2021-10-31

国家という巨悪

生きることは闘うことだ (朝日新書)

国民から税を収奪する国家の本質は、みかじめ料を納めさせる暴力団と同じであるという考えは、西洋思想ではアウグスティヌスやマックス・ウェーバーをはじめ昔から言われていることだ。けれども日本では、お上に従順な一般市民はもちろん、専門の知識人や言論人ですらそれを理解している人は少ない。

しかし、例外はある。作家の丸山健二氏だ。1966年、当時最年少の二十三歳で芥川賞を受賞後、長野県に移住し、文壇とは一線を画した独自の創作活動を続ける「孤高の作家」として知られる。

丸山氏は発言集『生きることは闘うことだ』(朝日新書、2017年)で、こう言い切る。「国家はひとつの悪だ。それも巨悪だ。その悪に比べたらやくざの悪など実にちっぽけなものでしかない」(第二章)

先に国家の本質は暴力団と同じだと書いたが、その規模からいえば、暴力団(やくざ)は国家の足元にも及ばない。政府(国家)は社会において最大・最強の暴力を有する組織であり、その意味で丸山氏が言うとおり、他を圧する「巨悪」である。やくざとの違いは合法か非合法かにすぎず、法律は政府が作るのだから、自分の行為はすべて合法にできる。

多くの人は、国家が社会に秩序をもたらすと誤解している。丸山氏はその誤りを正す。「秩序と法を敬うことと、国家に盲従することは、一見似ているように思えても、その内容は大きく異なる」「大半の国民をただ羊のようにおとなしくさせておくだけの秩序ならば、断じて拒否すべきだ」(同)

安心を国家に保障してもらおうという考えも浅はかだ。丸山氏は言う。「安心を他者に求めることは却って危険を招く。自分では何もしないくせに庇護してくれそうな者を当てにするという、非常に醜悪な体質を改めない限り、国民の代表者たちはこれまで通りの、やれもしないことを次から次へと口走るばかりの、そしてその地位から得られる余禄が目当ての連中のみとなる」(第一章)

このように個人を突き放す厳しい発言は、昨今のメディアでは「自己責任論」と叩かれそうだ。しかし個人が他の個人との自発的な協力でなく、国家を頼って身の安全を図ろうとすれば、国家という暴力団はますます栄え、個人は結局食い物にされる。

最も甚だしい倒錯は、世界平和すらも国家に頼って実現しようとすることだ。丸山氏は「世界平和を口にするとき、絶対に目をそらしてはならないこと。それはどうしてこうもたやすく国家に従ってしまうのかという、ただこの一点にある」と喝破し、「そこに言及しない平和会議や平和集会は、単なる戯れ言の交換の場にすぎない。それどころか、もしかすると戦争を暗に容認する行為になるかもしれない」と指摘する(第二章)。

丸山氏の批判は、国家のお先棒をかつぐメディアや「専門家」にも向けられる。「ひっきりなしにテレビに登場するコメンテーターは、結局、国民を騙す側に身を置く、大悪党の手先の小悪党にすぎない。そもそもスポンサーや国家の影響を避けては通れないかれらに本音など言えるわけがなく、ましてや正真正銘の正義を唱える資格などあるはずもないのだ」(第一章)

本書はコロナ騒動が始まる前に出版されているが、まるで十分な根拠もなくコロナの恐怖を煽り、死亡を含む副作用の恐れを無視してワクチン接種を勧めるコメンテーターたちの登場を予言していたかのようだ。

丸山氏の発言すべてに賛同するわけではないものの、国家の本質をここまで正確に見抜き、恐れず発言する人物は、日本の文化人を見渡しても稀有といえる。最後に、七十代後半になっても衰えない丸山氏の若々しい正義感と闘争心が集約された文章を掲げる。

「すべての命は闘いつづけるために生まれたものであり、闘うこと自体が生きる証であり、意義であり、目的であって、しかし、真の人間として闘おうとした場合には、背中に正義を負わなければならず、そうなると、闘いの相手は当然悪ということになり、その最たるものである国家悪を避けては通れない」(第三章)

<関連記事>

2021-10-28

利他という取引

「利他」とは何か (集英社新書)

たいていの人は、利己的であることは悪いことで、利他的であることは良いことだと信じている。しかし実際はそう単純ではない。

伊藤亜紗氏(東京工業大学教授、美学)は共著『「利他」とは何か』(2021年、集英社新書) の「はじめに」で、「利他ということが持つ可能性だけでなく、負の側面や危うさも含めて考えなおすことが重要になってくるでしょう」と指摘する。

