この政策を安倍政権やメディアは「大学無償化」と呼んでいるが、授業料減免の原資はあくまでも国民が払う税金である。「無償化」という表現は政策にコストがかかる現実をあいまいにし、メリットだけを強調する政治的な表現と言える。
それにしても日本の教育は、義務教育である小中学校はもちろん、高校、大学に至るまで、税金を投じた「無償化」の大盤振る舞いだ。そもそも大学教育とは、そこまでして受ける価値のあるものだろうか。
貴重な時間を無駄にするだけの学校教育
教育制度について考えさせられるマンガを読んでみよう。東村アキコの自伝的作品『かくかくしかじか』(集英社)である。
南国の宮崎県で生まれ育った林明子(作者の本名)は、子どもの頃から少女マンガが大好き。高校3年生のとき、「美術大学に進学し、在学中にマンガ家としてデビューする」という計画を立て、受験対策のため、友人に教えられた個人経営の絵画教室に通うことにする。
自宅からバスを乗り継いで1時間、教室は市街地を離れた海の近くにある古い家だった。講師であり画家でもある日高健三先生は、芸術家らしからぬジャージ姿で、手にした竹刀で女の子も容赦なくひっぱたくスパルタ体育会系。明子は当初思いもしなかったことに、それから社会人時代を含め足かけ8年も教室に通い続け、日高先生は生涯忘れられない恩師となる。
自分は絵がうまいとうぬぼれていた高3の明子のプライドは初日から先生の罵声で粉々に打ち砕かれ、命じられるままに、美大受験まで来る日も来る日も大量のデッサンを描き続ける。それもありふれた石像など、描いていてつまらないものばかり。教室を手伝うようになってからも、鏡に映る自分の姿ばかり描かされた。モデルがいないからだ。
しかし、プロのマンガ家になり、初めて気づく。プロになる前は、絵を描くのに比べてマンガなんて簡単だと思っていたけれど、そんなに甘くはない。マンガはとにかく1ページに何回も同じ顔を描いて、背景を描いて、1話で何十回も何百回も人間を描く。しんどくてもひたすら量を描くしかない。それでも昔、日高先生に鍛えられたおかげで、描くことができる。描くことが体に染み付き、辛いときも描いていれば、なんとか自分を保てるようにもなった。
それに対し、公的な学校はどうだったか。皮肉なことに、金沢市の公立美大に苦労して合格し、入学したとたん、明子は絵を描けなくなる。毎日遊んでばかりで、絵ばかりでなく、マンガすら描くことなく、大学生活を過ごしてしまう。ところが夏休みに宮崎に戻り、教室で日高先生がにらみを利かせてくれると、描く手がどんどん動く。明子は思う。「じゃあ…美大行かなくてよかったじゃん…先生のところでずっと描いてりゃよかったじゃん…」
マンガ家になった今も、作者は「あの頃のバカな私が、貴重な時間をどれだけ無駄にしたのか」と考えてしまう。
大学よりも安い費用で深い教養を身につける手段はいくらでもある
それでも美大はまだ比較的、履修内容が自分の将来やりたいことと直結している。それに対して一般の大学の場合、カリキュラムの多くが、社会人として必要とされる知識と大きくかけ離れている。いや、大学に限らない。すでに小中学校のうちから歴史、音楽、美術、体育などを習わなければならないし、高校では高等数学、古文・漢文、哲学などが加わる。大学ではこれらが一般教養科目として続くほか、第2外国語も取らなければならない。
これらの科目は、将来それぞれ専門の研究者を目指すためには必要だろうが、そのような人は学生全体から見ればごく一部にすぎない。最近、一般教養科目は研究者希望者に限らず、広く社会人として教養を身につけるうえで重要だとの意見がよく聞かれるものの、そのための場が大学でなければならない理由はない。本やインターネットで独学したほうが、大学よりも安い費用で深い教養を身につけられる可能性だってあるだろう。
このように教育制度は、多くの人にとって実社会で役に立たない知識を学ばせる場であるにもかかわらず、それを受け、卒業することが企業から採用の条件として重視される。いったい、なぜなのだろうか。
経済学ではその理由を「シグナリング理論」によって説明する。企業の人事担当者は能力の高い人を採用したいが、限られた時間で応募者の能力を詳しく知ることは難しい。そこで代わりに学歴で判断する。高学歴の人は低学歴の人に比べ、一般的には知的能力が高く、受験勉強に取り組む勤勉さがあり、学校生活を無難に送る協調性もあるとみなす。能力を一目で示す信号(シグナル)として、学歴を利用するわけだ。
シグナリング理論は、役に立たない知識を教える教育がなぜ企業に重視されるかという謎を、わかりやすく解き明かしてくれる。けれどもこの理論が正しいとすると、教育制度にとって不都合な事実が明らかになる。教育とは時間とお金の壮大な無駄遣いであるという事実だ。
無駄遣いを増やさないためには、大学進学を税金で支援しないことだ
大学のない世界を想像してみてほしい。その世界では、能力の高い子どもは高校まで進学し、他の子どもたちは中学までしか行かない。それでも企業の人事担当者は困らない。高校を卒業したかどうか、どの高校を卒業したかを能力の信号として判断すれば良いからだ。人々は大学受験や履修にかかっていた時間やお金を、より有意義なことに使える。
大学は無駄遣いという理論が正しいとしても、現実には大学をいきなりなくすのは難しい。だが無駄遣いをこれ以上増やさない方法はある。大学進学を税金で支援しないことだ。
米経済学者ブライアン・カプランはシグナリング理論を踏まえ、「教育をより多く受けた人がより良い仕事に就くからといって、国民全員がより多くの教育を受ければ全員がより良い仕事に就けるわけではない」(『反教育論』〈未邦訳〉)と指摘する。そうだとすれば、進学を支援する政策は意味がない。
日本政府の「無償化」政策により、貧しい家庭の子女が大学などに進学しやすくなっても、経済の格差から生じる教育の格差問題は解決しない。豊かな家庭の子女は、たとえば海外の有名大学など、就職にとって、より有利なシグナルを手にしやすいからだ。
教育支援の原資を捻出するため消費税などの税負担が重くなれば、国民の生活が苦しくなるというマイナス面も見逃せない。「無償化」という聞こえの良い言葉に隠された落とし穴だ。
『かくかくしかじか』の日高先生は若くして病で世を去る。大学時代を遊び暮らし、社会人になってようやくマンガを描き始めた明子は、もっと早く描き始めて収入を得ていたら、先生が好きなイタリアでもスペインでも連れて行けたのにと悔やむ。もしも大学のない世界だったら、そのような後悔はしなくて済んだかもしれない。
(wezzy 2019.06.02)
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