2017年3月24日金曜日

〔翻訳〕機械化は労働者を助ける

David Waller, The Luddites Were Wrong Then and They're Wrong Now(機械打ち壊し運動は昔も今も間違い)より抜粋。

1820年代半ば、英マンチェスターの技師リチャード・ロバーツ(Richard Roberts)が自動のミュール紡績機を発明した。この機械には「アイアンマン(鉄人)」というあだ名がついた。まるで人間のように動き、考えるように見えたからだ。

アイアンマンを求めたのはマンチェスターの工場主(mill-owners)たち。仕事を人質代わりに賃上げを要求する労働者にうんざりしていたのだ。今と同じく、新技術開発の動機の一つは、コスト削減と厄介な労働者に頼らず済むようにすることだった。

大量生産で物価は劇的に下がり、社会全体に恩恵をもたらした。生活必需品(staple goods)は安くなり、労働者は余暇の時間が増え、骨の折れる手作業が減った。技術によって労働者には新たにより良い仕事が生まれ、賃金は上昇した。

作家カーライル(Thomas Carlyle)やディケンズ、カール・マルクスらは機械化を非人間的で精神の貧困につながると考えた。しかし人口は増加する一方で生活水準は改善が続き、経済は空前のピッチで成長し始めた。

技術革新(technological innovation)は大きな痛みを伴うかもしれないが、長期で雇用や豊かさを犠牲にするとは限らない。それどころか、新技術はさらなる革新につながり、まったく予想しなかったようなやり方で富と雇用を生み出す。

2017年3月23日木曜日

オースティン『高慢と偏見』


富の不平等、精神の平等

仏経済学者ピケティは著書『21世紀の資本』でオースティンの小説にしばしば触れ、そこで描かれた富の不平等を問題視する。しかしこのオースティンの代表作を素直に読めば、富の不平等は人間にとって真の問題でないと気づくはずだ。

舞台は18世紀末頃の英国の田舎。主人公エリザベスの一家は、父が地主だが大金持ちではなく、貴族より格下のジェントリー階級に属する。二十歳のエリザベスは聡明で正義感が強い。身分違いや家柄違いという言葉には怒りを燃やす。

この作品で最も感動する場面の一つは、甥との結婚を阻止しようと乗り込んできた貴族キャサリン・ド・バーグ夫人に対し、エリザベスが一歩も退かず渡り合うところだ(下巻、第56章)。「実際に結婚するかどうかを決めるのは〔略〕結婚する当事者です」

結婚しないと約束せよという夫人の要求を、エリザベスは毅然として「いくら脅されても、そんなばかな約束は致しません」と拒否する。夫人に干渉の権利はないと反論し、自分が幸せになる道を進むのに他人の指図は受けないと言い切る。

この場面が感動的なのは、若いエリザベスが身分や富の違いに臆することなく、対等な精神で夫人に立ち向かうからだ。オースティンは作中で富の不平等を問題にしない。人間にとって大切なのは精神の平等だと知っていたからに違いない。

2017年3月22日水曜日

〔翻訳〕ユダヤ人差別の警鐘

Steven Horwitz, Jews As the Enemies of the Enemies of Liberty(ユダヤ人は自由の敵の敵)より抜粋。 

左右両翼によるユダヤ人差別(anti-Semitism)の原因は複雑だ。しかし共通するのはユダヤ人が歴史的にみて、資本主義、企業家精神、世界主義、移民の自由といった自由の重要な概念に関連付けられてきたことにある。

右翼左翼どちらにせよ、古典的自由に基づく社会秩序(social order)に大きな欠陥があると考える人々から、ユダヤ人は敵と見られやすい。ユダヤ人に対する脅威はたいてい、自由主義の基礎に対する脅威でもある。

ユダヤ人の多くは仲買人(middlemen)として働いた。生き方が遊牧民的で、世界のさまざまな地域に親しんだからだ。仲買人は昔から、経済に無知な人々に、形ある物を何も作らずに儲けていると疑われてきた。特に金融業者の場合はそれが甚だしい。

今日世界で経済ナショナリズム(economic nationalism)が台頭し、またぞろユダヤ人は勢いづく右翼の標的にされている。ユダヤ人はいつも根なし草の商人の象徴だった。移民、国際貿易、市場制度に対する反対がユダヤ人差別と結びつくのは不思議でない。

社会がユダヤ人をどう扱うかを見れば、寛容(openness)と自由の尊重の目安になる。炭鉱でカナリアを殺す有毒ガスは目に見えないが、ユダヤ人と自由主義に対する脅威は見える。自由社会の市民がその脅威を軽く見れば、ツケは自分に跳ね返る。

2017年3月21日火曜日

小黒一正『預金封鎖に備えよ』


政府のむきだしの暴力

政府の暴力性は日常ではあまり目立たない。だが財政破綻という非常事態に直面すると、それがむきだしになる。終戦直後の預金封鎖、通貨切り替え、財産税といった緊急措置がそれだ。しかも政府はぎりぎりまで財政は大丈夫と嘘をつく。

本書は一連の緊急措置を詳しく記す。ハイパーインフレに直面した政府は1946年、預金封鎖と通貨切り替えに着手。5円以上の旧銀行券をすべて銀行など民間金融機関に預けさせ、生活や事業に必要な額だけを新銀行券で引き出させた。

新たな税も導入する。柱の一つが財産税だ。国内に在住する個人を対象に、一定額を超える財産(預貯金、株式などの金融資産及び宅地、家屋などの不動産)に課税。最低税率25%で、1500万円超の財産には実に90%も課税された。

