けれども、経済を専門分野のひとつとするジャーナリストとして言えば、経済は決して難しくない。高校の教科で「政治・経済」としてセットになる政治のほうが日常生活から縁遠いのに対し、経済は私たちの日々の暮らしにとても近い。
経済理解に大切な庶民感覚
だから経済を理解するうえで大切なのは、市民としての日常感覚を忘れないことだ。
そのヒントとして、ちょうど良いマンガがある。井上純一『キミのお金はどこに消えるのか』(KADOKAWA)だ。ネットでの連載が単行本として昨年出版されたのに続き、続編の「令和サバイバル編」が8月の終わりに出た。
著者の井上氏が、妻で中国人の月(ゆえ)サンを相手に、経済の仕組みや経済政策について解説していくエッセイマンガだ。井上氏は専門外ではあるが経済学の知識があり、月サンの主婦感覚に基づく素朴な意見をたしなめ、教え諭していく。
この作品の読みどころは大きく2つある。ひとつは、井上氏がわかりやすく解説する経済政策の考え方だ。これはマクロ経済学と呼ばれ、現在、日米欧をはじめ主要国政府が採用している。井上氏の解説を読めば、今の標準的な経済政策がどのようなものか、大枠でつかむことができる。
もうひとつの読みどころは、その井上氏の解説に対し、月サンが時折入れる鋭いツッコミだ。月サンは夫と違い経済の専門知識はないけれども、素朴な庶民感覚に基づく疑問を遠慮なくぶつける。しかも、あとで詳しく述べるとおり、そのツッコミが的を射ている場合が少なくない。
マクロ経済学が抱える問題
ここで補足しておこう。井上氏が解説するマクロ経済学は、20世紀前半に活躍した英国の有名な経済学者、ケインズの理論などに基づく。このためケインズ経済学とも呼ばれる。
マクロ経済学では、経済が不況に陥ったときには、政府が借金をしてでも公共事業を行うなどして経済に介入し、世の中にお金を増やしインフレを起こせば、景気が上向くと説く。世界大恐慌に襲われた1930年代、各国はこの政策を相次いで打ち出し、不況克服に効果があったとされる。
しかし1970年代以降は、インフレと不況が同時に起こる事態に対処できず、ケインズ経済学の影響力は低下する。代わって「新古典派経済学」が台頭し、市場の自由な取引を重視し、政府は最低限の役割を果たせばいいとする見方が再び主流になった。
2008年のリーマン・ショックをきっかけとする国際金融危機を受け、ケインズ経済学は再度脚光を浴びる。各国は積極的な市場介入政策を打ち出し、今に至る。
とはいえ、ケインズ経済学的な政策が経済の立て直しに成功したかというと、微妙なところだ。日本は「異次元緩和」と銘打って大規模な金融緩和に乗り出したものの、目標とするデフレからの完全脱却には至っていない。中国は公共事業を急拡大させた結果、巨額の借金が積み上がり、経済危機に陥るのではと心配されている。
こうなった原因は、ケインズ経済学が理論的な問題を抱えているためだと、市場介入に批判的な経済学者から指摘されている。「無理にインフレにしても意味がない」「ムダな公共工事で経済は良くならない」といった批判だ。
中国人妻の的を射たツッコミ
さて、補足が少々長くなったが、興味深いことに、経済学の知識がない月サンによるツッコミが、マクロ経済学への批判としてなかなか的確なのだ。
たとえばインフレについて月サンは「ものの値段がだんだん高くナリマスヨ。好きな人いないデス!!!」と拒絶反応を示す。一方で、デフレについては「どんどんモノが安くなるデフレ良いデスヨ」と歓迎する。どちらも素朴な庶民感覚に基づく反応だ。
これに対し井上氏は、物価上昇がゼロに近いと企業の利益が増えず、リストラや倒産が多くなるので「何%かはインフレしてないとダメというのが、世界的な常識です」と諭す。
ところが最近の研究によると、デフレは経済に悪く、小幅なインフレが経済に好ましいという「常識」が、必ずしも正しくないことがわかってきた。
たとえば、米ミネアポリス連邦準備銀行のエコノミストは2004年の論文で、米英独仏日など17カ国を対象にデフレと不況(経済が停滞する状態)の関係を調べた。各国について少なくとも100年間のデータを集め分析したところ、デフレ期の90%近くが不況でなかった。論文は「データを見る限り、デフレと不況の間にはほとんど何の関係もない」と結論づけている。
もしそうなら、無理にインフレにする必要などない。物価は安いほうがうれしいし、良いに決まっている。この素朴な感覚は間違っていないのだ。
公共事業はムダなほど良い?
月サンの鋭い感覚はこれだけではない。公共事業はムダ遣いだという意見に月サンは共感し、中国では街をひとつつくって全部壊し、またつくるなど普通だと話す。
これに対し井上氏は、公共事業は重要だとたしなめ、ケインズの言葉を紹介する。ケインズによれば、公共事業はムダであるほどいい。極端な話、穴を掘ってお金を埋め、それを掘り返すのでも構わない。そうすれば経済全体の回復につながるという。
この不思議な現象をもたらすのが「乗数効果」だ。ケインズ経済学によれば、政府が支出を増やすと民間の経済活動に波及効果をもたらし、最終的には元の支出の増加分が何倍かになって国民所得を増大させる。この効果を乗数効果と呼ぶ。
ところが、このケインズの説に対しても、最近は疑問視する向きが増えている。大阪大学の小野善康教授(現特任教授)は2006年、乗数効果が国民の所得を増やすという点においてはまったく効果を持たないという趣旨の論文を発表し、注目された。
ムダな公共事業はムダ、という月サンの庶民感覚は、経済学的に見てもそれなりに根拠のあるものなのだ。
ケインズ経済学を支持する井上氏も、誰も住まないマンション群をつくる中国の公共事業を思い浮かべ、「納得できないトコはある……」と本音を漏らす。
経済学は物理学などの自然科学と違い、実験室で実験ができない。経済政策を行う政府の都合で評価が左右されることもある。このため学説の対立が大きく、どの説が正しいのか定まりにくい。
夫婦が仲良く議論しながら、ときには意見の違いが浮き彫りになるこのマンガを読むことで、経済学のそんな複雑で厄介な側面も理解できるだろう。
(wezzy 2019.10.04)
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