利他の「負の側面や危うさ」とは何か。伊藤氏は第一章で「特定の目的に向けて他者をコントロールすること。私は、これが利他の最大の敵なのではないかと思っています」と述べる。障害を持つ人々の心身を研究してきた同氏は、助けたいと言う思いが、しばしば「善意の押しつけ」という形をとり、障害者が、健常者の思う「正義」を実行するための道具にさせられてしまうという。

中島岳志氏(同、近代日本政治思想史)も第二章で、志賀直哉の小説「小僧の神様」などを例に取り、「哀れみによって利他的な行為をすると、その対象に対して一種の支配的な立場が生まれてしまう」と述べる。

それでは、どうすればいいのか。伊藤氏は「相手の言葉や反応に対して、真摯に耳を傾け、「聞く」こと以外にないでしょう。知ったつもりにならないこと。自分との違いを意識すること」と言う。さらに、「相手のために何かをしているときであっても、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っていること」が必要だと強調する。

伊藤氏のこの主張はそれなりに納得いくものだ。けれども、少し視野を広げてみよう。伊藤氏のいう「相手の言葉や反応に対して、真摯に耳を傾け」る姿勢や、「自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っている」態度が大切なのは、別に利他的な行動だけに限らない。利己的な行動の場合も同じように大切だ。

利己的な行動の代表として、商取引を考えてみよう。商取引で儲けようと思ったら、お客の言葉や反応に対し、真摯に耳を傾けるのは当然のことだ。また、自分で立てた生産・販売の計画に固執せず、常にお客のニーズを取り込む余裕も欠かせない。

つまり、伊藤氏の説く利他の心得とは、ビジネスに携わる普通の人々なら誰もが承知し、日頃から実践していることにすぎない。この事実が示唆するのは、利他と利己の間には、実はそれほど大きな違いはないということだ。

中島氏も「おわりに」で、利他と利己は「常に対立するものではなく、メビウスの輪のようにつながっています」と記す。利他的な行為には、時に「いい人間だと思われたい」とか「社会的な評価を得たい」といった利己心が含まれているという。

もしそうなら、そもそも利他と利己を対立させることに無理がある。利己的行為の多くは、何かを提供する見返りに、金銭を受け取る。利他的行為は、金銭の代わりに、相手の笑顔や感謝による精神的な満足を得る。どちらも広い意味での交換であり、取引だ。

利他的行為は見返りを求めないように見えても、実は精神的満足という対価を求めている。人間は対価を求めるように進化した生き物なのだから、当然だ。それならそうと割り切ったほうが気楽だし、偽善に陥らなくて済む。必要なのは、ビジネスと同じウィンウィンの関係だ。相手のニーズに耳を傾け、親切にして自分もハッピーになればいい。

『「利他」とは何か』は、東工大「未来の人類研究センター」の「利他プロジェクト」という研究グループの成果だという。厳しい言い方をすれば、利他という言葉をあえて押し立てること自体、その背後には、意識するしないは別として、利己に対する道徳的な偏見がある。もし利他と利己が地続きのメビウスの輪であれば、そのように鼻持ちならない優越感は持てないはずだ。

<関連記事>

2021-10-24

良い多様性、悪い多様性

Embed from Getty Images

10月31日投開票の衆院選では、ダイバーシティ(多様性)が争点の一つだ。具体的には、夫婦別姓制度や同性婚、LGBTQ(性的少数者)の尊重などに向けた法整備への各候補の立場が問われているという。

最近、多様性というと、このように性に関わる多様性とほぼ同義になってしまっている。海外ならこれに人種・宗教に関わる多様性が加わるくらいだろう。

しかし、政治の場で決して問われない多様性がある。それは今で言えば、新型コロナウイルスワクチンに対する意見の多様性だ。

厚労省の10月22日の発表によると、新型コロナワクチン接種後の死亡者数は10月15日までにファイザー 、モデルナ製合計で1312人となった。いつものように、ワクチン接種と死亡の因果関係は大半が「情報不足等で評価できない」とされ、因果関係が認められたものはない。

接種後に1300人を超す死者が出ていて、ワクチンとの「因果関係がない」と言い切れるならともかく、理由がよくわからないにもかかわらず、政府は接種を中止するどころか、推進の姿勢を改めようとしない。これは異様な光景だが、さらに異様なことに、メディアで警鐘を鳴らす声がほとんど聞こえない。

