2017年9月10日日曜日

似非清貧の厚顔

物質文明の恩恵にたっぷり浴していながら、それを罵り、蔑んでみせる知識人ほど、愚かで厚顔無恥なものはない。そのような偽りの清貧を気取る知識人は、洋の東西を問わず大昔からいるが、いまだにいなくなる気配がない。

京都大学名誉教授の佐伯啓思は『さらば、資本主義』(新潮新書)で、典型的な似非清貧の議論を繰り広げている。

まず佐伯は、大店法改正・廃止による規制緩和で地方都市の郊外に出店した、大規模なショッピングモールを非難する。便利なショッピングモールの出現により、雑多な店が立ち並ぶ昔ながらの街が失われてしまったという。

ところが佐伯は一方で、小都市に住んでいた子供の頃、親に連れられて大都市のデパートを訪ねた思い出を懐かしそうに書く。「デパートは、人とモノに溢れ、『文明』の香りを発散する舞台装置でした」「日常をこえた『体験』だったのです」

しかしいうまでもなく、かつてデパートは今のショッピングモールと同じく、古い商店街を破壊する元凶として出店・営業が規制されていた。その証左に、大店法の前身は百貨店法という法律である。自分はデパートの利便を享受しておきながら、他人がショッピングモールに行くのは商店街を衰退させるから認めないというのは、身勝手である。

また佐伯は、インターネットを利用したショッピングを批判する。人はかつて商店街などでの買い物を通じて「他人と関わり、社会と接していた」のに、インターネット販売は消費を「ただ個人の欲望充足へと還元」し、社会的で公共的な側面を失わせたという。

ところがこの『さらば、資本主義』を含め、佐伯の著作はいずれも、インターネット書店で売られている。もちろん著者自身の承諾の下にである。

佐伯の主張に従えば、本はインターネット書店ではなく、街の本屋で買わなければ、社会との接点を失い、単なる「個人の欲望充足」へと堕してしまうはずである。ところが佐伯は自分の本はインターネットで堂々と売らせている。言行不一致もいいところである。

さらに佐伯は、「より安く、より早く、より便利」な商品・サービスの追求を是とする「消費者絶対主義」が「衝動の支配する社会」をもたらしたと嘆いてみせる。

ところがあとがきでは、本書の内容を連載した雑誌の編集者が「ほとんど毎月のように打ち合わせに京都まで足を運んでくださ」ったと礼を述べる。

編集者はおそらく、東京から新幹線を利用したのだろう。もし佐伯が本心から「より早く、より便利」なものを求める態度が間違いと信じるのならば、次回からせめて在来線を半日かけて乗り継いで来るよう頼んでもらいたい。(2015年12月、某ミニコミ紙に寄稿)

2017年9月3日日曜日

武士道が日本を滅ぼす

マンション杭工事の偽装、巨人の選手による野球賭博などをきっかけに、今の日本人は古き良きモラルを失ったと嘆いてみせる声がまたぞろメディアをにぎわせている。だが昔の日本人が今よりも特別に道徳的だったというのは嘘だし、昔の道徳を復活させれば今の日本が良くなるわけでもない。

昔の日本人の道徳としてしばしば称揚されるのは、武士道精神である。一橋大学特任教授の山岸俊男は『「日本人」という、うそ』(ちくま文庫)で、社会心理学の成果に基づき、武士道に関する思い込みの誤りを暴いている。

武士道精神の一つの特徴は滅私奉公の精神とされる。しかし戦国時代の武士たちは、現代の米国社会と同じように、実力主義の原理で働いていた。自分の能力をきちんと評価してくれない「上司」ならば、さっさと見限って「転職」した。

これに対し、江戸時代の武士は滅私奉公だったといわれる。しかし、これには合理的な理由があった。「転職」がいくらでもできた戦国時代と違い、江戸時代では主君を替えるわけにはいかない。子孫の代までも同じ殿様に仕えることになるから、常日頃から忠義ぶりを示していたほうが得策だったにすぎない。終身雇用制で事実上転職できないサラリーマンと同じだと山岸は指摘する。

江戸時代の武士の行動に少なくとも表面上、打算や私心が一切見られず、人に感動を与えることは事実である。しかしだからといって、その精神を今の社会に持ち込むとおかしなことになる。主君や国家に対する忠誠を何より尊ぶ武士道精神は、近代社会を支える商業道徳とは共存できないからである。

