2021-11-25

国家という特殊な制度

反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー

青々と広がる水田、金色の麦畑は美しい。しかし、これら米や麦といった穀物が国家の暴力的な起源と密接な関係にあると知ったら、景色の見え方も変わるかもしれない。

政治学者・人類学者ジェームズ・スコット氏は、考古学や人類学の最新成果に基づく著書『反穀物の人類史〜国家誕生のディープヒストリー』(立木勝訳、みすず書房、2019年)で、「穀物が国家を作る」という大胆な仮説を提示する。

古代の最初の主要農業国家(メソポタミア、エジプト、インダス川流域、黄河)の生業基盤はどれも驚くほど似通っている(第四章)。すべて穀物国家で、小麦や大麦、黄河の場合は稗や粟などの雑穀を栽培していた。それに続く初期国家も同じパターンを踏襲し、水稲と新世界のトウモロコシが主要作物のリストに加わった。

なぜ穀物は、最初期の国家でこれほど大きな役割を果たしたのか。中東ではレンズ豆、ヒヨコ豆、エンドウ豆といった豆類、中国ではタロイモや大豆など他の作物はすでに作物化されていたのにである。

ここで、スコット氏は驚くべき考えを示す。「わたしの考えでは、穀物と国家がつながる鍵は、穀物だけが課税の基礎となりうることにある」。すなわち目視、分割、査定、貯蔵、運搬、「分配」ができるということだ。豆類や芋類にもこうした性質はいくつか見られるが、すべての利点を備えたものはない。

スコット氏は「穀物にしかない利点を理解するためには、自分が古代の徴税役人になったと想像してみればいい。その関心は、なによりも収奪の容易さと効率にある」と指摘し、こう続ける。「穀物が地上で育ち、ほぼ同時に熟すということは、それだけ徴税官は仕事がしやすいということだ。軍隊や徴税役人は、正しい時期に到着しさえすれば、1回の遠征で実りのすべてを刈り取り、脱穀し、押収することができる」

これに対し芋類は、一年後に熟すが、あと一年か二年は地中に残しておいても大丈夫だ。必要なときに掘り出し、残りは地中で貯蔵できる。軍隊や徴税官が芋をほしいと思ったら、ひとつずつ掘り出さなければならない。豆類も長期間にわたって継続的に実をつけるので、徴税官が早く来すぎたらほとんどまだ熟していないし、遅れてきたら、収穫の大半は納税者が食べてしまっているか、隠したり売ったりしてしまっている。

したがって、穀物が地上で同時に熟することには、国家の徴税官が判読、査定できるという、計り知れない利点がある。こうした特徴があったからこそ、小麦、大麦、米、トウモロコシ、稗や粟などの雑穀は第一級の「政治的作物」になったのだとスコット氏は説く。

じつは初期穀物国家は、人が暮らす場としては例外にすぎず、集中的な農業に好適な、生態学上のわずかなニッチにしか存在しなかった。その外には狩猟と採集、海洋での漁労と採集、園耕、移動耕作、専業遊牧といった、多種多様な生業活動が広がっていた。しかし国家の徴税官からみれば、それらに課税することはほとんど不可能だった。狩猟採集民や海洋採集民は分散して動いているうえに、収穫物は多様で傷みやすいからだ。

こうして初期の国家は穀物を基礎に築かれていく。そこで暮らす農民にとって、生活環境はおせじにも良好なものではなかった(第三章)。まず、急速な農業化によって食餌内容が炭水化物に偏り、多くの必須栄養素が不足した。残っている農民の骨格を、同時代に近隣で暮らしていた狩猟採集民と比較すると、狩猟採集民のほうが平均五センチ以上も背が高い。これは、食餌が多様で豊富だったからだと考えられる。弱った肉体に疫病が襲う。感染症が人口に繰り返し壊滅的な打撃を与えた。

追い打ちをかけたのが、国家による課税と戦争だ(第四章)。穀物での税が収穫の五分の一を下回ることはまずなかったとみられる。農民はエリート層を支える税を納めるため、事実上、生存できるぎりぎりの線で生活していた。

戦争ではたとえ勝ったとしても、戦争そのもののために作物が焼き払われ、穀物倉が強奪され、家畜や家財が押収されたから、生活する者にとっては、自国の軍も敵国の軍と同じくらい大きな脅威だった。スコット氏は「初期の国家は天候にも似て、恩恵をもたらすよりも、生存への脅威を追加するものだった」と記す。

これらを踏まえ、スコット氏は国家の「崩壊」という重要なテーマに議論を進める(第六章)。多くの歴史家は国家の崩壊を嘆き悲しむ。しかし、国家がこれまで述べられたように抑圧的なものなら、なぜ嘆く必要があるだろう。スコット氏は、歴史家にはひとつの偏見があると指摘する。「国家センターという頂点への人口集中を文明の勝利として見る一方で、他方では、小さな政治単位への分散を政治秩序の機能停止や障害だとする、ほとんど検証されることのない偏見」である。

初期国家の臣民が、税や徴兵や伝染病や抑圧から逃れるために農業からも都市の中心地からも離れていくことは、決して珍しくはない。こうした国家の放棄は、狩猟採集や遊牧といった原始的な生業形態への退行かもしれないが、解放と見ることもできる。もちろん国家の外で別の種類の捕食や暴力が待ち受けることもあるが、「都市中心部の放棄という事実そのものを野蛮と暴力への下降だと決めつけることはできない」とスコット氏は強調する。

たとえば、ギリシアで都市国家が姿を消した「暗黒時代」は紀元前1100年頃から同700年頃まで続いた。宮殿のある中心地は多くが放棄され、たいていは物理的に破壊されて燃やされた。ところが、西洋文学の源泉とも仰がれる叙事詩『オデュッセイア』『イーリアス』はまさにこのギリシア暗黒時代のもので、あとになって、現在知られている形で文字に起こされたにすぎない。スコット氏は「実際に、こうした朗誦と記憶を繰り返すことで生き延びていく口承叙事詩は、少数の識字エリート層に依存した文字テクストよりも、はるかに民主的な形態の文化を構成していると主張していいのかもしれない」と指摘する。

スコット氏によれば、今から四百年前まで、地球の三分の一は狩猟採集民、移動耕作民、遊牧民、独立の園耕民で占められていたのに対し、国家は本質的に農耕民で構成されるので、その範囲は世界にわずかしかない耕作好適地にほぼ限られていた(序章)。多くの人々は、国家の空間を出入りして生業様式を切り替えることができた。国家の締めつけをかわすチャンスは十分にあった。

現在、国家は生活のあらゆる局面に介入し、その存在を意識せずに暮らすことはほとんどできない。しかしスコット氏が指摘するように、明確な国家覇権の時代の始まりを紀元1600年頃だとすれば、「国家が支配してきたのは、私たちの種の政治生活の最後の1パーセントのうちの、そのまた最後の10分の2にすぎないことになる」。

今の国家はもちろん穀物には頼らず、その支配力を国民の財産全般に広げた。それでも補足は完璧ではないから、コロナ対応給付金などを口実に、マイナンバーと金融口座のひも付けをもくろんだりしている。実現すれば、昔の徴税官が豊かに実った田畑を眺めたときのように、政府当局者は顔をほころばせることだろう。

『反穀物の人類史』は、国家が庶民から税を搾り取る特殊な制度でしかないことを教えるとともに、脱国家の可能性に思いを巡らすきっかけを与えてくれる。

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2021-11-23

株主資本主義は悪くない

「公益」資本主義 (文春新書)

資本主義に対する批判がかまびすしい。さすがに「よし、それなら社会主義で」とは(今のところまだ)言いにくいので、代わりに主張されるのが資本主義の「修正案」だ。岸田文雄首相の「新しい資本主義」はその一つだが、この種の議論のはしりといえるのは、原丈人氏の『「公益」資本主義』(文春新書、2017年)である。

本の宣伝文句によれば、原氏は米国シリコンバレーで数々の成功を収めてきた「最強のベンチャー事業投資家」である。読者はこの肩書から、資本主義の本質を知り抜いた人物を想像することだろう。しかし残念ながら、投資家や資本家として成功した人物が、必ずしも経済や資本主義について正確に理解しているとは限らない。

原氏は「はじめに」で、本書の主張を簡潔に述べる。それは現在、世界を席巻しているという「株主資本主義」に代わり、「公益資本主義」という資本主義の新たなあり方を打ち立てることにある。

株主資本主義とは何か。一言でいえば、「会社は株主のもの」とする考え方だという。原氏によれば、株主資本主義では、会社の目的は株主の利益を上げること一点のみで、従業員や顧客の利益はないがしろにされる。これに対し公益資本主義とは、企業を構成する個々のステークホルダー(株主、従業員、取引先、顧客、地域社会、国、地球など)の立場に応じ、利益を公平に分配する仕組みだという。

原氏が考える、株主資本主義と公益資本主義の違いについて、もう少し詳しく見てみよう。原氏は第四章で、株主資本主義は株主と経営陣が利益を独占すると述べる。これはさきほど触れた、従業員や顧客の利益がないがしろにされるという主張と表裏一体である。

この考えはおかしい。株主が本当に自分の利益を増やしたければ、会社の利益を増やさなければならず、そのためには優れた人材を手厚い待遇(金銭的報酬とは限らない)で雇用し、優れた製品を安く顧客に提供しなければならない。そうであれば、従業員も顧客も得をする。つまり株主と従業員・顧客の利益は対立せず、ともに利益を得る。

一方、公益資本主義ではすべての「社中(ステークホルダー)」に利益を「公平に分配」しなければならないという。けれども分配が公平かどうか、誰がどうやって判断するのか、その具体的な説明はない。単純な均一配分では誰かから必ず不満が出るだろうし、かといって利益への貢献度で判定するのはもっと難しいだろう。組織として成り立つかどうか心もとない。

また原氏は、株主資本主義では短期の利益や株価上昇ばかりを追求すると述べ、こう続ける。「中長期の研究開発費を圧縮し、人件費を削って無理に利益を出させ、配当として吐き出すことを求めます」

