2020-04-26

脱現金社会の影~プライバシーや財産保全にリスクも

政府が現金を使わない決済の比率を2025年までに40%に高める目標を掲げ、日本経済のキャッシュレス(脱現金)化を後押ししています。6月に閣議決定した18年の「経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)」で、中小企業を対象に「IT・決済端末の導入やポイント制・キャッシュレス決済普及を促進する」と明記。経済産業省は8月末にまとめる19年度予算案の概算要求までに、制度や予算規模などの詳細を詰める予定です。

主要国でクレジットカードや電子マネーなどで支払う非現金決済の比率が5割を超える中、日本は2割にとどまるそうです。日本は「キャッシュレス後進国」だという表現もメディアで目立ってきました。


先行する北欧諸国などを手本に、キャッシュレス化を推進しようとの声が高まっているのは日本だけではありません。国際通貨基金(IMF)チーフエコノミストの経験もある米ハーバード大学のケネス・ロゴフ教授は著書『現金の呪い』などで、高額紙幣の廃止を唱えます。

キャッシュレスはたしかに便利です。1枚のカードで電車や地下鉄、バスに乗れるだけでなく、飲食店やコンビニエンスストアで支払いもできるのは重宝しますし、財布が小銭で重くならないのも助かります。市場経済の自然な流れとしてキャッシュレス化が広がるのであれば、大いに歓迎です。


強引にキャッシュレス化を進めるのは注意が必要


ただし、政府の後押しで強引にキャッシュレス化を進めることには注意が必要です。キャッシュレスはメリットだけでなく、リスクもはらむからです。

キャッシュレスで個人がさらされるおもなリスクには次のようなものがあります。

第1にプライバシー侵害の恐れです。キャッシュレス決済で現在主流のクレジットカードなどは現金と違い、第三者の仲介を必要とするため、取引内容を特定される恐れがあります。最近注目を集める仮想通貨も、取引量の多いビットコインなどに比べ匿名性が高いとされるモネロ、ダッシュ、ジーキャッシュなどは犯罪に悪用されかねないと金融庁が問題視。一般の個人は利用しにくい面があります。

第2に財産保全の選択肢が狭まるリスクです。現金がなくなると、タンス預金ができなくなります。タンス預金は盗難などのリスクはありますが、銀行預金と違って手数料がかかりませんし、中央銀行のマイナス金利政策が個人口座に波及して目減りする恐れもありません。銀行破綻で預金が一部しか返らないリスクもありません。タンス預金を野暮ったいと見下す風潮もありますが、資産分散の選択肢の一つとしてそれなりの存在意義があるはずです。災害時、IT(情報通信)システムの障害でキャッシュレス決済ができなくなる場合の備えとしても軽視できません。

第3にサイバー犯罪のリスクです。財産を電子的な形でしか蓄えられないと、サイバー犯罪の潜在的リスクや被害にあった場合の打撃が大きくなります。現金にも盗難・紛失リスクはありますが、キャッシュレスだと財布に入る以上のお金を持ち歩けたり、金庫に入る以上のお金を家やネット上に置いておけたりするので、万が一の場合に大きな打撃となる恐れがあります。

紙幣廃止を主張する政府や専門家が掲げるメリットのうち、最も強調されるのは、テロ資金などのマネーロンダリング(資金洗浄)や脱税、収賄といった犯罪行為の防止です。けれどもよく考えてみると、必ずしも説得力のある理由とは言えません。

現金を規制すれば、マネーロンダリングや脱税、収賄などの犯罪は実行しにくくなるかもしれません。しかしそれは同時に、個人のプライバシーが税・司法当局に筒抜けになるリスクを伴います。アマゾンやグーグルに個人情報を知られるのが嫌ならサービスを使わなければ済みますが、政府の場合はそうはいきません。

テロや脱税、収賄などの犯罪の根本には、国際紛争や重税、政府の腐敗といった構造的問題があります。それを放置したままで現金という手段だけを規制しても、本質的な解決にはなりません。

そもそも現金は、いわれるほど犯罪に使われていません。英政府の調査によれば、マネーロンダリングやテロ支援に一番利用されるのは銀行で、二番目は会計事務所。現金は三番目にすぎません。犯罪防止を何よりも優先するのなら、銀行や会計事務所の廃止も検討しなければならないはずですが、もちろんそんなことを言う人はいません。

現金廃止のメリットとしては、中央銀行によるマイナス金利政策が効きやすくなるという意見もあります。これはすでに述べたように、預金が目減りするのをじっと耐えなければならないことを意味します。事実上の税金です。日本では憲法の定めにより、法律の根拠がなければ税金を課してはならないことになっています。政府が現金廃止でマイナス金利を国民に実質強制するのは、その観点から問題含みです。

日本政府が期待する訪日客の購買増はどうでしょうか。政府は中小の小売店や飲食店に対してキャッシュレス決済端末を配布するなど支援策を検討中です。実現すれば、店舗側の負担は少なくて済むでしょう。けれどもその財源は税金ですから、結局負担するのは国内の市民や消費者です。税負担が大きくなる分、買い物する余裕がなくなります。店舗は来日客で潤っても、国内客の消費が減り、差し引きでプラスになるかどうかはわかりません。

米欧では政府による現金廃止運動を「テロとの戦い」になぞらえ、「現金との戦い」と呼ぶことがあります。この表現の背景には、「テロとの戦い」を名目とした軍事介入がかえって新たなテロを誘発するのと同じく、「現金との戦い」が犯罪防止などのメリットを上回る害悪を市民に及ぼしかねないという懸念があります。

米ジョージ・メイソン大学の経済学者、ローレンス・ホワイト教授は「現金との戦い」について「本当に公益にかなうのか、それとも税当局や既存の決済サービス業者の私益を満たすだけなのか」と疑問を呈します。

キャッシュレス先進国の一つ、スウェーデンでも懐疑論が浮上しています。4月に実施した世論調査では、70%近くが現金を選択肢に残すのに賛成しました。「通貨が完全にデジタル化されたら、システムを止められたとき自分を守る術がない」と現金擁護派は指摘します。

キャッシュレス社会には光だけでなく、影の部分もあります。「脱現金」をどのように進めるかは、政府の無理な後押しではなく、経済環境や利用者のニーズを踏まえた企業の自主的な判断に基づくべきでしょう。
日経BizGate 2018/8/6)

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