たとえば商業道徳では正直を重視する。ところが武士道では、主君のためなら嘘をついても許される。企業不祥事の背後にある、会社を守るためならば消費者を騙していいという考えは、「武士道的なメンタリティ」であると山岸は述べる。だからこの手の不祥事を武士道精神の復活によってなくそうなどと考えるのは、的外れである。

教育で幼い頃から武士道流の「利他の心」を教え込めという意見もよくある。だがそれはかえって「利己主義者たちの楽園」をもたらしかねないと山岸はいう。教育をまじめに受け止め利他的な精神を身につけた「お人好し」を、利己的な者がいいように利用できるようになるからである。愛国教育が盛んだった戦時中、愛国者のふりをした一部の利己主義者たちが権力を握ったり、不正な利益を得たりしたのはその実例である。

鎖国時代に戻るような武士道復活は日本を滅ぼしかねない。開かれた近代社会にふさわしい商人道こそが求められるという山岸の意見に同感である。(2015年11月、某ミニコミ紙に寄稿)

2017年8月27日日曜日

新自由主義批判の嘘

昨今、右からも左からも目の敵のように批判される「主義」といえば、「新自由主義」である。ところがその批判の中身は矛盾だらけで、支離滅裂を極める。

たとえば経済アナリストの菊池英博は『新自由主義の自滅』(文春新書)で、新自由主義の特徴の一つとして「市場万能主義」を挙げる。「自由な市場は、価格機能によって、資源の最適配分ができるようになるので、富をもっとも効果的に配分できる」「その目的を貫徹するために経済活動を可能な限り自由にすべきである」という考えだという。

ところが菊池は一方で、新自由主義のもう一つの特徴として「金融万能主義(マネタリズム)」を挙げる。「景気対策は金融政策によるべきである」という考えである。しかし金融政策とは、金利水準を金融機関の自由な取引に任せず、政府が操作する行為を指す。これは最初の特徴である市場万能主義と矛盾する。

また、菊池は新自由主義の別の特徴として、「小さい政府」の主張を挙げる。政府機能を縮小して富裕層に減税し、社会保障制度を否定する考えだという。そしてその代表例として、1980年代米国のレーガン政権を挙げる。

しかしレーガンは、富裕層減税を行なったかもしれないが、一方で軍事費を大幅に増やした。これは菊池自身がいうように、軍事支出という公共投資によって需要を創出し雇用を増やそうとする「軍事ケインズ主義」であって、小さな政府の理念に反する。

そもそもレーガンが政府を小さくしたというよく語られる説は、じつは嘘である。レーガン政権下で政府債務は3倍近くに増えた。連邦政府職員数は32万4000人増加し、530万人となった。しかも増加人数に占める軍関係者の割合はおよそ4分の1にすぎず、軍以外の職員は増えている。小さいどころか、きわめて「大きい政府」である。

挙句の果てに菊池は、「新自由主義者は自らの主張と目的を達成するために権力と結託し……結局『大きい政府』を作り、自らの利権を守る」と書く。真の狙いが大きい政府を作ることなら、新自由主義は小さい政府を目指すという最初の記述は何だったのか。目的を達するために権力と結託するのなら、新自由主義は市場万能主義という主張は嘘ではないか。

菊池は、これこそ「新自由主義者のまやかし」だと書くが、自分の頭が混乱しているだけであろう。新自由主義などという、左翼が市場経済を攻撃するためにでっち上げた好い加減な概念によりかかって物を書こうとすれば、そうなるのは当然である。けれども笑い話では済まない。こんなお粗末な議論でも、市場経済の評判を貶める効果はあるからである。

(2015年10月、某ミニコミ紙に寄稿)

2017年8月13日日曜日

歴史を押しつける者

戦後七十年を機に、「敗戦国史観」への批判があらためて強まっている。曰く、戦後日本人が教えられてきた左傾的な近現代史は、米国および連合国軍総司令部(GHQ)が方向を定めたものであり、戦争の勝者による歴史の押しつけである。したがってこれを克服し、まっとうな歴史観を取り戻さなければならない、という。しかし歴史を押しつけた勝者は、米国やGHQだけではない。