朝日新聞は衆院選をテーマとした「多様性のありか」と題する記事で、新型コロナの影響で授業はほぼオンライン、バイト先の焼き鳥屋は閉店の憂き目にあった東京都内の20歳の男子大学生を取り上げ、「ワクチンをいつ接種できるか、スマホで毎日調べた」と書く。

若い人はコロナ感染症で死亡・重篤のリスクはきわめて低い一方、ワクチン接種後に死亡や心筋炎などの症状が報告されている。それにもかかわらず、朝日の記事はワクチンを打とうと焦る大学生に対し、何の警告も発しない。

また、ワクチン接種後の重篤報告数は、女性が男性を大きく上回る。妊娠や出産への影響も明確に解明されていない。ところがメディアは日ごろ、多様性尊重の一環で女性差別反対を叫んでいるにもかかわらず、ワクチンによる不妊や流産のリスクを警告する声に対しては、「デマ情報」とレッテルを貼り、封殺しようとする。

どうやら政府やメディアにとって、多様性には良いものと悪いものがあるようだ。選挙の票に結びつく夫婦別姓制度や同性婚、LGBTQなどは良い多様性であり、ワクチン推進など政府の意向に反する異論・批判は悪い多様性だ。要するに、彼らは本気で多様性が大切だなどと信じてはいない。本当に欲しているのは画一性なのだ。

2021-10-21

『イカゲーム』〜極限状況における選択


ネットフリックス配信の韓国ドラマ『イカゲーム』が世界的なヒットとなっている。独特のビジュアルの美しさや、命懸けのサバイバルゲームの描写が話題で、それらももちろん楽しめる。しかしドラマとしての感動の源泉は、別のところにある。

(以下、ネタバレあり)

ドラマの設定に物足りない点はある。たとえば残酷なサバイバルゲームを観覧して楽しむ、下衆な大金持ちたちの描写があまりにも陳腐だ。全員が仮面をかぶっているものの、見たところいずれも白人男性で、黒人や女性は誰もいない。最近流行のダイバーシティ(多様性)は、こういうときにはなぜか重視されない。

しかしそうした欠点を補って余りある感動を与えるのは、極限状況における登場人物たちの苦悩と決断、そして行動だ。

それは美しく道徳的な行動だけではない。むしろ卑劣で醜い行いもある。とりわけそれが明白になるのは、ドラマの後半、二人一組で行うゲームだ。登場人物たちは二人で協力して他の敵を倒すゲームだと思い込み、親しい者同士で組んだところ、互いに戦うよう告げられる。負けた方を待つのは死だ。

ある人物はわざと負け、相手の命を救う。しかしそのような美しい話だけではない。別の人物は、自分を慕い、信頼しきっている相手を裏切る。この人物は決して薄情な人間ではなく、以前相手に親切にしてやったからこそ慕われている。そんな人物でも追い詰められれば卑劣な行為に手を染める現実を、ドラマはしっかりととらえる。

ドラマが世界でヒットした理由についてさまざまに考察される中で、随所にキリスト教を暗示するモチーフが隠されているからという指摘は興味深いが、ややこじつけの感もある。このドラマとの関連でキリスト教と聞いて思い出すのは、「ペテロの否認」だ。

「ペテロの否認」の逸話は新約聖書にある。イエスが捕らえられた際、最愛の弟子の一人ペテロは師との関係を問われ、命惜しさに三度も否定し、のちに悔恨の涙を流す。人間は精神的に弱い存在だが、同時にその弱さを恥じ、より良く生きようとする心を持っている。

『イカゲーム』でも登場人物中、最も情に厚く正義感に富む主人公が、二人一組のゲームでついに卑怯な行為を行い、深く後悔する。その姿は弱さをさらけ出したペテロと同じく、心を打つ。

このドラマが世界の人々の共感を呼んだのは、俳優たちのすばらしい演技を通して伝えられた、極限状況の下でも人間は人間らしく生きることを選択できるという普遍的なメッセージゆえに違いない。

<関連記事>

2021-10-19

新しい資本主義、古い縁故主義

Embed from Getty Images

岸田文雄首相は今月、就任後初めての所信表明演説を行い、「新しい資本主義」を実現すると強調した。しかし、自信満々打ち出された「新しい資本主義」の正体は、新しくもなければ、資本主義ですらない。