さいわい、「抜け道」はあった。預金封鎖を事前に察知して預貯金を大量に引き出して株券などに替えておき、新銀行券に切り替わって安定してから現金化した人々もいたらしい。財産税による資産没収も、貴金属なら隠せないことはない。

政府は開戦前夜の1941年に作成した小冊子で、「国債がこんなに激増して、財政が破綻する心配はないか」という問いに対し「全部国民が消化する限り、すこしも心配は無いのです」と答えている。著者が言うとおり、「強烈な嘘」だ。

著者は上記の歴史の教訓を踏まえ、現在の財政危機に警鐘を鳴らす。それはもっともだ。しかし、財政を健全化するため消費税増税が必要との主張には賛成できない。消費税を含むあらゆる税は、預金封鎖や財産税ほど衝撃的でないかもしれないが、暴力による財産権の侵害である点に変わりないからだ。

財政再建は歳出削減のみによらなければならない。それが無理なら潔く破綻するしかない。痛みは避けられまいが、先延ばしすれば将来の痛みはさらに大きくなるだろう。

2017年3月20日月曜日

〔翻訳〕マーケティングと自由な社会

Eileen L. Wittig, Marketing Isn't Evil, It Makes Things Pretty(マーケティングは悪ではない。物をすてきにする)より抜粋。

マーケティングはいつもいわれのない非難(bad rap)を浴びる。テレビドラマで描かれるマーケティングとは、おとなしい消費者に欲しくもない物を欲しいと思い込ませ、できるだけ多くのカネをふんだくろうとする悪だくみでしかない。

人は誰でも買い物をしなければならない。完全な自給自足生活でない限り、生きるには物を買わなければならない。しかしいくら必要でも、見苦しい物(ugly things)は買いたくない。こうして必要と欲望が交わるとき、マーケティングの出番になる。

あらゆる販売には2つの段階がある。まず潜在顧客(potential customer)の目をとらえる。次に実際の顧客になってお金を払ってもらう。マーケティングが役立つのは第1段階だけだ。お客の注意を引くことしかできない。

マーケティングで何かを買うよう強制することはできない。したくないことをさせることはできない。もし何かいらない物(something unnecessary)を買ってしまったら、それは残念ながらマーケティング担当者のせいではない。買うのを決めるのは自分だ。

企業がお金を稼ごうと、マーケティングを通じて互いに競争するのは喜ばしい。マーケティングは自由な社会(free society)、市場競争、消費者主権の象徴である。

2017年3月18日土曜日

〔名言〕怖ろしいのは国内の敵(プライス)

Richard Price on how the “domestic enemies” of liberty have been more powerful and more successful than foreign enemies (1789)
(英哲学者プライス、自由の敵は国外より国内の方が強く抜け目ないことについて)より抜粋。

国には二種類の敵(enemies)がいる。内なる敵と外なる敵。すなわち、国内の敵と国外の敵である。国内の敵のほうが国外の敵よりも危険で、たいてい抜け目がない。

国民は政府の役人に従う義務がある。しかし、それはやみくもな隷従(submission)であってはならない。

権力者はつねにみずからの権力を強めようとする。権力者が大嫌いなのは、権力は国民の信託(trust)によるもので、権力者自身に与えられた権利ではないという考えである。

あらゆる政府は暴政に向かう。国民に政府を警戒し、警告を発し、腐敗が始まればただちに抵抗する心構えがなければ、最善の政府は終わるしかない。だから政府に対する警戒(vigilance)は国民が果たすべき義務である。

国民が政府警戒の義務を放棄し、自分の権利の侵害に目を光らせなくなれば、必ず隷従の危機に瀕する。そして国民のしもべ〔政府〕が主人(masters)となるだろう。

2017年3月17日金曜日

周藤吉之・中嶋敏『五代と宋の興亡』


和平がもたらす繁栄

外交交渉で和平のために妥協すると、強硬派から「弱腰」と批判され、「売国奴」と貶められる場合すらある。だが平和は社会の繁栄にとって、民族のプライドなどよりはるかに望ましい選択肢である。宋の三百余年の歴史はそれを物語る。

北方の契丹は宋との交渉で領土の割譲を要求。宋はこの要求を退け、銀と絹を毎年贈る条件で和平を結ぶ(澶淵の盟)。宋は契丹を臣服させることができず、中華的自尊心を損なったが、大局からみれば利益をもたらしたと本書は評価する(p.125)。

約四十年後、契丹は西夏の宋侵入に乗じ、再び領土割譲を求める。宋は贈る銀絹を増やすことで和平を保つ。弱腰との非難もあったが、西夏との両面作戦がとうてい不可能であったことを思えば、相当に評価すべきであろうと本書は述べる(p.127)。

金の侵入で北宋は滅び(靖康の変)、江南に南宋が再建される。宰相秦檜は金に臣従する形で和平を結び、屈辱的と非難する者を弾圧した。後世、売国奴とも貶められたが、秦檜の死後も和平は維持され、南宋の文化・経済が著しく発展する基盤となる(p.360)。

北宋は北方に強敵を控えて絶えずその重圧に苦しめられたとはいえ、国内はおおむね平和が維持され、首都開封は商業で栄えた。南宋の経済力発展は北宋を超える。首都臨安の繁栄は開封をしのぎ、人口百五十万を超える大都市に成長する(p.444)。

平和繁栄の社会を基盤として開花した宋の文化は、伝統の貴族的文化に対し、新時代を担う官僚と士人層、および商人庶民層の文化だった。東洋史学者の宮崎市定は、その姿を西洋のルネサンスに対比したという(p.445)。