作家の原田伊織は著書『明治維新という過ち』(改訂増補版、毎日ワンズ)で、この百年以上、日本人が公教育によって教え込まれてきた「明治維新があってこそ日本は近代化への道を歩むことができた」という歴史観は、徳川幕府を倒した官軍、すなわち長州・薩摩という勝者の都合に合わせたものにすぎないと批判する。

たとえば今も学校で教える日本史によれば、嘉永6年(1853年)にペリーの黒船が来航し、その武力威圧に屈して幕府はついに開国したとされる。ところが実際には幕府は天保13年(1842年)に薪水給与令を発し、実質開国している。幕府はペリー来航前から浦賀などで米国と接触してもいた。

劣らず歪曲が甚だしいのは、討幕に功労のあった薩長土肥の下級武士たち、いわゆる「勤皇の志士」の美化である。彼らの実像は「現代流にいえば『暗殺者集団』、つまりテロリストたちである」

とくに悪質だったのは長州の「志士」で、京都において、幕府の役人や、幕府に協力的とみた商人、公家の家臣、学者などを標的に略奪、放火、暗殺を繰り広げた。「彼らのやり口は非常に凄惨で、首と胴体、手首などをバラバラにし、それぞれ別々に公家の屋敷に届けたり、門前に掲げたり、上洛していた一橋慶喜が宿泊する東本願寺の門前に捨てたり、投げ入れたりした」

官軍は会津戊辰戦争の際も暴虐をきわめた。原田によれば、長州の奇兵隊は「山狩り」と称して村人や藩士の家族が避難している山々を巡り、強盗、婦女暴行を繰り返した。家族の見ている前で娘を平然と輪姦し、家族が抵抗すると撃ち殺したという。

長州出身で明治時代に初の内閣総理大臣となった伊藤博文は、朝鮮の独立運動家・安重根に暗殺された。現在、日本政府は安重根を「テロリスト」とする立場である。しかしじつは伊藤自身、若い頃は志士という名の「テロリスト」であった。根拠の薄い噂にもとづき、江戸で国学者塙次郎を暗殺している(一坂太郎『司馬遼太郎が描かなかった幕末』)。

力を背景に歪んだ歴史観を押しつける者は、外国政府だけとは限らない。自国政府がまことしやかに語る歴史にも、同等以上の注意が要る。

(2015年9月、某ミニコミ紙に寄稿)

2017年8月6日日曜日

自滅する米国

集団的自衛権や環太平洋経済連携協定(TPP)を通じ、日本政府は米国と政治・経済的つながりをいっそう深めようとしている。まるで米国と組んでさえおけば、未来永劫安泰だと考えているかのようである。危うい態度といわざるをえない。頼りにしている米国自身、今にも滅びの坂を転げ落ちようとしているからである。

原著が米国でベストセラーとなった著書『コールダー・ウォー』(渡辺総樹訳、草思社)で投資戦略家マリン・カツサは、米国の没落がもはや避けられないと説く。鍵となるのは米ドルの価値である。

戦後、米国の覇権を支えてきたのは強いドルであった。ドルは世界中の取引で利用されたから、どの国も準備通貨として欲しがった。米国はドル札を刷るだけで、世界中から何でも欲しいものを手に入れることができた。巨額の軍事費も借金で賄うことができた。

しかしながら無から有を生み出すこの特権は米国を傲慢にし、肝心の経済力を衰えさせた。今では累積財政赤字は対GDP(国内総生産)100%を超え、製造業は衰退し、不況からの回復力も弱くなった。不況から脱しようと政府が金利を無理に押し下げたために、債券市場にバブルをもたらしている。

カツサは警告する。「この傾向が続けばドルは世界の準備通貨の地位を失うことになる。つまりドル資産は売りに出されるのである。そうなればドルの価値は暴落する」。ハイパーインフレの恐れに加え、債券相場の暴落で銀行に経営危機が広がる可能性もあるという。

これまでドルの価値を支えた大きな要因は、石油取引である。1970年代、米政府はサウジアラビアに対し、同国を防衛する見返りに石油販売をすべてドル建てにし、貿易黒字で米国債を購入するよう約束させた。他の産油国も追随し、世界の石油需要の増大とともにドル需要も増えた。

しかしこの構図は揺らいできた。サウジはイスラエルやイランとの関係をめぐり、米オバマ政権の外交に不満を募らせている。国内では反政府運動が収まらず、万が一現政権が倒れれば過激なイスラム教徒が同国を制し、石油でドルを支える仕組みは終焉を迎えるだろうとカツサは述べる。