これもよく耳にする俗論だが、正しくない。株主が本当に強欲なら、短期で小さな利益を手に入れて満足するのではなく、長期で大きな利益を求めるはずだ。

たしかに海外の買収ファンドなどが、厳しいコスト削減や増配の要求を突きつけるケースはある。けれども彼らがそうするのは、それが長期の利益拡大や経営効率の向上をもたらすと判断するからだ。株価は将来の利益を予測して動くものだから、短期の利益にしかつながらないと市場で評価されれば、たちまち下落し、投資家自身が損をしてしまう。

さらに原氏は、株主資本主義は目先の利益にとらわれるため、組織が硬直化し、変化への柔軟性を確保できないという。具体例として、一九七〇年代のオイルショックを機に消費者の関心が日本車など燃費の良い小型車に移っていたにもかかわらず、大型車から小型車への切り替えができず、衰退した米GM(ゼネラル・モーターズ)を挙げる。

けれども当時、日米自動車摩擦で米政府が日本に圧力をかけ、対米自動車輸出台数を制限する「自主規制」を強いた事実が示すように、GMをはじめビッグスリーと呼ばれる米自動車大手が衰退したのは、政府と癒着してその保護に甘んじ、市場競争を勝ち抜くための経営努力を怠ったからだ。

ビッグスリーの背後には全米自動車労組(UAW)という強力な労組が存在し、対日圧力を求めていた。つまり米自動車大手の衰退は、原氏にとっては皮肉なことに、政府や労組といったステークホルダーが会社を動かす公益資本主義のせいだったということになる。株主資本主義のせいではない。

原氏は、配当や自社株買いに熱心な米企業について「株主におもねっているだけで、これでは企業としていつまで存続できるのか心配になります」と批判し、社名を列挙する。IBM、マイクロソフト、ヒューレット・パッカード、プロクター&ギャンブル、ファイザー、タイム・ワーナー、ディズニーである(第二章)。それから四年たつが、これら米企業の多くは存続が危ぶまれるどころか、世界でますます存在感を増している。

もし原氏がいうように、日本企業が米国流の株主資本主義を模倣したせいで衰えたのなら、本家である米企業はもっと激しく没落しているはずだ。ところが実際には、日本企業だけが凋落している。ここから正しい教訓を導くとしたら、日本経済が衰退しているのは株主資本主義が過剰なためではなく、株主資本主義が足りないからと考えるしかない。

最後に、原氏が強調する、アメリカン航空のエピソード(第一章)について述べておく。2008年、経営不振に陥った同社は従業員に対して大幅な給与削減を求め、そのおかげで危機を脱することができた。経営陣はその功績によって多額のボーナスを受け取った。リストラに成功して経営を立て直したことが、株主から評価されたからだ。

原氏はこの事実について、株主資本主義が「現実からいかに乖離し、いかに倒錯しているか」を物語ると批判する。

しかし、もし原氏の考えに従い、危機脱出に成功しても満足する報酬を与えなければ、わざわざリストラを実行して嫌われ者になる経営者はいなくなる。しばらくはハッピーかもしれないが、いずれコスト高で破綻するしかない。そうなれば従業員すべてが路頭に迷うことになる。

経営者の判断がどれほど非情に見えようと、それは結果として会社を救うかもしれない。その場合は当然、米国なら米国、日本なら日本の相場に照らし、成果に見合う報酬が必要だろう。もし会社を救えなければ、その経営者は能力の劣った人物として市場から淘汰される。他人があれこれ口を出す必要はない。ましてや政府をステークホルダーとして取り込み、権力を使って身勝手な理想を押しつけようとするなど、傲慢でしかない。

原氏には『新しい資本主義』という著作もある。岸田首相のスローガンと関係があるかどうかは不明だが、日本に今必要なのは、こうした「ナントカ資本主義」のたぐいではなく、本来の自由な資本主義である。

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2021-10-31

国家という巨悪

生きることは闘うことだ (朝日新書)

国民から税を収奪する国家の本質は、みかじめ料を納めさせる暴力団と同じであるという考えは、西洋思想ではアウグスティヌスやマックス・ウェーバーをはじめ昔から言われていることだ。けれども日本では、お上に従順な一般市民はもちろん、専門の知識人や言論人ですらそれを理解している人は少ない。

しかし、例外はある。作家の丸山健二氏だ。1966年、当時最年少の二十三歳で芥川賞を受賞後、長野県に移住し、文壇とは一線を画した独自の創作活動を続ける「孤高の作家」として知られる。

丸山氏は発言集『生きることは闘うことだ』(朝日新書、2017年)で、こう言い切る。「国家はひとつの悪だ。それも巨悪だ。その悪に比べたらやくざの悪など実にちっぽけなものでしかない」(第二章)

先に国家の本質は暴力団と同じだと書いたが、その規模からいえば、暴力団(やくざ)は国家の足元にも及ばない。政府(国家)は社会において最大・最強の暴力を有する組織であり、その意味で丸山氏が言うとおり、他を圧する「巨悪」である。やくざとの違いは合法か非合法かにすぎず、法律は政府が作るのだから、自分の行為はすべて合法にできる。

多くの人は、国家が社会に秩序をもたらすと誤解している。丸山氏はその誤りを正す。「秩序と法を敬うことと、国家に盲従することは、一見似ているように思えても、その内容は大きく異なる」「大半の国民をただ羊のようにおとなしくさせておくだけの秩序ならば、断じて拒否すべきだ」(同)

安心を国家に保障してもらおうという考えも浅はかだ。丸山氏は言う。「安心を他者に求めることは却って危険を招く。自分では何もしないくせに庇護してくれそうな者を当てにするという、非常に醜悪な体質を改めない限り、国民の代表者たちはこれまで通りの、やれもしないことを次から次へと口走るばかりの、そしてその地位から得られる余禄が目当ての連中のみとなる」(第一章)

このように個人を突き放す厳しい発言は、昨今のメディアでは「自己責任論」と叩かれそうだ。しかし個人が他の個人との自発的な協力でなく、国家を頼って身の安全を図ろうとすれば、国家という暴力団はますます栄え、個人は結局食い物にされる。

最も甚だしい倒錯は、世界平和すらも国家に頼って実現しようとすることだ。丸山氏は「世界平和を口にするとき、絶対に目をそらしてはならないこと。それはどうしてこうもたやすく国家に従ってしまうのかという、ただこの一点にある」と喝破し、「そこに言及しない平和会議や平和集会は、単なる戯れ言の交換の場にすぎない。それどころか、もしかすると戦争を暗に容認する行為になるかもしれない」と指摘する(第二章)。

丸山氏の批判は、国家のお先棒をかつぐメディアや「専門家」にも向けられる。「ひっきりなしにテレビに登場するコメンテーターは、結局、国民を騙す側に身を置く、大悪党の手先の小悪党にすぎない。そもそもスポンサーや国家の影響を避けては通れないかれらに本音など言えるわけがなく、ましてや正真正銘の正義を唱える資格などあるはずもないのだ」(第一章)

本書はコロナ騒動が始まる前に出版されているが、まるで十分な根拠もなくコロナの恐怖を煽り、死亡を含む副作用の恐れを無視してワクチン接種を勧めるコメンテーターたちの登場を予言していたかのようだ。

丸山氏の発言すべてに賛同するわけではないものの、国家の本質をここまで正確に見抜き、恐れず発言する人物は、日本の文化人を見渡しても稀有といえる。最後に、七十代後半になっても衰えない丸山氏の若々しい正義感と闘争心が集約された文章を掲げる。

「すべての命は闘いつづけるために生まれたものであり、闘うこと自体が生きる証であり、意義であり、目的であって、しかし、真の人間として闘おうとした場合には、背中に正義を負わなければならず、そうなると、闘いの相手は当然悪ということになり、その最たるものである国家悪を避けては通れない」(第三章)

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2021-10-28

利他という取引

「利他」とは何か (集英社新書)

たいていの人は、利己的であることは悪いことで、利他的であることは良いことだと信じている。しかし実際はそう単純ではない。

伊藤亜紗氏(東京工業大学教授、美学)は共著『「利他」とは何か』(2021年、集英社新書) の「はじめに」で、「利他ということが持つ可能性だけでなく、負の側面や危うさも含めて考えなおすことが重要になってくるでしょう」と指摘する。

利他の「負の側面や危うさ」とは何か。伊藤氏は第一章で「特定の目的に向けて他者をコントロールすること。私は、これが利他の最大の敵なのではないかと思っています」と述べる。障害を持つ人々の心身を研究してきた同氏は、助けたいと言う思いが、しばしば「善意の押しつけ」という形をとり、障害者が、健常者の思う「正義」を実行するための道具にさせられてしまうという。

中島岳志氏(同、近代日本政治思想史)も第二章で、志賀直哉の小説「小僧の神様」などを例に取り、「哀れみによって利他的な行為をすると、その対象に対して一種の支配的な立場が生まれてしまう」と述べる。

それでは、どうすればいいのか。伊藤氏は「相手の言葉や反応に対して、真摯に耳を傾け、「聞く」こと以外にないでしょう。知ったつもりにならないこと。自分との違いを意識すること」と言う。さらに、「相手のために何かをしているときであっても、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っていること」が必要だと強調する。

伊藤氏のこの主張はそれなりに納得いくものだ。けれども、少し視野を広げてみよう。伊藤氏のいう「相手の言葉や反応に対して、真摯に耳を傾け」る姿勢や、「自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っている」態度が大切なのは、別に利他的な行動だけに限らない。利己的な行動の場合も同じように大切だ。

利己的な行動の代表として、商取引を考えてみよう。商取引で儲けようと思ったら、お客の言葉や反応に対し、真摯に耳を傾けるのは当然のことだ。また、自分で立てた生産・販売の計画に固執せず、常にお客のニーズを取り込む余裕も欠かせない。

つまり、伊藤氏の説く利他の心得とは、ビジネスに携わる普通の人々なら誰もが承知し、日頃から実践していることにすぎない。この事実が示唆するのは、利他と利己の間には、実はそれほど大きな違いはないということだ。

中島氏も「おわりに」で、利他と利己は「常に対立するものではなく、メビウスの輪のようにつながっています」と記す。利他的な行為には、時に「いい人間だと思われたい」とか「社会的な評価を得たい」といった利己心が含まれているという。

