政府は4月1日、改正出入国管理法(入管法)を施行し、これまで原則禁止していた単純労働分野について外国人の受け入れに踏み切った。安倍政権は否定しているが、これは移民政策にあたるとの見方が広がっている。
外国人の増加は人手不足の緩和につながる。一方で、宗教、言語、生活習慣の異なる人々との摩擦や軋轢を懸念する声もある。
移民に伴う社会的な摩擦を最小限に抑えながら、日本側と外国人の双方が経済的なメリットを享受したいのであれば、ひとつポイントがある。どのような移民をどれくらい受け入れるかという判断を政府に任せるのは、やめたほうがよい。
ブラジル移民のルーツを辿る『その女、ジルバ』
移民問題を題材とする優れたマンガを読んでみよう。ただし、日本にやって来る外国人移民ではなく、海外に出て行く日本人移民の話だ。昨年完結した人気作、有間しのぶ『その女、ジルバ』(小学館、全5巻)である。
笛吹新(うすい・あらた)は大手スーパーの倉庫で働く40歳独身女性。年齢を理由に最前線の売り場から追われ、結婚するはずだった男からも捨てられ、そのうえ給与は安い。恋人なし、貯金なし、老後のあてもない不安から少しでも逃れようと、夜のアルバイトに飛び込む。そこはホステスたちの平均年齢70歳の高齢バー。新は見習いホステス「アララ」として奮闘するうちに、人生について多くを学んでいく。
このバーの初代ママ(故人)は通称ジルバ。幼い頃に親と一緒にブラジルに渡り、そこで育ったブラジル移民だ。現地で結婚し、子どもも生まれるが、第二次世界大戦の勃発で日本に引き揚げる途中、家族は病死。一人帰国した後、ブラジル仕込みのダンスで踊り子として身を立てた。
今では忘れられかけているが、日本は明治初めから、戦後の高度成長期にかけて、多くの移民を海外に送り出す「移民大国」だった。戦前の1899(明治32)〜1937(昭和12)年だけでも累計64万1677人が海外に移住している(岡部牧夫『海を渡った日本人』)。
政府によってズタズタにされたブラジル移民
『その女、ジルバ』では現代の出来事と並行し、過去のブラジル移民の物語が描かれる。ブラジルへの移民が盛んになったのは1920〜30年代。日本国内の農業不作、経済不況、関東大震災などで、人々は異国の土地に希望を託す。数年間の出稼ぎでコーヒー農園で儲け、故郷に錦を飾るつもりだった。
しかし、現地はそれまでの過剰生産からコーヒー不況の最中。日本人移民は厳しい労働条件と偏見のなか、自給自足を余儀なくされた。ジルバの両親も相次いで早逝する。
ブラジル移民の夢と現実の落差は、経済情勢の変化だけが原因ではなかった。遠藤十亜希『南米「棄民」政策の実像』(岩波現代全書)に詳しい。
明治から大正にかけて、南米移民は民間の移民会社が取り仕切った。移民の募集・選考から渡航、移送といった手続きだけでなく、現地で移民と雇用主の間のいさかいを調停したり、移民との契約義務を履行するよう雇用主に要請したり、政府の役割を演じて移民の定着に貢献した。ところが1924年(大正13)にこれが国営化され、関係省庁や政府系団体の直轄になると、様子が一変する。
日本政府は現地で反日感情が高まっているにもかかわらず、ブラジル移民を飛躍的に増加させた。ブラジル人との利害衝突を避けるため、新規の移民をジャングルや辺境地に送り込む。これらの土地には外国人労働者が一攫千金を狙えるような商業や産業の拠点はなく、最低限の生活に必要な社会インフラさえ存在しなかった。
政府がそこまで南米移民に固執した理由について、日本国内の人口急増に伴う失業・貧困を解決するためだったという説明がよくなされる。けれども遠藤氏は、実際には別の理由があったとして、これまで注目されなかった事実を明らかにする。
移民政策が進められたもうひとつの理由
もし、人口問題が理由であれば、失業・貧困が深刻だった東北地方からの移民が多いはずだ。ジルバは福島出身だが、実際に多数を占めたのは岡山、広島、山口の山陽地方と、福岡、佐賀、長崎、熊本の北部九州地方である。それはなぜか。
山陽・北部九州には、明治政府の富国強兵・殖産興業政策における基幹産業である石炭、鉄鋼、造船業が集積し、全国の労働者が職を求めて殺到した。
特に石炭は主要エネルギー源としてもてはやされる一方、労働環境は劣悪だった。1918年(大正7)に富山から波及した米騒動をきっかけに炭鉱労働者の不満が爆発し、暴動が発生。福岡では鎮圧のため出動した軍隊に武装した労働者がダイナマイトを投げつけて、兵士3名が死亡する事態となり、軍部にショックを与えた。
山陽・北部九州の炭鉱はもうひとつの社会運動とも密接な関係があった。部落解放運動である。
戦前の被差別部落は西日本に多く分布し、なかでも山陽・北部九州の部落民人口は全国の28%を占めた。彼らの多くは炭坑や軍需工場に就職する。米騒動では、多数の被差別部落民が炭坑の暴動に加わった。1922年(大正11)、部落解放をめざす全国水平社が発足。支配層との全面対決を打ち出す。
労働者や被差別部落民の反体制運動に政府は警戒を強めた。1924年(大正13)、移住希望者への渡航補助金が制度化され、以後、移民は国営事業として推進される。遠藤氏は移民政策について「人口緩和という本来の目的とは別の目的、すなわち、政治不安を緩和させるという第二の使命を帯びていった」と指摘する。
政府にとって移民は政治的な「安全弁」にすぎない
移民政策のターゲットとなったのは地方の貧農や失業者などの貧困層のほか、山陽・北部九州の被差別部落民だった。
部落民の南米移民を奨励・支援したのは内務省社会局およびその所管の中央融和事業協会である。融和協会系全国紙は紙面で「今が移住の好適期」などと移民熱を煽った。現実が違ったことはすでに述べた通りだ。
政府の移民計画は、移住地の悪条件、計画のずさんさなどが原因で、頓挫・失敗が相次いだ。『その女、ジルバ』では、大戦でブラジル政府が日本との国交を断絶した際、多数の移民が日本政府から救いの手を差し伸べられないまま、奥地の収容所に向かう様子が描かれる。
民間の移民会社と違い、政府にとって移民は顧客ではなく、政治的な「安全弁」にすぎなかった。政府主導の移民政策は悲劇を生む。
移民を国内に迎える場合も、同じことがいえる。ドイツのメルケル政権は2015年、内戦が続くシリアなどから100万人を超える移民・難民を受け入れたが、その結果、治安や財政の問題が表面化。流入抑制への方針転換を余儀なくされた。民間の受け入れ余力を十分考慮せず、政府主導で進めたがゆえの過ちといえる。
安倍政権は4月からのルール変更により、介護や建設、農業など人手不足の14業種を対象に、5年間で最大約34万人の外国人労働者の受け入れを見込む。けれども、これらの業種や人数が適切かどうかは、ふたを開けてみなければわからない。民間の実情を無視して数値目標にこだわれば、経済・社会に無用の混乱を招きかねない。
(wezzy 2019.04.01)
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