カツサは米国に対抗するプーチン・ロシア大統領の戦略を詳述する一方で、こう指摘する。「仮にロシアと中国がドルへの挑戦を始めなくても、プーチンが何もせずぼんやりしていたとしても、アメリカは自らのドルの洪水に溺れることになる」

今年6月、ロシアの経済フォーラムにサウジが四年ぶりに参加し話題となるなど、両国は急接近している。世界が距離をおき始めた米国に日本だけが忠義立てしても、良いことはない。

(2015年7月、某ミニコミ紙に寄稿)

2017年7月30日日曜日

長い物に巻かれる国

日本は古来より和をもって貴しとなす美風があるとよくいわれる。しかし和を重んじる気風は、長い物には巻かれろという卑屈な根性と表裏一体である。

評論家の藤原正彦は誇らしげにこう語る。「何しろ日本は聖徳太子の頃から民主国ですから。和をもって貴しとなす。独裁者を嫌い、独裁者がいたことのない、世界でも珍しい国です」(アサヒ芸能1月15日号)

独裁者がいたことのない国は米国、英国、スイス、北欧諸国など主要国だけでも数多いから藤原の主張はデタラメだが、それ以上に、和をもって貴しとなす精神を手放しで称えるのが問題である。和を何よりも貴ぶ心性は、力の強い相手には逆らわないほうがよいという事大主義につながりやすいからだ。

力の強い相手の最たるものは国家である。国家に決して逆らわず従う態度は国家主義である。国家主義は西洋にもある。しかし日本と違い、西洋には国家主義に抵抗する知的伝統が存在する。

そのことを和歌山大学教授の菊谷和宏は『「社会」のない国、日本』(講談社選書メチエ)で、ともに国家による冤罪であるフランスのドレフュス事件と日本の大逆事件を対比しながら論述する。

ドレフュス事件では、軍部が捏造したスパイの証拠によってユダヤ系陸軍大尉ドレフュスが軍法会議で有罪とされる。これに対し作家ゾラはドレフュスを擁護し、一時亡命を強いられながらも、再審の道を開く。

ゾラを衝き動かしたのは、「人間性が国の都合に優先されてはならない」「国家以前に尊重されるべきものがある」という信念だった。

このような信念を生んだものは何か。ゾラの同時代人である社会学者デュルケームによれば、それはキリスト教である。キリスト教が育んだ個人主義精神からみれば、国家という組織はそれがいかに重要であれ、「ひとつの道具に過ぎず、目的のための手段でしかない」。

さて一方、大逆事件では幸徳秋水らが天皇暗殺を企てたとして根拠なく逮捕され、死刑を宣告され、処刑された。

ゾラのように立ち上がり、幸徳らを堂々と擁護する言論人はいなかった。幸徳らを乗せた囚人馬車を偶然目撃した永井荷風が「わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた」と記したのは有名である。

キリスト教の伝統をもつフランスと異なり、日本には「国家以前に尊重されるべきものがある」という思想は根づいていない。菊谷の言葉を借りれば、国家のみがあって社会が存在しない。

長い物に巻かれることをよしとする日本では、国家の暴走に歯止めをかける者がない。それは和を保つという長所を帳消しにしかねない、深刻な短所である。

(2015年6月、某ミニコミ紙に寄稿)

2017年7月23日日曜日

情報機関を信じるな

政府・自民党内で「日本版CIA」新設の機運が高まっている。海外での日本人の誘拐や殺害といった被害を防ぐには、米中央情報局(CIA)のような専門の情報機関が必要との考えかららしい。しかし情報機関が政府の官僚組織であるかぎり、他のお役所仕事と同様、ろくな働きは期待できない。 

先日死去した直木賞作家、船戸与一は海外を舞台とする多くのスパイ小説で、理想化されがちな情報機関の堕落した現実を描いた。昭和54年(1979年)の処女作『非合法員』(小学館文庫)では、元CIA情報員の老いた米国人がこう語る。 

「いいか、組織なんかを絶対に信用するんじゃない!……どんなことがあっても国家や組織なんかを信用しちゃあならん! これほど簡単に人間を裏切るものは他にないんだからな」 

