2020-04-04

「投機」とは何か? 本質的には誰もが投機家であり、人生とは投機の連続だ

投機と投資の違いを知っていますか


投機という言葉は評判が悪い。マネー系のコラムなどでよく見るのは「投機と投資は違う」という解説だ。「長期での収益拡大を見込んで資金を投じるのが投資、短期的な値動きに着目して利益を得ようとするのが投機」などと区別し、リスクの大きな投機でなく、堅実な投資を心がけましょうとお説教する。

けれどもこの解説は、長期と短期の区別が曖昧だし、投機は投資よりリスクが大きいとも限らない。東証1部上場の有名企業の株を長期投資で10年持ち続けたら巨額の不正経理が発覚して倒産し、株が紙切れ同然になって財産が吹っ飛んでしまう場合もあるだろう。午前に買って午後売るデイトレードなら、損をしてもたかが知れている。


このように投機は、曖昧な根拠に基づいて、なんとなく悪いものとされる。それと同時に、相場師やヘッジファンドの運用者、デイトレーダーなど投機をなりわいとする特殊な人(投機家)が行うもので、普通の市民には縁のないものと考えられている。

しかし、その考えは正しくない。人は誰でも自分の意思を持って生きている限り、広い意味では投機家である。なぜなら、未来は常に不確実だからだ。


どんなに科学が進歩しても、未来の不確実性をなくすことはできない。


投機家が白い目で見られるのは、明日の相場が上がるか下がるかという不確実なことに賭け、利益を得ようとするからである。けれども、それは普通の人も変わらない。

人は誰でも、利益を得るために行動する。この場合の利益とは、金銭的・物質的な利益だけを意味しない。金銭や物の入手以外に、名声の獲得や人間関係の改善など、なんらかの行動によって精神的な満足を高めることを指す。言い換えれば、幸せになることである。

ウェブのgoo国語辞書で調べると、投機の第1の定義は「利益・幸運を得ようとしてする行為」とある。これが投機の本来の意味といえる。

ただし厄介なことに、ある行動によって本当に幸せになれるのか、なれるとしてもどの程度なれるのか、事前に知ることはできない。未来は不確実だからだ。

どんなに科学が進歩しても、未来の不確実性をなくすことはできない。他人の例や過去の経験を参考にして周到に準備しても、結局は裏目に出て、むしろ不幸になってしまうかもしれない。それでも少しでも現状を変え、幸せになりたければ、相応のリスクを覚悟のうえで行動するしかない。だから本質的には人間は誰もが投機家であり、人生とは投機の連続なのだ。

「それなりの幸せ」を捨てた咲子の選択


さて前置きが長くなったが、あらゆる人生は投機であるという真実を知るには、近藤ようこの名作マンガ『心の迷宮』(全3巻、小学館)を読むといい。

近藤ようこの作品は大きく分けて、中世日本を描く時代物、今の日本を舞台とする現代物の2つがあり、『心の迷宮』は現代物の代表作の1つだ。他の現代物と同じく、平凡な人々の人生の一断面を描く短編集で、相場師もヘッジファンドのマネジャーも出てこない。それでも、今より幸せになろうと行動を起こす登場人物たちは、本質的に投機家である。

「山へ還る」(第1巻)の看護婦・咲子は、婚約した相手・田代がいるが、山で育ったという若い男・滝谷と出会い、恋愛関係となる。咲子には幼い頃、父と離婚して実家のある山に去った母がいた。

結婚が迫った咲子は、いったんは滝谷との別れを決意し、山で暮らそうという申し出を拒み、結婚後に住む予定のマンションでこう告げる。「田代さんとここで寝て、子供を産んで、育てて…年をとって死ぬの。それなりにきっと幸せよ」

だが滝谷が去ったすぐ後、咲子は後悔する。幼い頃、母が自分を捨てたのではなく、山を恐れた自分がついて行かず、母を捨てたことを思い出す。同じ過ちは繰り返したくない。咲子は仕事を辞め、婚約も解消し、山に住む滝谷のもとに向かう。「それなり」の幸せとは別の幸せを選んだのだ。

「愛する人」を捨てた瞳の選択


人間は他人のために自分を犠牲にし、しかしそれによって心の慰めを得ることもある。これも幸せの一種だ。「火宅」(同)の瞳は、エリートサラリーマンの明彦と職場結婚する。結婚後、明彦は学生時代に打ち込んだ小説執筆を再開すると、異常なほどのめり込み、やがて失踪する。

明彦の父は、小さい縫製工場の婿に入った、読書好きでやさしいが商売に向かない人間だった。工場が経営難に陥っても何もできず、自殺する。その血を引いた明彦も、本質は弱い人間だった。仕事も瞳との結婚生活も投げ出し、テレクラで知り合ったという女性・節子とアパートで暮らしていた。そこへ瞳が訪ねていくと、子どもの頃から両親が不仲で家庭的な幸せを知らない節子は、自分と同じ種類の人間だーーと明彦は訪ねてきた瞳に話す。

瞳は身を引くことを決意する。見捨てないでほしいとすがる明彦の母に、静かに答える。「彼は節子さんと生きていきます。〔略〕わたしではだめなんです。私ではあの人はまた…」。後日、節子との結婚を知らせる明彦の手紙を受け取った瞳は、明彦をほんとうに愛していたことを知る。

「こんなはずじゃなかった」妻の選択


もちろん選択が常に正しいとは限らない。「楽園」(第2巻)の舞台は南の島のペンション。オーナーの妻は、昔からの憧れを実現したいという夫に従い、双方の実家から借金をして島にペンションを建て、東京から2人で引っ越し、商売を始めた。

最初の頃はすべてが美しく見えたけれども、忙しく、ゆとりのない生活の中で色あせていく。島に住んでいるのに、ずっと海にも行っていない。資金繰りもつかないのに喫茶店を出したいなどと夢を語る夫に、いら立ちを募らせる。「もう少ししっかりした人だと思った! だからついてきたのに」

人は同時に複数の人生を生きることはできない


人は目指す目的を自分の行動によってどの程度達成できるか事前に知ることができない。また、それを達成できたとしても、後で考えたとき、他に可能だった代替案のうち、その行為が最善の選択であったかどうかも決してわからない。同時に複数の人生を生きることはできないからだ。

山で滝谷と暮らし始めた咲子が幸せだと感じたとしても、それより幸せになれる選択がなかったかどうかはわからない。明彦の幸福を思って身を引いた瞳が、これで良いと思ったとしても、いつか後悔しないとは限らない。

それでも人は幸せを求め、リスク覚悟で未来に向かって選択を繰り返す。それは本質的な意味における投機であり、勇気ある行為なのだ。
wezzy 2018.10.28)

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