モンゴル・中国・ロシア経済回廊は、3カ国にまたがる交通インフラ整備プロジェクト。モンゴルは2014年、モンゴル国内での高速道路や送電線網、パイプラインの敷設などを柱とする「草原の道」構想を策定したが、2016年、これを中国が進める経済圏構想「一帯一路」とロシアの大陸横断交通に結合することで合意した。
経済回廊とは、国を横断したり国境を越えたりして、人や物が活発に移動できるように道路や鉄道などのインフラを一括して整備する構想を指す。ユーラシア大陸に位置するモンゴル、中国、ロシア3カ国は現在、その実現に向けて動いているわけだが、歴史をさかのぼれば、今よりも自由に人や物が互いの地域を移動できる時代があった。モンゴル帝国の時代である。
13世紀の初め、モンゴル高原北部のモンゴル族の中でテムジンが勢力を伸ばしてモンゴルの諸部族を統合。有力首長の会議クリルタイで君主(ハン)に選ばれてチンギス・ハンと称し、大モンゴル国(モンゴル帝国)を建てた。
機動力に富む軍を組織したチンギス・ハンは、華北を支配していた金を攻撃し、ついで西方でトルコ系騎馬遊牧民のナイマンを滅ぼして併合。さらに西トルキスタンからイラン高原で勢力を伸ばしていたホラズム朝を瓦解させ、軍を東に返して西夏を滅ぼした。その結果、中央ユーラシア世界の東部と中央部の騎馬遊牧民の大部分はチンギス・ハンのもとに結集した。
チンギス・ハンの死後、彼の息子や孫、弟たちの子孫に率いられたモンゴル人は東西で征服活動を続け、支配領域を拡大。13世紀の後半には、ユーラシア大陸の過半を支配する大帝国が出現した。
各地域には、チンギス・ハンの孫で大ハンを名乗るフビライ・ハンが支配する東部の大元ウルス(元)のほか、カザフ草原・南ロシア草原のキプチャク・ハン国、イラン高原のイル・ハン国、中央アジアのチャガタイ・ハン国などが形成された。これらハンたちは互いに争うこともあったが、おおむねフビライ系の大ハンの権威を認め、緩やかな連携を保った。
モンゴル帝国が短期間に急拡大した理由として、敵と見れば殺す残忍さで征服を繰り返したためと言われることがある。しかし最近の研究によれば、そうした見方は正しくない。モンゴル史が専門の杉山正明氏は、実際のモンゴルは情報戦・組織戦を重視してなるべく実戦せず、流血を避ける「戦わない軍隊」だったと述べる。
モンゴルにとって戦争は仲間を増やし、領地や戦利品を手に入れる機会だった。降伏した敵軍はモンゴルの戦力に、都市・農村の商人や農民は財源・労働力になったので、なるべく敵味方とも損害を出さないよう計画を練って征服活動を行なった。このためバグダッドに立てこもったアッバース朝カリフを処刑したように、抵抗した者には厳しかったが、みずから進んで服従した者には従来の権利や地位を保証し、支配層に加えて「モンゴル」として待遇した。
このようにモンゴルの著しい特徴は、出自・宗教・言語で人を区別せず、さまざまな集団・個人を実力主義で登用したことだ。チンギス・ハンの武将の中にはキタイ王族の耶律氏もいたし、フビライは6年にわたる籠城戦の末に降伏した南宋の将軍をそのまま軍司令官に取り立てた。高麗も服属後、国王はモンゴル語の名を名乗り、モンゴル人の妃をめとり、王族の待遇を受けた。
モンゴル帝国がユーラシア大陸を広範に支配したため、人・物・情報の交流に障害が少なくなり、東西交易は飛躍的に発展した。帝国はチンギス・ハンの時代からジャムチと呼ばれる駅伝制度を整え、これを利用。ハン国の枠組みを越えた陸路の交通・通信が活発になった。帝国はまた全体として銀を決済手段とする貨幣制度を整えたが、とくに元は銀と交換可能な紙幣(交鈔)を発行して、それが帝国全体の遠距離で高額な取引を支えた。
日本や東南アジアの大越国やジャワなどは、モンゴル帝国の武力侵攻(元寇)を退けたが、帝国との交易活動は活発に行った。その結果、東西を結ぶ海上交易も盛んになり、元の支配下の杭州・泉州・広州などが繁栄し、さらに大運河と海路によって、これら華南の都市と大都が結ばれた。
ある教科書では、東南アジア諸国が元寇を受けたにもかかわらず、元との交易を望んだことについて、フビライの東南アジアへの遠征は、もともと征服でなく通商の拡大と交易路の確保が目的だったので、遠征後にはほとんどの地域が元との海洋ネットワークを強めたと説明する。
これに対し、神戸学院大学人文学部准教授の北村厚氏は別の見方をし、「過去数百年にわたり、帝国の支配に入らない自由な海の繁栄を享受してきた国々は、元帝国の海洋支配にたいしてはげしく反発し、海洋の自由を守り切った」と述べる(『教養のグローバル・ヒストリー』)。自由な海が守られ、フビライもそれを容認したので、もとのように自由な海で活発に交易を行うようになったというわけだ。説得力のある意見といえる。
陸上と海上のネットワークを生かして遠距離の商業に活躍したのが、ムスリム(イスラム教徒)商人である。陸路で活躍したのはおもに中央アジア出身のムスリム商人で、雲南など中国の奥地まで進出した。海路でも主としてムスリム商人が交易を担った。この時代から東南アジアの港市にムスリム商人が定着するようになり、東南アジア島嶼部のイスラム化が始まった。
13世紀イランの詩人サーディは、ペルシャ湾入口にあるホルムズ島の町で商人と取り交わした話を記している。その商人は老齢で、引退前の最後の商売の計画を練っていた。それはペルシャの硫黄を中国で陶磁器に替え、それを小アジアに持って行って金襴(きんらん)に替え、さらにそれをインドで鋼に替え、鋼をシリアに持って行って鏡を買い付け、それを紅海入口の港市イエメンに運んで縞布に替えてペルシャに持ち帰るという商売だったという。ムスリム商人の経済活動がアジア・アフリカの広大な領域に及んでいたことが理解できる。
ユーラシア規模のネットワークは、人の移動も活性化させた。マルコ・ポーロの旅行記とされる『東方見聞録』はフビライ時代の情報を伝えて欧州で広く読まれ、モロッコ出身の大旅行家イブン・バットゥータも海路を利用して中国まで至っている。
文化や技術の交流も盛んになった。中国の火薬・羅針盤・印刷術・陶磁器などがイスラム世界や欧州に伝わり、大きな影響を与えた。一方、中国にはイスラムの天文学・数学・医学や技術がもたらされ、高精度の太陰太陽暦である授時暦が作り出されるなどした。モンゴル帝国は宗教に対し寛容だったため、在来の儒教・道教・中国仏教に加えて、チベット仏教・イスラム教・ネストリウス派キリスト教・カトリックなどが広まった。
モンゴル帝国時代に築かれた交易のネットワークはきわめてスケールが大きく、経済や文化を大いに活性化した。現代のモンゴル・中国・ロシアの経済回廊がどの程度のインパクトを与えられるか、注目される。
<参考文献>
杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』(興亡の世界史)講談社学術文庫
宮崎正勝『世界史の誕生とイスラーム』原書房
北村厚『教養のグローバル・ヒストリー:大人のための世界史入門』ミネルヴァ書房
福井憲彦他『世界史B』東京書籍
(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)
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