「組織の中でも、とくに情報機関はとことん疑ってかかる必要がある! たいそうな目的を掲げてるくせに、やることなすことと言ったら組織の維持だけだ」 

「CIAと国防総省、それにFBI〔連邦捜査局〕の関係を見てみろ! いつもじぶんの組織の利益ばかり考えて反目しあってる!」 

CIAといえどもしょせんは役所である。画一主義、先例踏襲、独善性、派閥意識、縄張り根性といった官僚組織の弊害から逃れることはできない。老スパイの吐き出すような言葉はその事実を生々しく伝えている。 

これは小説の世界だけの作りごとではない。ニューヨーク・タイムズ記者ティム・ワイナーはノンフィクション『CIA秘録』(文春文庫)で、CIAを蝕む官僚主義を剔抉している。 

設立まもない1950年代、CIA内部にはアルコール依存症や金銭の絡む不正行為がはびこり、大量の人員が辞職した。この時期、長官アレン・ダレスに報告された内部調査で、ある若い職員はこう証言したという。 

「おおむね非効率で非常に金がかかった。……本部や現場の仕事と権威を守るために、控えめに言っても、大げさに立場を主張して、活動の予算と計画の正当性を取り繕うことが本部の任務になっている」 

CIAの官僚主義はその後も改まらない。2003年のイラク戦争では、イラクが大量破壊兵器を90%程度の確実性で保有していると判断する「重大な間違い」を犯す。その後の調査によれば、「意思疎通がひどく欠けていたので、しばしば右手の仲間がやっていることを左手の仲間が知らなかった」。 

鉄道、電力、宅配といった事業で日本政府が劣悪・割高なサービスしか提供できなかったことはすでに証明されている。国民の安全をはるかに大きく左右する情報活動にかぎって政府を信じる気には、とてもならない。 

(2015年5月、某ミニコミ紙に寄稿)

2017年7月16日日曜日

ファシズム再評価の愚

元外交官で評論家の佐藤優が著書『世界史の極意』(NHK出版新書)で、国家が市場経済に積極介入するファシズムを再評価し、日本の政策に取り入れよと提言している。しかしそのような試みはすでに八十年以上前にあり、無残に失敗している。

1920年代にイタリアのムッソリーニが展開したファシズムは、失業、貧困、格差などの社会問題を、国家が社会に介入することによって解決することを提唱した。ドイツのナチズムはデタラメな人種神話にもとづくものだが、ファシズムは違うと佐藤は擁護する。

日本もこのような「言葉の正しい意味でのファシズム」を取り入れよと佐藤は主張する。そうなれば「経済的には再分配をおこない、健康で文化的な生活、今後の技術発展に対応できる職業教育、家族を持ち子供を育て、次世代の労働者を育成することができる所得を国民に保証する」ことになるとほめそやす。

さて佐藤は書いていないが、すでにムッソリーニの同時代、ファシズムを模倣する試みは世界であった。その一つは大恐慌当時の1930年代米国でフランクリン・ローズヴェルト大統領が行った、ニューディール政策である。

歴史の教科書では、第二次世界大戦において米国は民主主義陣営、イタリアは全体主義陣営に属する不倶戴天の敵とされる。しかし少なくとも経済政策に関しては、両者の本質は同じものだった。

ジャーナリストのジョン・フリンはムッソリーニの政策を分析し、「反資本主義だが、資本主義の特徴を持つ」「経済的な需要の管理」「国家予算の赤字」「計画経済を命令し、コーポラティズム(協調主義)を通じて部分的な経済的自治を調整する」「法の支配の一時停止」といった特徴を抽出した。そしてこれらの特徴はニューディールにも共通すると指摘し、こう断じた。「これはファシズムである」

事実、ローズヴェルト政権の高官にはムッソリーニの心酔者が少なくなかった。ローズヴェルト自身もムッソリーニについてこう語っている。「彼の業績にたいへん関心があり、深く感銘を受けている」

一方、ムッソリーニもローズヴェルトを高く評価した。1933年、ローズヴェルトによって全国産業復興法が成立し、国民経済の大部分で大統領の絶対権力が与えられたことを知ると、こう叫んだという。「独裁者を見よ」

俗説と異なり、ニューディール政策は不況脱出に成功せず、むしろ大恐慌をもたらした。ファシズム模倣の試みは見事に失敗したのである。その事実を知ってか知らずか、今頃ファシズムを再評価してみせる佐藤は、とても「世界史の極意」を会得しているとは思えない。

(2015年4月、某ミニコミ紙に寄稿)