2020-04-14

政府が支援する「ムーンショット型研究開発制度」への疑問 資金援助により自由を奪われるジレンマはないか

政府が「ムーンショット型研究開発制度」を始める。人類を月に送った米国のアポロ計画にちなみ、大胆な発想に基づく研究開発を支援するという。少子高齢化、環境、科学技術によるフロンティア開拓の3テーマを設定し、5年間で1000億円を投資する。

7月31日に有識者会議を開き、ロボットと人間が融合するサイボーグ化技術や、長期間の宇宙航行を可能にする人工冬眠技術の開発など、候補となる25の目標を決定した。年末までに数個の目標に絞り込み、研究者を公募する。

今回の取り組みの背景には、日本が研究力で米国や中国など海外の主要国に水をあけられ、地盤沈下が続いていることへの危機感があるという。平井卓也IT・加賀育技術担当大臣は同日「柔軟にスピーディーに進めたい」と述べた。


今回の新制度には「目標がハイリスクすぎる」とメディアで一部批判的な声はあるものの、政府が基礎研究など科学技術に対し国家予算で支援を行うこと自体は、世間で当然と見られている。何しろ、政府には科学技術担当の大臣までいて、支援の陣頭指揮をとっているのだから。

けれども、世間の常識がいつも正しいとは限らない。科学技術の発展に、政府の支援は本当に必要なのだろうか。日本の研究力が衰えているのは、政府の支援が足りないせいなのだろうか。

違法ゆえに阻まれるロケット打ち上げの夢 


考える手がかりとなるマンガを読んでみよう。森田るい『我らコンタクティ』(講談社)である。

小学生時代にクラスの中心だったカナエは、今ではさえないOL。ある日、同級生のかずきと再会する。家業の工場で働くかずきは、個人で宇宙ロケットを打ち上げるという大胆な計画をひそかに進めていた。子どものころ感動した映画を宇宙で上映し、宇宙人に見せるという、壮大な目的のためだ。


ロケットのエンジンはすでに完成しており、かずきはカナエに燃焼実験をしてみせる。カナエはロケットで金儲けができれば今の会社を辞められるという下心から、計画に協力し始める。2人は、ロケット打ち上げは違法だとする警察に阻まれながら、なんとか夢を実現しようと奮闘する——。

違法だから当然だが、かずきは政府の資金援助を一切受けずに、独力で宇宙ロケットを作り上げる。「マンガだからできる」「現実にはありえない」と思うかもしれない。ところが、ロケットの親戚といえる飛行機の歴史を調べると、興味深い事実がわかる。

「大胆な発想」こそが生む開発


飛行機の高速飛行を可能にしたジェットエンジンの生みの親は、英国のフランク・ホイットルである。1907年に自動車工場の職工を父として生まれ、幼い頃から機械工作に親しむ。『我らコンタクティ』のかずきそっくりだ。やがて飛行機に興味を持ち、乗りたい一心で空軍の教育機関に進み、飛行将校となる。

ホイットルは学生時代からジェットエンジンを開発し、その将来性を空軍省に訴えたものの、反応は否定的だった。ホイットルは落胆するが、空軍士官学校時代の友人たちに助けられて民間から資金調達に成功し、ジェットエンジンの開発会社を設立。1937年3月、世界初のジェットエンジンが完成する。

いざ燃焼実験に踏み切ったところ、回転数が急上昇して暴走したり、排気孔が火を噴いてエンジン全体が火に包まれたりと大変な目に遭うが、作動することは実証された。これも『我らコンタクティ』で、かずきの作ったジェットエンジンがすさまじい火を噴く燃焼実験のシーンを思わせる。

惜しくもホイットルは、世界初のジェット機の飛行ではドイツの技術者ハンス・フォン・オハインに後れを取る。オハインはのちに、英国がホイットルの研究成果をもう少し早く評価していれば、ジェット機の初飛行の栄光もホイットルのものとなったであろうと語ったという(鈴木真二『飛行機物語』)。

ホイットルのジェットエンジン開発のエピソードは、政府の支援がなくても「大胆な発想に基づく」研究開発は実現可能であることを示している。

産業革命の発明の多くは国に頼らなかった


もう少し時代をさかのぼれば、社会に大きな影響を及ぼした技術の多くは民間で生み出されたものである。

18世紀後半から19世紀前半にかけ世界をリードした英国の産業革命は、その担い手の大半が民間の職人だった。ジェットエンジンの祖先である蒸気機関を発明したトーマス・ニューコメンは鍛冶屋、それを改良したジェームズ・ワットは科学器具の製造工だった。

当時、ドイツやフランスの教育研究機関がほとんど国営だったのと対照的に、英国では政府が特定の大学や研究機関に投資することはほとんどなく、それらの新設・運営は個人もしくは集団の自発的な活動に委ねられていた(古川安『科学の社会史』)。

20世紀初頭になっても、英米では国家の科学研究への関与は限られたものだった。国が直接に科学研究に方向づけを与えたり、科学技術振興の本格的な政策を打ち出したりするのは、1914年に勃発した第一次世界大戦をきっかけとして始まる。科学の長い歴史からみれば、国家との関係はごく新しいのである。

20世紀の主要な発明のうち、個人の発明家によるものは半数以上を占めるという調査もある。エアコン、自動変速機、ボールペン、セロファン、サイクロトロン(円形加速器)、電子顕微鏡、ヘリコプター、ペニシリン、ポラロイドカメラ、ラジオ、安全カミソリ、ファスナーなどだ。ジェットエンジンもその一つである。

ラジオやスピーカーの開発で知られる英国の発明家、シドニー・ブラウンは実験や新製品製作に資金援助を一切受けず、その理由をこう語った。「もし私の仕事や私自身が少しでも管理されたら、アイデアは何も出なくなる」

国の支援がないことはチャンスなのかもしれない


誰からも指図されず、自由に考え、試せること。大胆な発想にとってこれほど重要な環境はないだろう。しかし政府から資金援助を受ければ、その環境は不可能になる。昔の発明家たちはそれをよく知っていた。

『我らコンタクティ』のかずきもそうだ。政府の研究機関で働く教授から、個人ではなく政府機関でロケットを打ち上げないかと誘われるが、心を動かさない。政府の下では、宇宙で映画を上映する夢が許されないからだ。

日本の財政状況は厳しさを増し、科学技術の支援が十分にできないと懸念する声もある。しかし、それはむしろ科学技術が政府との関係を断ち、本来の健全な民間研究に立ち返るチャンスだ。政府のヒモ付きのままでは、真に大胆な発想は生まれないだろう。
wezzy 2019.09.01)

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