もしそうなら、そもそも利他と利己を対立させることに無理がある。利己的行為の多くは、何かを提供する見返りに、金銭を受け取る。利他的行為は、金銭の代わりに、相手の笑顔や感謝による精神的な満足を得る。どちらも広い意味での交換であり、取引だ。

利他的行為は見返りを求めないように見えても、実は精神的満足という対価を求めている。人間は対価を求めるように進化した生き物なのだから、当然だ。それならそうと割り切ったほうが気楽だし、偽善に陥らなくて済む。必要なのは、ビジネスと同じウィンウィンの関係だ。相手のニーズに耳を傾け、親切にして自分もハッピーになればいい。

『「利他」とは何か』は、東工大「未来の人類研究センター」の「利他プロジェクト」という研究グループの成果だという。厳しい言い方をすれば、利他という言葉をあえて押し立てること自体、その背後には、意識するしないは別として、利己に対する道徳的な偏見がある。もし利他と利己が地続きのメビウスの輪であれば、そのように鼻持ちならない優越感は持てないはずだ。

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2021-10-24

良い多様性、悪い多様性

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10月31日投開票の衆院選では、ダイバーシティ(多様性)が争点の一つだ。具体的には、夫婦別姓制度や同性婚、LGBTQ(性的少数者)の尊重などに向けた法整備への各候補の立場が問われているという。

最近、多様性というと、このように性に関わる多様性とほぼ同義になってしまっている。海外ならこれに人種・宗教に関わる多様性が加わるくらいだろう。

しかし、政治の場で決して問われない多様性がある。それは今で言えば、新型コロナウイルスワクチンに対する意見の多様性だ。

厚労省の10月22日の発表によると、新型コロナワクチン接種後の死亡者数は10月15日までにファイザー 、モデルナ製合計で1312人となった。いつものように、ワクチン接種と死亡の因果関係は大半が「情報不足等で評価できない」とされ、因果関係が認められたものはない。

接種後に1300人を超す死者が出ていて、ワクチンとの「因果関係がない」と言い切れるならともかく、理由がよくわからないにもかかわらず、政府は接種を中止するどころか、推進の姿勢を改めようとしない。これは異様な光景だが、さらに異様なことに、メディアで警鐘を鳴らす声がほとんど聞こえない。

朝日新聞は衆院選をテーマとした「多様性のありか」と題する記事で、新型コロナの影響で授業はほぼオンライン、バイト先の焼き鳥屋は閉店の憂き目にあった東京都内の20歳の男子大学生を取り上げ、「ワクチンをいつ接種できるか、スマホで毎日調べた」と書く。

若い人はコロナ感染症で死亡・重篤のリスクはきわめて低い一方、ワクチン接種後に死亡や心筋炎などの症状が報告されている。それにもかかわらず、朝日の記事はワクチンを打とうと焦る大学生に対し、何の警告も発しない。

また、ワクチン接種後の重篤報告数は、女性が男性を大きく上回る。妊娠や出産への影響も明確に解明されていない。ところがメディアは日ごろ、多様性尊重の一環で女性差別反対を叫んでいるにもかかわらず、ワクチンによる不妊や流産のリスクを警告する声に対しては、「デマ情報」とレッテルを貼り、封殺しようとする。

どうやら政府やメディアにとって、多様性には良いものと悪いものがあるようだ。選挙の票に結びつく夫婦別姓制度や同性婚、LGBTQなどは良い多様性であり、ワクチン推進など政府の意向に反する異論・批判は悪い多様性だ。要するに、彼らは本気で多様性が大切だなどと信じてはいない。本当に欲しているのは画一性なのだ。

2021-10-21

『イカゲーム』〜極限状況における選択


ネットフリックス配信の韓国ドラマ『イカゲーム』が世界的なヒットとなっている。独特のビジュアルの美しさや、命懸けのサバイバルゲームの描写が話題で、それらももちろん楽しめる。しかしドラマとしての感動の源泉は、別のところにある。

(以下、ネタバレあり)

ドラマの設定に物足りない点はある。たとえば残酷なサバイバルゲームを観覧して楽しむ、下衆な大金持ちたちの描写があまりにも陳腐だ。全員が仮面をかぶっているものの、見たところいずれも白人男性で、黒人や女性は誰もいない。最近流行のダイバーシティ(多様性)は、こういうときにはなぜか重視されない。

しかしそうした欠点を補って余りある感動を与えるのは、極限状況における登場人物たちの苦悩と決断、そして行動だ。

それは美しく道徳的な行動だけではない。むしろ卑劣で醜い行いもある。とりわけそれが明白になるのは、ドラマの後半、二人一組で行うゲームだ。登場人物たちは二人で協力して他の敵を倒すゲームだと思い込み、親しい者同士で組んだところ、互いに戦うよう告げられる。負けた方を待つのは死だ。

ある人物はわざと負け、相手の命を救う。しかしそのような美しい話だけではない。別の人物は、自分を慕い、信頼しきっている相手を裏切る。この人物は決して薄情な人間ではなく、以前相手に親切にしてやったからこそ慕われている。そんな人物でも追い詰められれば卑劣な行為に手を染める現実を、ドラマはしっかりととらえる。

ドラマが世界でヒットした理由についてさまざまに考察される中で、随所にキリスト教を暗示するモチーフが隠されているからという指摘は興味深いが、ややこじつけの感もある。このドラマとの関連でキリスト教と聞いて思い出すのは、「ペテロの否認」だ。

「ペテロの否認」の逸話は新約聖書にある。イエスが捕らえられた際、最愛の弟子の一人ペテロは師との関係を問われ、命惜しさに三度も否定し、のちに悔恨の涙を流す。人間は精神的に弱い存在だが、同時にその弱さを恥じ、より良く生きようとする心を持っている。

『イカゲーム』でも登場人物中、最も情に厚く正義感に富む主人公が、二人一組のゲームでついに卑怯な行為を行い、深く後悔する。その姿は弱さをさらけ出したペテロと同じく、心を打つ。

このドラマが世界の人々の共感を呼んだのは、俳優たちのすばらしい演技を通して伝えられた、極限状況の下でも人間は人間らしく生きることを選択できるという普遍的なメッセージゆえに違いない。

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2021-10-19

新しい資本主義、古い縁故主義

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岸田文雄首相は今月、就任後初めての所信表明演説を行い、「新しい資本主義」を実現すると強調した。しかし、自信満々打ち出された「新しい資本主義」の正体は、新しくもなければ、資本主義ですらない。

なぜ今、「新しい資本主義」を目指さなければならないのか。岸田首相によれば、その一つの理由は、「新自由主義的な政策」が「富めるものと、富まざるものとの深刻な分断を生んだ」といった弊害が指摘されているからだという。

「新自由主義」とは定義のあいまいな言葉だが、世間一般のイメージに従い、政府が市場経済に介入しない「野放しの資本主義」だとしておこう。たしかに、「野放しの資本主義」の下では、結果の平等は保証されないから、「富めるものと、富まざるもの」との格差は生じる。

けれども、その格差が「深刻な分断」ととらえられ、社会問題となることはない。「野放しの資本主義」は、社会の豊かさを底上げし、貧困をなくす力を持っているからだ。近代の産業革命以降、世界から貧困が大きく減り、今もグローバル資本主義の下で減り続けている。これは「トリクルダウン理論」などではなく、紛れもない事実だ。

経済上の「深刻な分断」を生んだのは、「野放し」の自由な資本主義ではない。政府だ。政府が「貧困をなくす」「安心な社会を作る」「経済を成長させる」など耳に心地よいスローガンを掲げて経済を縛り、自由を奪った結果、資本主義という鶏は健康を害して痩せ細り、豊かさという卵を生まなくなってしまった。それが問題の本質だ。

ところが岸田首相は的外れにも、問題解決のためには「分配」が重要だと主張する。「成長の果実を、しっかりと分配することで、初めて、次の成長が実現」するという。

けれども当たり前の話だが、何かを分配するには、まずその何かを生み出さなければならない。豊かさという果実を分配したければ、まず豊かさを生まなければならない。岸田首相は「分配なくして次の成長なし」と強調するが、そもそも初めに成長がなければ分配はできない。

そしてその成長を生み出せるのは、「野放しの資本主義」だけである。政府にはできない。自律的な経済成長は消費者のニーズに支えられなければならないが、政府のあらゆる政策は、消費者のニーズではなく、政治的な動機に基づいている。

たとえば、岸田首相は成長戦略の柱として科学技術立国の実現を掲げ、「十兆円規模の大学ファンド」を設置するほか、デジタル、グリーン、人工知能、量子、バイオ、宇宙など先端科学技術の研究開発に「大胆な投資」を行うという。けれども政府はこれらの投資の配分を消費者のニーズではなく、政治的なしがらみによって決めるから、過去の「官民ファンド」などと同様、失敗は目に見えている。

ここにあるのは結局、昔ながらの官民癒着だ。「新しい資本主義」とは要するに、古い縁故主義の看板を架け替えたものでしかない。

2021-10-17

LGBTQ関係者の人種差別


米黒人スタンダップ・コメディアンのデイヴ・シャペルはまたもや、LGBTQ(性的少数者)差別に対する意識の高い人々の標的になった。彼はネットフリックスの特番『これでお開き』で、偉大なコメディアンなら誰もが期待されることをただやっただけにすぎない。すなわち、普通の人では思いつかなかったり世間を恐れたりして口に出せない真実を、ユーモラスに語ることだ。「ゲイが少数派であるのは、白人に戻らなければならないときまでだ」という発言は、無慈悲なまでに核心を突いている。シャペルはトランスジェンダー女性であるケイトリン・ジェンナー(元五輪金メダリスト、ブルース・ジェンナー)についてもジョークを飛ばした。「女性になって一年目に『ウーマン・オブ・ザ・イヤー』を受賞した。生理も経験したことがないのに」。これはシャペルから見れば、白人ラッパーのエミネムが「ニガー・オブ・ザ・イヤー」を受賞するようなものだという。

