚があります(『18歳から考える経済と社会の見方』、春秋社)。
普通の人には、私益の追求が良い社会を作るという論理は不道徳だと感じられます。だからこうした論理は近代になるまで一般化しなかっただけでなく、学校で経済学を教わったはずの現代人も内心では納得していません。その感情が宿題販売やチケット転売などの問題をきっかけに噴き出すのです。
感情的な商業批判は、しばしば政府による規制の口実とされます。それは規制で利益を得る一部の関係者を除き、個人の幸福を妨げます。商業が非難されたときには、頭を冷まして理性的に考えたいものです。(2017/09/10)
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