先月21日、米国の広い範囲で太陽が月と重なって見えなくなる皆既日食が起き、話題となりました。真昼の闇に浮かび上がる日輪は神秘的で、まさに自然の驚異です。
米国で皆既日食が観測されるのは38年ぶり、日本で観測できる次の皆既日食は2035年9月2日で、前回から26年ぶりになるそうです。いずれにせよ、そうそう起こるものではありません。
けれども、がっかりすることはありません。自然の驚異に劣らないすばらしい驚異を、私たちは日々目にしているからです。それは市場経済の驚異です。
非日常的な大自然や大宇宙と違い、市場経済はせわしない日常そのものです。しかし、そんな平凡な営みに、目を見張るような驚きが隠されています。
米実業家で教育団体の創設者、著作家でもあったレオナード・リード氏は「私は鉛筆」という物語風のエッセイを1958年に発表しました。1本のありふれた鉛筆がこう語り始めます。「私は神秘です。木や夕焼け、稲妻よりも」
鉛筆はさらに意外なことを言います。「私をどうやってこしらえるのか、知っている人は1人もいません」。なぜなら、なんの変哲もない鉛筆でも、できあがるまでには想像以上に多くの人々がさまざまな形でかかわっているからです。
まず最初に、カリフォルニア州の北部やオレゴン州に生えている1本の真っすぐなヒマラヤ杉が材料の材木となります。この木を伐採して、鉄道の引き込み線があるところまで材木を運んでいくためには、のこぎりやトラックやロープや、その他にも数えきれないほど多様な道具や用具が必要になります。
のこぎりや斧やエンジンをこしらえるためには、鉱石を採掘し、鉄鋼をこしらえ、これらをさらに精錬し精製しなければなりません。リード氏はさらに鉛筆の口を借りて、木部のほか、黒鉛の芯、真鍮の環、消しゴムなどの製造に、いかに世界中の多くの人々がかかわっているかを描いていきます。
驚くべきなのは、想像以上に多くの人々が製造過程にかかわっている事実だけではありません。誰かが中央集権的な本部から命令を下しているわけでもないのに、鉛筆がちゃんと生産されることです。市場経済の「見えざる手」と言ってもいいでしょう。
米経済学者のミルトン・フリードマン氏は著書でこのエッセイを紹介し、感嘆を込めてこう記します。「何千人もの人びとは、あちらこちらの諸国に住んでいて、異なった言語をしゃべり、いろいろな違った宗教を信仰しているだけでなく、ひょっとするとお互いに憎悪し合っている可能性さえある。そうだというのに、このような相互間の相違は、鉛筆を生産するためお互いが協同するのに、なんの障害にもなっていない」(『選択の自由』、日本経済新聞出版社)
もちろん鉛筆だけではありません。1冊の本、1台のスマホ、1本のペットボトル……。私たちが日々目にし、利用するあらゆる製品に、市場の神秘が潜んでいます。
お互いに顔も知らない、もしかすると憎み合ってさえいるかもしれない人々が、平和のうちに協力し合う市場経済。この不思議な仕組みにもっと驚き、畏敬の念を持ってもよいのではないでしょうか。(2017/09/03)
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