ジャクリーン・ムーアはトランスジェンダー女性で、ネットフリックスの反差別コメディシリーズ『親愛なる白人様』のショーランナー(制作責任者)だ。ムーアはデイヴ・シャペルの特番にネットフリックスがゴーサインを出したことにショックを受け、会社側に番組の一部削除や修正など何らかの対応を求めた。多くの人々は初めて、「反白人」と批判される『親愛なる白人様』の制作責任者が実は白人だったと知った。ムーアは社会正義を唱えておきながら、黒人であるシャペルを排除しようとしたことで、嘲笑されている。シャペル自身、特番の中でLGBT関係者による人種差別をからかっていた。

サッカーの花形選手のように、優れた黒人スタンダップ・コメディアンであるデイヴ・シャペルは「カネになる」。それも大金だ。クリス・ロック、ケヴィン・ハート、カット・ウィリアムズといった同時代人と同様、米国のアフリカ系芸人には一種の強い引力、商業的・文化的な影響力、国際的な厚いファン層がある。配信会社やプロデューサー、スポンサーも簡単に排除はできない。リチャード・プライヤー、エディ・マーフィーといった伝説の黒人芸人や、ビル・バー、ルイス・C・Kら物議を醸すとがった白人コメディアンの特番によって、ネットフリックスは少なくともコメディに関する限り、言論の自由の擁護者のような存在になりつつある。

(各記事より抜粋・要約)

2021-10-16

免疫はワクチンより自然感染で


新型コロナウイルスを含むSARS型ウイルスへの自然感染で生じる免疫(感染後免疫)は、一般にワクチンよりも強力で、長期間続き、変異に対しても広く効果を発揮する。以下はそれを示す30の研究である。(カッコ内は掲載媒体)

1. 新型コロナウイルスへの感染で生じるIgG抗体と中和抗体(NAb)は、感染症から回復した人の95%以上で、発症後6カ月から12カ月の間、持続する可能性がある。また、症状が重いほど、回復後の抗体とT細胞の記憶は強くなる。(Clinical Infectious Diseases)

2. 新型コロナに感染せずワクチンを接種した人は、感染したことのある人に比べ、デルタ型へのブレークスルー感染のリスクが13.06倍になった。感染後免疫はファイザー製ワクチンの二回接種よりも、デルタ型への感染・発症・入院に対し、より長期の強力な防御を提供する。(MedRxiv)

3. 米ウィスコンシン州で新型コロナのアウトブレイク(集団感染)について調査を行ったところ、ワクチンを接種した人がデルタ型を伝播する可能性が示唆された。(MedRxiv)

4. 新型コロナに感染したことのある人は、ワクチンの恩恵を受ける可能性は低い。ワクチンは未感染者に優先的に接種して差し支えない。(MedRxiv)

5. ファイザー/ビオンテック製のmRNAワクチンを接種した人は、感染者に比べ、抗体レベルの動態が異なる。 接種直後の抗体レベルは高いものの、指数関数的に急低下する。(MedRxiv)

6. 感染でもワクチン接種でも、自然免疫と適応免疫はしっかりと生じるが、質的に大きな違いがある。感染者の免疫反応は、ワクチン接種者ではほとんど見られなかったインターフェロン反応が非常に強化されている。(Cell)

7. 新型コロナへの感染は、T細胞依存型のB細胞反応をもたらす。長命の骨髄形質細胞(BMPC)に支えられ、安定したレベルの血清抗体が維持される。(Nature)

8. 新型コロナ感染症患者254人について調査したところ、広範な免疫記憶反応が優勢であることがわかった。スパイク結合抗体と中和抗体の半減期は200日以上と長く、寿命の長い形質細胞の生成が示唆された。ウイルスへの再暴露時に迅速な抗体反応が得られることも示唆された。(MedRxiv)

9. ワクチンを接種した人と感染歴のある人の間には、感染率の差はなかった。(MedRxiv)

10. 自然感染によって生じるCD8T細胞クローンの拡大は、mRNAワクチンの場合よりも大きい。mRNAワクチンに比べ、ウイルスの示すエピトープ(アミノ酸配列)がより広範なためとみられる。(BioRxiv)

2021-10-03

百年の平和を築いた思想


1814年9月、欧州諸国の代表がオーストリアの首都ウィーンに集まった。フランス革命とそれに続くナポレオン戦争から生じた混乱を収拾し、欧州の新しい秩序を建設しようとする「ウィーン会議」である。

「会議は踊る、されど進まず」と風刺されたように、会議は初め大国間の利害対立のため難航したが、翌1815年、ナポレオンの再挙兵を機に議定書の調印が実現した。議定書では、フランス革命以前の政治秩序の回復を目指すとともに、大国の勢力均衡による国際秩序の平和的維持が追求された。これをウィーン体制という。

ウィーン体制の成立から1914年7月に第一次世界大戦が勃発するまでの約百年は、欧州が長期にわたる平和と経済の繁栄を享受した時代だった。それを支えたのは、ナポレオン戦争の悲惨な経験を繰り返したくないという人々の思いだけではない。自由主義と呼ばれる思想の隆盛が大きく貢献した。

自由主義とは、個人の自由な行動が社会の発展をもたらすとする思想だ。とくに経済活動にさまざまな規制を加えず、自由な活動を認めるよう強調した。スコットランドの経済学者アダム・スミスは『国富論』(1776年)で自由な貿易は国を豊かにすると説き、ナポレオン戦争後の欧州で影響力を広げる。

スミスの思想を深め、行動に結びつけたのはマンチェスターの織物業者リチャード・コブデンである。コブデン自身、後述するように、その思想と行動が欧州各国の自由主義に強い影響を及ぼしていく。

コブデンは1804年、サセックスで貧しい農家の息子として生まれた。極貧の中で育ち、正式な教育はほとんど受けていない。若くしてロンドンでキャラコ染の販売会社が成功し、マンチェスターで豊かな生活を送るようになった。その財産で世界旅行を始め、欧州の多くの国や米国、中東を訪ねる。旅上で執筆した小冊子で自由貿易、平和、対外不干渉に基づく新たな外交政策の考えを支持し、反響を呼んだ。

1839年、英国に戻り、穀物法の撤廃に賛同する。穀物法は1815年に制定された国産農業保護法。ナポレオン没落後の大陸封鎖令廃止で安価な大陸産穀物が流入するのを防ぐため、地主や農家の働きかけで、輸入穀物に高関税を課した。関税によって食料・穀物の値段は人為的につり上げられ、国内の農家を潤していた。

コブデンは、穀物法は英国民の食料価格を押し上げ、農業以外の産業の妨げになっていると主張。ジョン・ブライトとともに廃止運動の先頭に立つ。コブデン、ブライトらマンチェスターの産業資本化を中心とする自由貿易論者をマンチェスター派と呼ぶ。

1841年、コブデンは庶民院(下院)の国会議員に当選。コブデンと彼が率いる反穀物法同盟に対する国民の支持は広がり、1846年、ついに穀物法は廃止される。廃止後のイギリス経済は心配された農業への打撃もなく、黄金時代を享受していく。

コブデンの運動はフランスに刺激を与えた。1845年、ジャーナリストのフレデリック・バスティアは小冊子で穀物法廃止運動を紹介する。バスティアはアダム・スミスを信奉し、風刺の利いた多くの記事で、自由主義の利益と保護主義の害悪を説いた。ロウソク業者が政府に対し太陽との競争を防いでくれと請願する寓話は有名だ。

ドイツで自由貿易運動の中心人物になったのは、ジョン・プリンススミスである。イギリス生まれのプリンススミスはドイツに移住し、ベルリンでジャーナリストになる。イギリスで穀物法が廃止された1846年、コブデンの反穀物法同盟にならい、多くの財界人や言論人を集めてドイツ自由貿易協会を設立した。プリンススミスはフランスのバスティアの影響も受け、1850年にその著作を翻訳・出版している。

プリンススミスによれば、経済の発展には資本の蓄積が必要だが、政府の介入や重い税金は、資本の蓄積を阻害し、貧困を生み出す。とくに大きな妨げになるのが軍事費だとして、プリンススミスは反軍国主義の立場を長く貫いた。これはコブデンらマンチェスター派やバスティアにも通じる姿勢だ。

イギリスのコブデンは穀物法廃止後、活躍の場を海外に広げる。フランスの皇帝ナポレオン三世に謁見して自由貿易の利益を説き、1860年1月、世界初の自由貿易協定である英仏通商条約の締結に成功した。コブデン条約とも呼ばれるこの条約で両国の航海と通商の自由を定め、商品の関税を互いに引き下げた。

同条約の影響は大きかった。1862〜1866年にかけてフランスは各国と自由貿易条約を相次いで結んでいく。相手はドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、スイス、スペイン、ポルトガル、スウェーデン、ノルウェーなどだ。これら諸国の多くも互いに貿易自由化に踏み切り、欧州では自由貿易が急拡大していく。

もう一つ、急拡大したのは移動の自由だ。フランスはコブデンの働きかけもあり、1861年、パスポート(旅券)とビザ(査証)をともに廃止した。産業革命で鉄道網が急速に発展し、移動の自由に対する要求が強まっていたことが背景にある。他の欧州諸国もフランスに追随し、20世紀初めには欧州全域でパスポートはほとんどなくなった。

コブデンらマンチェスター派の議論の出発点は、自由貿易による市場の拡大にあったが、そこから発展して独自の平和理論を築いていった。自由貿易による社会諸階級の利害の調和、自由貿易による各国の相互依存の深化がもたらす国際平和、国際平和のもとで可能となる軍事支出の節減、外国の紛争への不干渉主義などである。

コブデンは穀物法廃止を果たした1846年の演説で、自由貿易が世界平和をもたらすという信念をこう語っている。「夢かもしれませんが、遠い未来、自由貿易の力は世界を変え、政府の仕組みは今とまったく違うものになっているかもしれません。強大な帝国も大規模な軍隊もいらなくなるでしょう」

コブデンは1865年に死去する。その頃には自由主義が欧州を支配し、戦争はほとんどなくなっていた。コブデンの夢はかなったように見えた。

残念ながらその半世紀後、未曾有の大戦勃発で世界は戦争の世紀へと突き進んでいく。今も各地で戦火は絶えない。世界から戦争をなくすうえで、平和の百年を築いた自由主義の思想は貴重なヒントになるはずだ。=連載おわり

