民主主義の立派なところは、理性的な討議を通じて政治決定を行うことだとよくいわれます。最近流行の言葉でいえば「熟議」です。しかし現実には、政治にとって冷静な討議は邪魔でしかないのかもしれません。政治は理性よりも感情を養分として栄えるからです。なかでも好物は、恐怖という感情です。
米著述家コナー・ボヤック氏によれば、米国でテロリストに殺害される確率は年間2000万人に1人といいます。これに対し、交通事故による死亡は1万9000人に1人、浴槽での溺死は80万人に1人、ビル火災は9万9000人に1人、落雷は550万人に1人。つまり、雷に打たれる確率はテロで死ぬより4倍以上も大きいわけです。
ところが政府は落雷防止に何十億ドルもの予算を費やしたりはしません。一方で、落雷よりリスクの小さいテロ対策には莫大な税金を投じます。政府がしきりに強調するテロの恐怖によって、国民がテロ対策を支持するからです。合理性に乏しい政策でも、恐怖という感情に訴えることによって可能になるのです。
恐怖にはこのような効能があるので、政治はそれを最大限に活用したがります。恐怖による支配です。しばしば偽りの情報や誇張した情報を流し、世論を操作しようとします。イラク侵攻の口実とされ、実際には存在しなかった大量破壊兵器はその典型でしょう。政府を発信源とするフェイク(偽)ニュースに人はたやすく騙されがちです。
恐怖による支配に世間が飲み込まれそうになる昨今、政治の嘘に騙されないためには、ボヤック氏がいうように、まず権力者に対する健全な懐疑心(healthy skepticism)を養ったうえで、情報源を多様化し、信頼できる情報を選ぶことが必要です。インターネットの発達とメディアの多様化は市民にとって心強い味方となるでしょう。(2017/09/08)
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