ところが一方で、惜しい部分もあります。ところどころに叔父さんの「ノート」が挿入され、コペル君が日常で抱いた疑問に対し、博識な叔父さんが学問上の知識をもとに解説してあげるのですが、首を傾げたくなる記述が散見されるのです。特に経済に関する記述です。
経済というと、技術的でささいな話だと思うかもしれません。しかし決してそうではありません。
原作者のジャーナリスト、吉野源三郎氏は平和運動家としても知られました。もともと戦前の1937年に出版された原作には、言論弾圧を警戒し、ストレートに反戦を訴える表現こそありませんが、言葉の端々に平和への願いが感じ取れます。しかし叔父さんの言葉に表れた吉野氏の経済に対する考えは、皮肉なことに、自身の平和への願いと矛盾しかねないのです。
粉ミルクの「秘密」でグローバル経済の実像を説明
具体的に見ましょう。コペル君はあるとき、粉ミルクの「秘密」に気づきます。オーストラリアの牛の乳でできた粉ミルクは、赤ん坊だったコペル君の口に入るまで、実に多くの人の手を経ているということです。
粉ミルクが日本に来るまでは、乳をしぼる人、工場に運ぶ人、工場で粉ミルクにする人、缶に詰める人、汽車に運ぶ人、汽船に積み込む人など。日本に来てからは、荷を倉庫に運ぶ人、広告をする人、薬屋まで缶を運ぶ人、薬屋の主人など。工場や汽車や汽船を作った人まで入れると、何千、何万というたくさんの人が「僕につながっている」ことに気づき、コペル君は驚くのです。
粉ミルクだけではありません。身の回りにある物にはどれも、数えきれないほどの人々がかかわります。しかもそれらの人々のうち、コペル君が知っているのは、直接会う店の人だけです。互いに見たことも会ったこともない大勢の赤の他人どうしが、商品を通じて網のようにつながっている。コペル君はこれを「網目の法則」と名づけ、叔父さんに報告します。
ここまでは問題ありません。むしろ当時花開いた、今でいうグローバル経済の実像をわかりやすく説明しています。問題はここからです。
話を聞いた叔父さんは、コペル君のいう網目の法則は、経済学や社会学で「生産関係」と呼ばれると教えます。人間は未開の時代からお互いに協力し、分業で手分けをして働いてきた。時代が進み、商業が盛んになると、世界の各地がだんだん結ばれ、とうとう世界中が1つの網になったと説明します。
ところが叔父さんは、この状態を良く思っていません。なぜなら叔父さんから見て、そのつながりが「本当に人間らしい関係」になっていないからです。たとえ赤の他人の間でも、ちゃんと人間らしい関係を打ち立てなければならないと叔父さんは言います。
本当に人間らしい関係であるためには
それでは、叔父さんの考える本当に人間らしい関係とは、どんな関係なのでしょう。叔父さんはコペル君にこう語りかけます。「君のお母さんは、君のために何かしても、その報酬を欲しがりはしないね」
つまり叔父さんは、本当に人間らしい関係であるためには、見返り(特に金銭的な見返り)を求めてはならないと考えるのです。しかし、これはあまりにも無理のある考えではないでしょうか。
親は子に見返りを求めないと叔父さんは言います。けれども生物学者リチャード・ドーキンス氏が著書『利己的な遺伝子』で明らかにしたように、親の子に対する一見利他的な行動は、自分の遺伝子を残すという利己的な動機に基づきます。
ましてや金銭的な見返りを禁じたら、近代的な経済は成り立ちません。どんなに人情味のある商店のおやじさんも「本当の人間関係を築きたいから代金は払いません」などと言われたら、笑顔のままではいないでしょう。グローバル経済は壊滅し、多数の人が貧困に苦しむのは必至です。
見返りを求める利己心は人間の本性そのもの
見返りを求める利己心は、非人間的ではありません。むしろ人間の本性そのものです。家族関係にせよ市場経済にせよ、利己心という自然な感情を前提に発達したからこそ、うまく機能するのです。
ところが歴史上、一部の知識人は利己心を悪とみなし、利己心のないユートピアを作ろうとしました。資本家の金儲けを非難した経済学者カール・マルクスはその一人です。マルクスの思想に基づき築かれたソ連など社会主義国家は、多数の国民を貧苦や死に追いやったあげく、崩壊しました。
『君たちはどう生きるか』の経済観には、原作者・吉野氏が当時の多くの知識人同様、若い頃に影響を受けたマルクス思想が濃い影を落としています。叔父さんのいう「生産関係」はマルクス経済学の用語ですし、分業は人間らしさを奪うという発想もマルクスの「疎外」の概念を映します。
けれども金儲けを否定したら、他人から何かを手に入れたいとき、平和な取引ではなく暴力に訴えるしかなくなります。保護主義で貿易が途絶えると、戦争が起こるのはそのためです。
もしコペル君と叔父さんが世界平和を望むなら、顔の見えない他人どうしが金儲けでつながるグローバル経済を否定するのでなく、むしろ肯定し、鼓舞しなければなりません。事実、そう考えた知識人もいます。
吉野源三郎氏と同世代の米事業家で、エコノミストでもあるレナード・リード氏という人がいました。1958年、「私は鉛筆」というエッセイを発表します。1本の鉛筆がどれほど世界中の多くの人の手を経て完成するかを描いたものです。まるでコペル君の粉ミルクの話そっくりです。
けれどもリード氏は、顔の見えない他人どうしが商業によってつながることを非人間的だとは考えません。政府が命令を下しているわけでもないのに、世界中の無数の他人どうしが自発的に協力し合う「奇跡」を素直に称え、この協力関係を発展させるには、政府は介入せず、人々の創造的な活力を自由に解き放たなければならないと説くのです。政府が経済を支配しなければならないと考えたマルクスとは正反対です。
経済学者のミルトン・フリードマン氏は著書『選択の自由』でこのエッセイを紹介し、感嘆を込めてこう記します。「何千人もの人びとは、あちらこちらの諸国に住んでいて、異なった言語をしゃべり、いろいろな違った宗教を信仰しているだけでなく、ひょっとするとお互いに憎悪しあっている可能性さえある。そうだというのに、このような相互間の相違は、鉛筆を生産するためお互いが協同するのに、なんの障害にもなっていない」(翻訳・西山千明氏)
世界平和のヒントがここにあります。異なる国民・民族が争わず協力し合うカギは、お金を稼ごうとする人間の利己心なのです。『君たちはどう生きるか』には残念ながら、その認識が欠けています。現代の「コペル君」たちがその忘れ物に気づき、本当に人間らしく平和なグローバル社会に向かって踏み出すことを願ってやみません。
(日経BizGate 2018/4/13)
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