<参考文献>

(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

2021-09-18

「死因となった証拠なし」

Unreported Truths About Covid-19 and Lockdowns: Part 4: Vaccines (English Edition)

短期の副反応が多く発生したからといって、必ずしもメッセンジャーRNA(mRNA)ワクチンが命にかかわることを意味するわけではない。しかし臨床試験で人々に重い副反応が生じた事実は、強い免疫反応を起こす恐れがあることを示す。原因が脂質ナノ粒子か、mRNA自体か、何か他の理由かは別として。(ジャーナリスト、アレックス・ベレンソン)

長期の臨床試験データがない以上、副反応の報告は、新型コロナワクチンに生じうる問題を見つける最善にしておそらく唯一の手段だ。ワクチン有害事象登録システム(VAERS)のデータベースには、既往症のない相対的に若い人が接種後まもなく死亡した例が含まれている。たとえばテキサス州の51歳の女性だ。(同)

副反応報告にある女性の死は、単なる偶然かもしれない。接種しなくても亡くなっていたかもしれない。他の似た例もやはり偶然なのかもしれない。だが少なくとも真剣な調査には値するだろう。ところが米疾病対策センター(CDC)は「ワクチンが患者の死因となった証拠はない」と型通りの声明で片付ける。(同)

米国の多くの州は、陽性判定から30日または60日以内の死亡をすべてコロナによる死と分類する。何の症状もなく、撃たれて死んでもだ。しかしワクチンの場合、医療専門家は死とのどんな関係も過少評価しようとする。ソーシャルメディアは投稿や動画を躍起になって規制する。(同)

アストラゼネカ製ワクチンに関する欧州での副反応報告は、米国でのファイザー、モデルナ製品の重い副反応の一部に似ている。血小板減少症や血栓症だ。欧州のデータベースによると、今年3月中旬時点でファイザーはアストラゼネカより副反応報告が多く、死亡や心臓死も多い。(同)

2021-09-17

利害相反の抜け道

Virus: Vaccinations, the CDC, and the Hijacking of America's Response to the Pandemic (English Edition)

トランプ米大統領が新型コロナワクチン開発加速のため始めた「ワープスピード作戦」のメンバーは、製薬業界の幹部社員と業界出身の政府職員で占められていた。社員は希望すれば保有株を持ち続けられた。取引業者の扱いなので、政府職員の利害相反規定に服さなくてよかった。(ジャーナリスト、ニーナ・バーレイ)

ワープスピード作戦の責任者を務めたスラウイ氏はモデルナ社の役員だった。同社の株価は税金の獲得を受けて急騰したが、同氏は1万8270株を買うオプションを手に入れた。2018年以来集めた13万7168株のオプションに加わるものだ。モデルナ退任の際、800万ドルを得たとされる。(同)

ワープスピード作戦の顧問でファイザー社員のエアハルト、ハリガン両氏は同社株の権利を持ち続けていた。同社はワクチン1億回接種分の代金として米厚生省から20億ドル近い契約を獲得。ワクチン安全委顧問のホイットリー氏は治療薬レムデシビルの製造元ギリアド社に関係がある。(同)

ワープスピード作戦の顧問デノタリステファニ氏は、トランプ大統領が治療薬として承認したヒドロキシクロロキンの製造元テバ社の出身。米食品医薬品局(FDA)元長官のゴットリーブ、マクレラン両氏は政府に非公式に助言したが、ともにコロナワクチン製造会社の役員を務める。(同)

2020年11月9日、ファイザー社がワクチンは90%以上有効と発表した当日、同社CEOのブーラ氏は保有株の62%を売却した。その日は良いニュースを受け株価が15%上げていた。同氏を含む幹部七人は同年中に株売却で合計1400万ドルを手にした。(同)

2021-09-16

政府は寄生する

Against the State: An Anarcho-Capitalist Manifesto (English Edition)

政府を企業のように運営することはできない。社会は利益と損失という試験によって資源配分を決定するが、官公庁はその手段がないため、生産の対象、数量、場所、方法をどう決めればよいかわからない。(ミーゼス研究所創設者兼会長、ルウェリン・ロックウェル)

政府は国民をそそのかし、道徳のルールには二種類あると信じ込ませる。一つは子供の頃に学ぶもので、暴力や盗みを禁じる。もう一つは政府だけにあてはまるもので、政府だけがあらゆる手段で穏やかな人々を攻撃してよいとする。

政府は国民に国旗を振り、国歌を歌って政府を称えるよう教える。それによって、政府による収奪や非道に抵抗するのは反逆だという考えを助長する。

政府とは国民に寄生し、その富を食い物にする組織である。反社会的で略奪をなりわいとする本性を、公益という隠れみのに隠している。

経験の示すところによれば、「小さな政府」は不安定な均衡だ。政府は規模を拡大して権力と富を増やせるなら、小さなままでとどまることに興味はない。

2021-09-15

社会は自由、政府は暴力

Liberty and Property (LvMI) (English Edition)

社会の本質とはサービスを互いに交換することだ。個人は選択の機会がある限り、自由である。暴力やその脅しによって交換の条件を諦めるよう強いられたなら、どう感じるかにかかわらず、自由ではない。(経済学者、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス)

政府の本質は自由の否定である。政府は暴力や暴力の脅しに訴え、すべての人々を自分の命令に従わせようとする。それを人々が望もうと望むまいとだ。政府の支配圏が広がるにつれ、増えるのは強制だ。自由ではない。(同)

政府は自由とは正反対である。人を殴り、投獄し、縛り首にする。政府が何をなそうと、最後に支えるのは武装した警官の行動だ。政府が学校や病院を運営すれば、必要な財源は税によって集める。つまり市民に支払いを強要する。(同)

経済権力の集中という議論は無益だ。大きな企業ほど、より多くの人々に奉仕し、消費者・大勢・大衆を喜ばせることが大きなよりどころになる。経済権力は、市場経済においては消費者が握っている。(同)

産業のイノベーションが官僚によって考案・実践されたことはかつてない。経済を停滞させたくなければ、今はそれが誰かわからなくても、人間をもっと満足できる状況に導くことのできる創意工夫を備えた人々に、行動の自由を与えなければならない。(同)

<邦訳書>

2021-09-14

形だけの資本主義

A Critique of Interventionism (English Edition)

経済介入政策は土地や機械の私有を維持しつつ、当局の指令で所有者の行動を規制しようとする。重要な決定がすべて指令の線に沿って行われるようになれば、資本家の利潤追求ではなく、政府の都合で生産の対象や方法が決められる。私有が形だけ維持されても、それは社会主義だ。(経済学者、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス)

政府が命令しても無から何かを生み出すことはできない。政府が不換紙幣を刷れば人を豊かにできると信じるのは、お人好しのインフレ主義者だけだ。政府は何も生み出せない。政府は人を豊かにすることはできない。できるのは人を貧しくすることだ。(同)

政府がある商品に価格統制令を出せば、供給統制令、配給令だけでなく、商品を生産する機械の価格や労賃への規制、労働統制まで必要になり、あらゆる産業に広がる。政府は市場経済への介入を控えるか、すべて統制するかのどちらかだ。資本主義か社会主義かだ。中間の道はない。(同)

労働組合による最低賃金の強制に効き目がなければ、失業は労働市場に圧力を及ぼし、人為的に押し上げられた賃金を自然な市場水準まで引き下げる。失業は摩擦現象であり、政府の介入しない市場であればすぐに消えるが、介入政策の下ではいつまでも続く習い性となる。(同)

政府の経済介入政策が失敗しても、経済の専門家でない人は、かえって私的所有を厳しく制限するべきだと確信を強める。規制官庁が腐敗しても、政府は間違いを犯さず完璧であるという盲目的な思い込みはびくともしない。企業家と資本家に道徳的な嫌悪感を募らせるだけである。(同)

2021-09-13

戦争というペテン

War Is a Racket: The Antiwar Classic by America's Most Decorated Soldier (English Edition)

戦争はペテンだ。いつもそうだった。おそらく最も古く、明らかに最も儲かり、間違いなく最も残虐なペテンだ。国家間の規模のペテンは戦争しかない。利益がカネで、損失が命で勘定されるいかがわしい商売は戦争しかない。(元米海兵隊少将、スメドレー・バトラー)

ペテンは、多数の人に見えているものとは違う。少数の「内部」集団だけがその正体を知っている。ごく少数の者の利益のために実行され、そのコストは非常に多くの者がかぶる。戦争ではひと握りの人間が巨大な富を手に入れる。(同)

戦争の結果、国は勝てば新たな領土を手に入れる。ただ手に入れる。この新たな領土をすぐさま搾り取るのは、例の少数の人々である。戦争の流血で金儲けしたのと同じ少数者だ。一般大衆が勘定を払う。(同)

一般大衆が戦争で払う勘定はとんでもないものだ。新しい墓。押しつぶされた体。ずたずたになった精神。破壊された心と故郷。不安定な経済。不況とそれに伴うあらゆる不幸。何世代にも及ぶ重い税。(同)

戦争の重い勘定を払う普通の人にとって、複雑な国際関係にかかわらないほうが、はるかに安上がりだったろう。ごく少数の者にとってこのいかがわしい商売は、裏社会の稼業同様、たっぷり儲かる。しかしその商売のコストはいつも、儲からない大衆に回される。(同)

<邦訳書>

2021-09-11

報道かプロパガンダか

A State of Fear: How the UK government weaponised fear during the Covid-19 pandemic (English Edition)

恐怖はよい記事になる。メディアは恐怖モード全開になりやすい。恐怖は読者を引き込む。それはメディアにとって短期でメリットだが、最後には公衆、政府、メディアの微妙なバランスを破壊する。ロックダウン(都市封鎖)と規制が長引くほど、メディアの広告・購読料収入は減少する。(ジャーナリスト、ローラ・ダズワース)

