1867年(慶応3)10月、第15代将軍の徳川慶喜が朝廷に政権返上を申し出て受理され、260年以上続いた江戸時代が終わりを迎えました。大政奉還です。今年は150周年にあたります。
大政奉還翌年の1868年1月に起こった鳥羽・伏見の戦いから1869年5月に箱館戦争が終わるまで、新政府軍と旧幕府軍は1年5カ月にわたる内戦(戊辰戦争)を繰り広げます。
死者は両軍合わせて推定約1万3000人。少ない数ではありませんが、同時代に米国が南北戦争(1861~65年)で計61万8000人と同国史上最大の死者を出したのに比べると、犠牲は小さかったといえます。
幕臣の勝海舟、山岡鉄舟らとともに功労者の1人とされるのが将軍慶喜です。慶喜は鳥羽・伏見の戦いで応戦したのを最後に、一切の武力行使を行わなかったうえ、朝廷への恭順の意を示して謹慎までしました。
慶喜が非戦を貫いたのは、天皇の神聖性を強調する水戸学を幼い頃から叩き込まれ、朝廷と敵対することを何より恐れたからだと、思想史学者の森田健司氏は言います(『明治維新という幻想』)。
幕府に肩入れしていたフランスの公使ロッシュは、謹慎した慶喜に再挙を強く勧めます。しかし慶喜は「たとえ首を斬らるるとも、天子に向かって弓を引くこと能(あた)わず」とこれを拒否します。尊皇攘夷の論拠にもなった水戸学ですが、ここでは非戦の原理として働いたわけです。
もし慶喜がロッシュの意見に動かされ、抗戦を開始していたら、フランス軍は旧幕府軍に加わり、表面上は中立を旨としていた英国は新政府軍に加わっただろう。両軍が死力を尽くして戦う恐るべき規模の内戦が繰り広げられ、その結果、日本の分裂と植民地化が起こったに違いない--。森田氏はこう見ます。
たしかに外国勢力の介入で内戦が大規模化、泥沼化することは、朝鮮戦争やベトナム戦争、現在のシリア内戦をみれば明らかです。
徳川幕府の統治が理想的だったというつもりはありませんが、260年間続いた平和は高く評価すべき実績です。最後を締めくくった慶喜は内戦の拡大を防ぎました。ところが明治以降の日本は対外戦争にひた走っていきます。大政奉還150周年は、その意味をあらためて考える好機でしょう。(2017/09/26)
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