英国では2020年3月23日〜6月30日のロックダウン中、伝統的な広告収入は48%減少した。この間、イングランド公衆衛生庁が英最大、英政府が六番目の広告主となった。スナク財務相は同年4月、政府がコロナ関連の新聞広告キャンペーンに3500万ポンドを投じると発表した。(同)

2020年4月、英通信情報庁(Ofcom)はコロナ関連報道に関し厳しい指針を公表した。放送局に対し「有害な恐れのあるウイルス関連報道、有害な恐れのある医療上の助言、番組中のウイルスやウイルス対策に関する重大な誤解」について警戒するよう要請した。(同)

言論の自由が大切なのは平穏無事なときだけではない。伝染病の流行時にも大切だ。それどころか、危機のときこそ手放さないようにしなければならない。放送局は政府の価値判断に左右されず、異なる見方を伝えることができなければならない。(同)

英BBCは政府見解に逆らう報道を拒んだ。よその国がやったら、英メディアが非難するような行為だ。開かれた討論を認めなければならない。公衆に情報を提供し、科学的な議論を促さなければならない。政治的主張を広めるために偏った情報を伝えるだけなら、それはプロパガンダだ。(同)

2021-09-10

ビスマルクの反自由主義

Wilson's War: How Woodrow Wilson's Great Blunder Led to Hitler, Lenin, Stalin, and World War I I (English Edition)

ドイツ帝国の首相ビスマルクは他の誰よりも、世界を自由放任、自由貿易、平和の原則から遠ざけ始めるうえで大きな役割を果たした。彼は保守派とされるが、社会主義が政府の力を強化し、実在・仮想の敵を破るために役立つと考えた。彼が加速した潮流は世界大戦の勃発を招く。(歴史家、ジム・パウエル)

独歴史家トライチケは政府支配下のベルリン大学の教授で、強い政府の使命は領土の拡大だと宣言。プロイセンの領土獲得に向け運動した。1884年、ビスマルクは海外への帝国拡大に乗り出し、南西アフリカを保護国とする。イタリア、ベルギーその他諸国が領土の奪い合いに参加した。(同)

帝国主義の支持者が引用した保護主義の経済学者フリードリヒ・リストはこう述べた。「企業はドイツの港町で設立し、外国の土地を買い、ドイツの植民地にしなければならない」「植民地は最善の手段だ。製造業にとっても、輸出・輸入の貿易にとっても、立派な海軍にとっても」(同)

社会主義者は帝国主義を資本主義のせいにする。だが征服者たちが世界を略奪してきたのは、市場経済の誕生より何百年も前からだ。ノルウェー、スウェーデン、デンマークが高い生活水準を記録したとき、帝国ではなかった。ドイツが資本を輸出したのは海外に帝国を獲得した後だ。(同)

経済的にいえば、植民地の多くは敗者だった。貿易が少なく、防衛とインフラ建設のコストが高かったからだ。帝国主義が競争で求めたのは権力と威信であり、富ではなかった。英国、フランス、ドイツ各帝国の野望は中東、アフリカ、アジアでぶつかり、ロシアは日本とぶつかった。(同)

2021-09-09

製薬産業と政治家

Jabbed: How the Vaccine Industry, Medical Establishment, and Government Stick It to You and Your Family (English Edition)

米ブッシュ一族のワクチン産業に対する忠誠心は誰にも劣らない。1970年代、ブッシュ父は医薬大手イーライ・リリーの役員だった。ブッシュ息子の政権下で同社の元役員ミッチ・ダニエルズは行政管理予算局長を務めた。同社CEOのシドニー・タウレルは国土安全保障諮問委員だった。(作家、ブレット・ウィルコックス)

2002年12月、米国土安全保障省を創設する法律が成立する際、何者かが付帯条項を紛れ込ませ、イーライ・リリー社のワクチンに含まれるチメロサール(有機水銀化合物)で被害を受けた子供たちの親が提訴した数百件の未解決訴訟から同社を免責しようとした。(同)

息子ブッシュ米大統領は突然、1100万人の軍関係者と緊急時対応要員に天然痘ワクチンを接種すると発表した。ワシントン・ポスト紙によると、ブッシュ大統領の狙いは生物兵器の攻撃から前線の兵士を守り、対応力を向上させることにあるという。(同)

元製薬会社社員ローリー・パウエルの2016年の記事によると、製薬業界のロビー活動費は年々増え、2009年には2億7300万ドルと過去最高に達した。政治家は政策に影響はないと言うが、それは違う。米国で癌の治療費が他国の600倍もかかるのは、政治的な見返りの結果に他ならない。(同)

製薬業界によるロビー活動のもう一つの政治的見返りは、政府が特許薬に法外な金額を払い続けることだ。また、製薬業界のマネーは、ワクチンメーカーを免責するワクチン健康被害補償法の制定にも一役買った。(同)

2021-09-08

ビスマルクの国家社会主義

Tethered Citizens: Time to Repeal the Welfare State (English Edition)

ビスマルクは1871年、プロイセン主導でドイツを統一した。彼の社会福祉政策は17〜18世紀プロイセンの先例に基づいており、英米をはじめ西洋諸国のモデルとなった。しかしビスマルクはおそらく、福祉国家に熱狂する人々が手本として選ぶような人物ではなかった。(作家、シェルドン・リッチマン)

ドイツ帝国の宰相ビスマルクは情け知らずで弾圧や権謀術数を好み、無節操な政治家の典型だった。政治手腕はさすがで、国内外の政敵を互いに対立させ、都合に応じてその場限りの合従連衡を繰り返し、ドイツのために大いなる計画を推し進めようとした。(同)

国家社会主義の性質は保守的である。イノベーションと伝統破壊を止めたがる。マルクス社会主義が流血革命で既存秩序を根こそぎ転覆させることしか考えないとすれば、国家社会主義はささいな騒動の兆しでも警察を呼び出す。これはビスマルクの率いた体制にぴったりあてはまる。(同)

ビスマルクは自分の政策が社会主義と重なることを否定しなかった。「社会主義者から賢明な方法で未来を形造る建設的な提案があり、それが多くの労働者の暮らしを改善するものであれば、前向きに検討するのはまったくやぶさかでない」とビスマルクは述べた。(同)

福祉国家は社会民主主義を水際で食い止めるだけの手段ではなかった。1878年、ビスマルクは社会民主主義者から市民の自由を奪う法律を成立させた。社会民主党は非合法となり、出版、言論、集会の自由は禁じられた。煽動者とみなされると追放された。銃の所有は規制された。(同)

2021-09-05

フランス革命の光と闇


フランスのパリにある自由の女神像。フランスがアメリカの独立百周年を記念して贈った自由の女神像の返礼として、パリに住むアメリカ人たちがフランス革命百周年を記念して贈ったものだ。

1789年に始まったフランス革命は旧来の王制を倒し、近代市民社会の基礎を築いた。革命の光の部分だ。一方で、闇の部分もあった。暴力で反対者を弾圧する「恐怖政治」の発生だ。ギロチン(断頭台)はその恐ろしい象徴である。

自由の理念を掲げるフランス革命は、なぜ恐怖政治の闇を生んでしまったのだろうか。その原因は、自由の理念自体にあるのではない。革命政府が自由を十分に守らなかったことにある。守られなかった自由とは、経済活動の自由だ。

革命の経緯を簡単に振り返ろう。七年戦争でイギリスに敗れたフランスは、イギリスに対抗してアメリカの独立戦争を支援したが、多額の戦費で財政が悪化する。国王ルイ16世は課税の承認を求めて、1615年以来召集していなかった三部会を1789年5月に開く。三部会とは聖職者、貴族、平民の代表からなる身分制議会だ。しかし議決の方法をめぐって対立し、平民の議員を中心に、国民議会が形成される。

国民議会が憲法の起草を求めると、貴族と国王はこれを弾圧しようとした。このため、食料危機などに不満を抱いていたパリの民衆は7月14日、武器弾薬を求めて圧政の象徴とされたバスティーユ牢獄を襲撃し、フランス革命が始まった。8月、国民議会は封建的特権の廃止と人権宣言の採択を相次いで決めた。

革命は初め、立憲君主制をめざしたが急進化していく。1791年9月、男子普通選挙による国民公会が成立し、共和制の成立が宣言される。93年1月、ルイ16世は処刑された。

この間、庶民は食糧の不足と値上がりに苦しんだ。食糧事情は1789年に深刻化した後、90年、91年は緩和されたが、91年の不作が92年に影響し、民衆がテュイルリー宮殿を襲撃し国王らを捕らえた同年8月には絶頂に達した。革命期の重大な民衆行動の多くが夏から秋にかけての端境期に起こっており、食糧問題がいかに重要だったかを示している。

財産家や商人に対する民衆の攻撃が激しくなるにつれて、食糧の出回りはかえって悪くなり、値上がりが続いた。93年になるとパンの入手は困難になった。

庶民生活の困難のなかから、過激派(アンラジェ)と呼ばれる一団が生まれた。僧侶出身のジャック・ルーをリーダーとする過激派は、買い占め人、投機業者、財産家を目の敵にし、議会に迫って死刑を含む厳しい罰則で処罰すること、物価の統制、配給制の実施を求めた。

一方で過激派は買い占め人の襲撃や輸送中の物資の略奪、その安価な分配などの実力行動をたびたび展開した。その際、貧民たちや主婦が動員の対象とされた。主婦は生活問題に敏感であると同時に、信じやすいということを過激派の一人は指摘している。

革命政府内で穏健派とされるジロンド派は、経済の自由を尊重し、過激派の主張や行動を批判した。内務大臣ロランは、生産と流通の自由だけが食糧問題を解決するとして、声明で「おそらく議会が食糧についてなしうる唯一のことは、議会は何もなすべきではないということ、あらゆる障害をとり除くことを宣言することであろう」と述べた。

これに対し政府内で主導権を握る山岳派は、理論的にはジロンド派の自由主義を認めるが、過激派の主張を一部取り入れる態度を示した。同派のリーダー、ロベスピエールは「商業の自由は必要である」としつつ、「しかし、それは殺人的な貪欲が、商業の自由を濫用するにいたらないときまでのことにすぎない」と釘を刺した。

生活必需品である穀物の商業と、不要不急の染料の商業とを混同してはならないというのが、ロベスピエールの主張だった。これは経済に対する彼の無知を示していると言わざるをえない。政府が経済を統制し、市場経済の働きを妨げれば、かえって問題を悪化させてしまう。

1793年5月、穀物と小麦粉を対象に、値段の上限を定める「最高価格令」が決定された。9月には食糧のみならず全商品の価格を三年前の1790年の価格の三分の一増しに定め、また賃金も同じく1790年の二分の一増しとした。

しかし予想されたとおり、最高価格令は商品の売り惜しみを招き、かえって商品の出回りを妨げた。1793年から94年にかけての冬はことに厳しかったが、暖房用の燃料が不足し、夜の灯火も乏しくなった。春になって最高価格が引き上げられたものの、結果は変わらなかった。石鹸もローソクも手に入らず、人々は夜の2時から肉屋の戸口に集まった。

最高価格令の影響で、フランス中に闇市場が広がった。とくにバター、卵、肉などは戸別訪問によって少量ずつ販売され、手に入れたのはおもに富裕層だった。結局、富裕層が十分以上の食料品を手に入れ、貧乏人は飢えたままとなった。最高価格令は、民衆を救う狙いとは正反対の結果をもたらしてしまったのである。

飢えに苦しむ民衆は、富裕層への憎しみを募らせた。暴発を恐れた政府は1793年9月以降、半年前に設置した革命裁判所を舞台に、恐怖政治を本格化させていく。革命裁判所は、あらゆる反革命的企てに関わる事件を管轄する特別法廷で、控訴・上告は一切なく、ここで下された判決は即、確定の最終判決だった。

国会は最高価格令とともに、「疑わしい者たちに関する法令」を可決した。「疑わしい者たち」とは「反革命の輩」の意味だが、定義があいまいなため、ほとんど誰でも逮捕することが可能だった。

恐怖政治では王妃マリー・アントワネットらを含む約1万6000人が処刑され、1794年7月、テルミドールのクーデターでやっと終止符を打つ。

同月、ロベスピエールはそれまで多数の人々を送り込んだ断頭台で、自身が処刑される。ロベスピエールとその一派がパリの通りを処刑台へと向かう途中、群衆は「薄汚い最高価格令が通るぞ!」と野次を飛ばしたという。その年の12月、最高価格令は正式に廃止された。

経済の自由を安易に規制すれば、やがて社会全体の統制につながり、場合によっては深刻な権利侵害を招く。フランス革命の重い教訓である。

<参考文献>
  • 安達正勝『物語 フランス革命―バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで』中公新書
  • 河野 健二『フランス革命小史』岩波新書
  • 河野健二・樋口謹一『フランス革命』(世界の歴史)河出文庫
  • Robert L. Schuettinger, Eamonn F. Butler, Forty Centuries of Wage and Price Controls: How Not to Fight Inflation, Ludwig von Mises Institute

(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

2021-08-27

相互扶助の社会福祉

From Mutual Aid to the Welfare State: Fraternal Societies and Social Services, 1890-1967 (English Edition)

19世紀後半から20世紀前半にかけて、数百万人の米国人が友愛組合(共済組合)から社会福祉給付を受け取っていた。友愛組合の特徴は、支部の自治制度、民主的な内部統治、儀式、会員とその家族への相互扶助の備えである。(歴史学者、デビッド・ベイト)

19世紀後半、米国には主に三種類の友愛組織があった。秘密結社、疾病葬儀給付組合、生命保険組合だ。秘密結社は儀式を重視し、画一的な支払方式を避けた。他の二組織は手厚い健康・生命保険を売りに広く加入者を募った。どの組織も相互扶助と互恵主義を強調した。(同)

1920年の米国では労働階級の多くを含め、成人男性の三人に一人が友愛組合に加入していた。組合の支部は黒人や東・南欧からの移民の間で圧倒的な存在感を示した。当時、友愛組合を中心とする民族系福祉団体は、官民のいかなる組織よりも大きな助けとなった。(同)

19世紀後半から20世紀前半の米国で政府や慈善団体から施される援助は、少額でしかも大きな恥辱の種だった。政府・民間の慈善が上下関係を伴うのに対し、共済組合の援助は相互関係の倫理原則に基づく。助ける人と助けられる人は近所に住み、明日は立場が逆転するかもしれない。(同)

戦前の米国で友愛組合が政府や慈善団体に頼らず成し遂げた相互扶助の成果は政治家、公共政策の専門家、社会改革家、慈善家には理解できない。友愛組合は貧しい人々の間に巨大な社会・相互扶助のネットワーク構築に成功した。今の孤立した都市生活にはないものだ。(同)

2021-08-26

金本位制の美徳

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歴史上、金など実物貨幣の利点は明らかだ。紙幣はそれが多く発行されるほど、物価上昇を伴って価値を失う。紙幣経済は不安定で、景気変動や経済格差を起こしてきた。世界大恐慌はその例だ。極端な場合、ハイパーインフレや第一次世界大戦以降のような戦争を引き起こす。(エコノミスト、マーク・ソーントン)

金本位制は、政府が貨幣の原料や製造方法、市場価格を決めることを認めない。数百年にわたり政府の介入がなくても、貨幣は洗練された仕組みに変化してきた。ビットコインなど暗号通貨の台頭は、貨幣の潜在能力と政府が起こす混乱を思い出させる。(同)

金本位制復活の利点は、世界的な物価の引き下げと安定だ。貨幣の安定は貯蓄と経済成長を促すだろう。貨幣の購買力が安定すれば、起業家と消費者は将来に向け、より良い計算と計画ができる。(同)

金本位制の下で中央銀行でなく市場が決める金利は、短期では変動が大きくても、投資の時機を測りやすくする。物価高が続くと証券資産は価値を失い、実物資産は価値が増す。貨幣の安定でそうした分断はなくなり、社債や生命保険への長期投資が見直されるだろう。(同)

中央銀行の紙幣発行は、資産と資本を持つ高所得者をますます豊かにし、労働と年金を収入源とする低所得者をますます貧しくする。『21世紀の資本』の著者ピケティは図らずも、米国の格差拡大は1971年のニクソンショック(金本位制廃止)後に起こったことを示した。(同)

2021-08-25

平等主義の非人間性

Egalitarianism as a Revolt against Nature (English Edition)

無政府共産主義者が政府に反対する主な理由は、政府が私的財産権を創造し、保護すると誤って信じ、その結果、財産権を廃止する唯一の方法は政府の破壊だと思い込んでいるからだ。政府がつねに私的財産権の大きな敵であり侵略者であることをまったくわかっていない。(経済学者・法哲学者・歴史家、マレー・ロスバード)

共産主義は強制的であれ自発的であれ、その根底に存在するのは、卓越した個人に対する深い憎しみであり、一部の人間が他より生まれつきあるいは知的に優れていることの否定である。反理性的で反人間的な平等主義は、あらゆる個人からその人固有の貴重な人間性を奪おうとする。(同)

経済学に無知でも罪ではない。経済学とは結局、専門的な学問分野であり、多くの人々にとって「陰気な科学」でしかない。しかし、経済問題について声高に意見を主張しておきながら、経済学について無知なままというのは、まったくもって無責任きわまる。(同)

「希少性なき時代」が訪れたと言う人がいる。どうしたら確かめられるだろうか。答えは簡単、欲しい物やサービスの値段がすべてゼロになったときだ。まるでエデンの楽園のように努力も労働もせず、希少な資源を全然使わずに、あらゆる物やサービスを手に入れられるときだ。(同)

合理的な思考と経済学を捨て去れば、現代の生産体制と文明は破壊され、野蛮状態に戻るだろう。その結果、人間の大半は餓死し、生き残った者も苛酷でぎりぎりの暮らしを強いられることになる。(同)

2021-08-24

軍という官僚機構

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アフガン戦争が続いた2001~2021年、米軍の高官で撤退を確実にするため、介入・占領政策に強く反対を表明する者は誰もいなかった。職を辞し、公の討論で反対意見を訴える者は誰もいなかった。(米退役大佐、ダグラス・マクグレガー)

アフガンとイラクで戦略・戦術の失敗が明らかになったとき、ペトレイアス陸軍大将ら米軍高官の多くが選んだのは、ごまかして事実をねじ曲げ、あたかも進捗があるかのように見せかけることだった。誰かが真実さえ話していれば、米国人は何人死なずに済んだだろうか。(同)

米国の文官・武官の上級幹部らは、彼らを支える官僚ともども、とことん無能で、有効な軍事戦略を立てることも実行することもできなかった。(同)

アフガン戦争で失敗した米軍幹部は誰も首にならない。1942~1945年春、陸軍のジョージ・マーシャル将軍は軍団長・師団長を32人解任した。仕事が期待に届かなかったからだ。海軍では真珠湾攻撃後、第二次世界大戦の初めの18カ月で潜水艦の艦長がすべて交代させられた。(同)

米軍高官の行動の多くを説明するのは、非公式な制度である身内びいきだ。それによって出世する士官は「いい奴」であり、波風を立てたがる人間ではない。性格・能力・知性と無関係に非白人の士官を高い階級に就けても、事態は改善しない。(同)

米軍で戦争実行能力のある高官(文官の上司に対し、何が本当に起こっていてどんな行動が求められるか真実を伝えられる高官)を見つけるのは難しい。三つ星、四つ星階級への出世はたいてい能力ではなく、政治で決まる。大統領は欲しい人間を将軍や提督にするのだ。(同)

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2021-08-23

起業家精神の阻害


営利企業はどんなに大規模であろうと、経営の手足が政府に縛られていない限り、官僚主義に陥ることはない。

官僚的な硬直性に向かう傾向は、企業本来の進化ではない。政府がビジネスに介入した結果である。社会の経済組織の枠組みで企業が果たす役割から、利益追求の動機を消し去ろうとする政策の結果である。

起業の天才はつねに教師であり、生徒ではない。自力でのし上がる。権力者の世話になったりしない。しかし一方、政府は創造的精神をまひさせる状況を作り出し、起業家が社会に有益なサービスを提供するのを妨げることができる。

今日、税は起業家の利益の多くを吸い上げる。起業家は資本を蓄えることができない。事業を拡大できない。会社は大企業になれない。既得権益者に対抗できない。

今日あらゆる国の税法は、まるで税の最大の目的が、新しい資本の蓄積とそれによって達成できるはずの改善を妨げることであるかのように定められている。他の政策も同様だ。それなのに創造的なビジネスリーダーがいないと文句を言うとは、お門違いもいいところだ。

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2021-08-21

資本主義と縁故主義


資本主義を批判する人々の心配はもっともだが、問題は資本主義(所有権と自由な取引に基づき、人間に多大な利益をもたらした制度)にあるのではない。縁故主義にある。(エコノミスト、フレッド・コフマン)

縁故主義の下では政府が企業に支配され、権力を使って市場に介入し企業に便宜を図る。縁故主義で栄える経営者は利害関係者のために働かず、国家権力を利用し市場経済の規律を免れる。資本主義は個人の野心を他者への奉仕に変えるが、縁故主義は個人の強欲を権力濫用に変える。(同)

縁故主義の下、政治家は親密企業に特別許可や公的助成、税控除を与える一方、その競争相手や消費者には関税や規制を押し付け、市場競争を妨げる。企業は向こう見ずに過剰なリスクを取る。成功すれば儲けは自分のものだし、失敗しても政府が助けてくれると知っているからだ。(同)

縁故主義の経営者は非難に値する。強欲で利己的で不道徳だ。人と環境を犠牲にし、果てしなく欲望を求め、人の権利を踏みにじる。だからマルクス主義者は労働者の搾取を論じた際、手がかりを人の心に求めたのだろう。しかし縁故主義の経営者は資本主義者ではない。マフィアだ。(同)

資本主義のやり方は縁故主義とは違う。自由な市場と法の支配の下では、冷淡で口先だけの欲張りな企業は儲けることができない。せいぜい目先の得だけだ。長期で稼ぐには共感(顧客や従業員らを理解する)、同情心(彼らに奉仕する)、公平さ(彼らを公正に扱う)が必要である。(同)

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2021-08-20

経済の自由と平和


マルクス社会主義者が海外での戦争を拒否するのは、敵は外国でなく自国の所有階級と考えるからだ。ナショナリスト帝国主義者が革命を拒否するのは、自国のあらゆる層は外敵との戦いで利害が一致すると信じるからだ。どちらも軍事介入や流血に対する一貫した反対ではない。(経済学者、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス)

自由主義が侵略戦争を拒否するのは博愛心からではなく、功利の観点からだ。戦争の勝利は有害とみなし、征服を望まない。最終目的を達するには適さない方法とみなすからだ。国は戦争と勝利ではなく、労働でしか国民の幸福の前提条件を整えることができない。(同)

生産手段の私有と自由な経済秩序に基づかない平和主義はすべて、ユートピアでしかない。国家間の平和を望む人々は誰であれ、政府とその影響力を厳しく制限しなければならない。(同)

恒久平和への道は、社会主義のように政府と中央権力を強化することでは開けない。政府が個人の生活に広く介入し、個人にとって政治が重要になるほど、人々の間に不和をもたらす。(同)

人と物の完全な移動の自由、個人の財産と自由の最大限の保護、学校制度における政府のあらゆる強制の廃止。すなわち1789年フランス革命の理念を完璧に適用することが、平和に不可欠の条件である。(同)

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2021-08-19

画一性の強制


人間の本質に関する重要な事実は、個人が非常に多様であることだ。もちろんあらゆる人間に共通する肉体的、精神的な特徴はある。だが他のいかなる種にもまして、個々の人間は独特で異なる個人である。それぞれの指紋だけではなく、それぞれの人格もまた異なる。(経済学者・法哲学者・歴史家、マレー・ロスバード)

平等に対する熱狂は、根本的な意味において反人間的である。個人の人格と多様性、文明そのものの抑圧に傾く。野蛮な画一性に向かう運動である。人の能力と興味は多様であるのが自然だから、人々をあらゆる点で平等にしようとする運動は、必ず全体を引き下げる。(同)

最良の授業は個人授業である。教師一人が生徒一人を教える授業は明らかに一番優れている。そうした環境でこそ人間の潜在能力は最大限に引き出されるだろう。教室で教師一人が大勢の生徒を教える公的な学校は、非常に劣った制度である。(同)

政府の命令で、学校では例えば算数を必ず教えなければならないとする。それは他の科目は得意でも算数の素質はない子供が不必要な苦しみを味わうことを意味する。政府による画一的な基準の押しつけは、人間の好みや能力の多様性に対する重大な侵害だ。(同)

政府の義務教育は多様な子供に適した私立学校の成長を阻害し、親による教育も妨げる。人間の能力は様々だから、標準以下の子、指示に従えない子、思考能力の高くない子も大勢いる。政府はほとんどの国でこの子たちに通学を強制しているが、それは人間の本性を攻撃する犯罪だ。(同)

<邦訳書>
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2021-08-18

大いなる虚構


奴隷制がなくなり、圧制者は犠牲者に露骨な暴力は振るわなくなった。さすがにそれくらいの分別はできるようになった。圧制者と犠牲者はいなくなっていないが、その間に仲立ちする者がいる。それが政府であり、法律だ。(エコノミスト、フレデリック・バスティア )

政府とは大いなる虚構である。人は政府を通じ、自分以外の全員を犠牲にして生きようとする。(同)

政府は国民から信用されるメリットを十分心得ている。喜んで国民全員の運命を支配しようとする。たくさん奪い、その多くを自分のものにする。職員数を大幅に増やす。特権にあずかる仲間を広げる。多くを奪いすぎて自滅する。(同)

政府を通じて互いに奪い合えば、お互いさまだからといって盗みでなくなるわけではい。合法で秩序立っているからといって罪でなくなるわけではない。公共の利益を何も増やさない。むしろ政府という仲介者のコストの分、減らしてしまう。(同)

もし政府が慈善家になりたければ、増税しなければならない。もし増税しなければ、慈善家になるのは控えなければならない。(同)

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2021-08-17

政府という強盗


政府は追いはぎのように言う。「金を出せ。さもなければ命はない」。税の大半とは言わないまでも多くは、そのような脅しによって支払われる。(法哲学者、ライサンダー・スプーナー)

政府は追いはぎのように寂しい場所で人を待ち伏せたり、道端から襲いかかったり、拳銃を頭に突きつけたり、ポケットを探ったりはしない。しかしそれでも強盗は強盗であり、追いはぎよりはるかに卑怯で恥知らずである。(同)

追いはぎはひとりで自分の行動の責任・危険・罪を引き受ける。政府のようにあなたの金に対して正当な権利があるとか、その金をあなたのために使うつもりだとかいうふりはしない。(同)

政府は追いはぎと違って個人として顔を見せず、自分の行動に個人として責任を取らない。仲間の誰か一人に命じて強盗をやらせ、自分たちはほとんど正体を明かさない。(同)

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2021-08-16

心の服従


支配される側の同意を頼りにできる集団だけが、権力の座を長く保てる。(経済学者、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス)

世界を自分の思いどおりに支配したければ、何とかして人間の心を支配しなければならない。(同)

人間をその意志に反し、受け入れられない権力に従わせることは、長い目では不可能である。(同)

本人の意志に反して人を権力に服従させようとしても、結局成功しない。かえって軋轢を巻き起こし、支配される側からの同意に基づき統治する最悪の政府よりも、はるかに大きな害悪をもたらす。(同)

本人の意志に反することをさせて人間を幸せにすることはできない。(同)

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2021-08-14

政府の法と無秩序


慣習法の下では、自然発生的に秩序が生まれる。秩序は各集団が様々な要因のバランスを取り、様々な行動を互いに調整することによって生まれる。このバランスは、行動の一部が他の機関(政府)によって、異なる知識に基づき、異なる目的のために決定されると、破壊される。(経済学者、ブルース・ベンソン)

政府の法律が前近代の慣習法に代わって支配的になったのは、人々の対等なやり取りを促す法律を制定・施行するうえで、代表民主制の政府が優れていたからではない。政治権力を持つ者に財産を移転するという、政府の目的全般の反映である。財産の移転には政府の強制力が必要だ。(同)

慣習法の下では、個人は義務に関するルールを頭に入れ、そのルールを互いに守らせようとする意欲が生じた。政府の強権的な法は本質が敵対的で、集団同士を争わせ財産を収奪・移転するから、秩序ではなく混乱を助長する。政府の法の下で、個人は協力して秩序を保つ意欲を失う。(同)

法をつくる政府は、全体主義の国王であろうと、代表民主制の政府であろうと、権力を中央に集中させ、一部の人間に有利なルールを押しつけて他の人々を犠牲にする。政府は今なお、財産を移転するからくりである。(同)

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2021-08-13

完全競争モデルの非現実


新古典派経済学の競争理論は一定の条件を前提とする。すべての市場参加者があらかじめ正しい情報を知っているという条件だ。この条件下で起こる経済活動はまったく型通りである。すなわち利潤の最大化であり、発見、過失、学習の余地はない。(経済学者、ドミニク・アーメンターノ)

完全競争モデルが適切であるのは、あらゆる妥当な情報が与えられ、かつその情報が決して変わらないときだけである。つまり、データと人々の好みが変化しない、止まった世界の中でだけである。(同)

現実の市場環境では時が経つにつれ、知識と人の好みは変わり、その結果、新古典派モデルの適切さははなはだしく弱まる。完全競争による均衡は、変化する世界では効率的ではありえない。新しい製品、新しい工夫、消費者の好みや価格に関する新しい洞察が日々生まれるからだ。(同)

変化する世界ではライバル関係、誤りとその修正、絶え間ない起業家活動が絶えず生じる。しかしそのような永遠の不均衡過程は、完全競争モデルの想定やその静的な世界観とは相容れない。(同)

企業の競争は、一定の静的な状態ではなく、つねに動的な過程だ。そこでは生産者が絶えずせめぎ合い、製品を改善して市場参加者に提供しようとする。完全競争の世界とは違い、競争の過程で利潤のチャンスを発見し、それを利用することで市場の状況を修正していく。(同)

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