なぜ今、「新しい資本主義」を目指さなければならないのか。岸田首相によれば、その一つの理由は、「新自由主義的な政策」が「富めるものと、富まざるものとの深刻な分断を生んだ」といった弊害が指摘されているからだという。

「新自由主義」とは定義のあいまいな言葉だが、世間一般のイメージに従い、政府が市場経済に介入しない「野放しの資本主義」だとしておこう。たしかに、「野放しの資本主義」の下では、結果の平等は保証されないから、「富めるものと、富まざるもの」との格差は生じる。

けれども、その格差が「深刻な分断」ととらえられ、社会問題となることはない。「野放しの資本主義」は、社会の豊かさを底上げし、貧困をなくす力を持っているからだ。近代の産業革命以降、世界から貧困が大きく減り、今もグローバル資本主義の下で減り続けている。これは「トリクルダウン理論」などではなく、紛れもない事実だ。

経済上の「深刻な分断」を生んだのは、「野放し」の自由な資本主義ではない。政府だ。政府が「貧困をなくす」「安心な社会を作る」「経済を成長させる」など耳に心地よいスローガンを掲げて経済を縛り、自由を奪った結果、資本主義という鶏は健康を害して痩せ細り、豊かさという卵を生まなくなってしまった。それが問題の本質だ。

ところが岸田首相は的外れにも、問題解決のためには「分配」が重要だと主張する。「成長の果実を、しっかりと分配することで、初めて、次の成長が実現」するという。

けれども当たり前の話だが、何かを分配するには、まずその何かを生み出さなければならない。豊かさという果実を分配したければ、まず豊かさを生まなければならない。岸田首相は「分配なくして次の成長なし」と強調するが、そもそも初めに成長がなければ分配はできない。

そしてその成長を生み出せるのは、「野放しの資本主義」だけである。政府にはできない。自律的な経済成長は消費者のニーズに支えられなければならないが、政府のあらゆる政策は、消費者のニーズではなく、政治的な動機に基づいている。

たとえば、岸田首相は成長戦略の柱として科学技術立国の実現を掲げ、「十兆円規模の大学ファンド」を設置するほか、デジタル、グリーン、人工知能、量子、バイオ、宇宙など先端科学技術の研究開発に「大胆な投資」を行うという。けれども政府はこれらの投資の配分を消費者のニーズではなく、政治的なしがらみによって決めるから、過去の「官民ファンド」などと同様、失敗は目に見えている。

ここにあるのは結局、昔ながらの官民癒着だ。「新しい資本主義」とは要するに、古い縁故主義の看板を架け替えたものでしかない。

2021-10-17

LGBTQ関係者の人種差別


米黒人スタンダップ・コメディアンのデイヴ・シャペルはまたもや、LGBTQ(性的少数者)差別に対する意識の高い人々の標的になった。彼はネットフリックスの特番『これでお開き』で、偉大なコメディアンなら誰もが期待されることをただやっただけにすぎない。すなわち、普通の人では思いつかなかったり世間を恐れたりして口に出せない真実を、ユーモラスに語ることだ。「ゲイが少数派であるのは、白人に戻らなければならないときまでだ」という発言は、無慈悲なまでに核心を突いている。シャペルはトランスジェンダー女性であるケイトリン・ジェンナー(元五輪金メダリスト、ブルース・ジェンナー)についてもジョークを飛ばした。「女性になって一年目に『ウーマン・オブ・ザ・イヤー』を受賞した。生理も経験したことがないのに」。これはシャペルから見れば、白人ラッパーのエミネムが「ニガー・オブ・ザ・イヤー」を受賞するようなものだという。

ジャクリーン・ムーアはトランスジェンダー女性で、ネットフリックスの反差別コメディシリーズ『親愛なる白人様』のショーランナー(制作責任者)だ。ムーアはデイヴ・シャペルの特番にネットフリックスがゴーサインを出したことにショックを受け、会社側に番組の一部削除や修正など何らかの対応を求めた。多くの人々は初めて、「反白人」と批判される『親愛なる白人様』の制作責任者が実は白人だったと知った。ムーアは社会正義を唱えておきながら、黒人であるシャペルを排除しようとしたことで、嘲笑されている。シャペル自身、特番の中でLGBT関係者による人種差別をからかっていた。

サッカーの花形選手のように、優れた黒人スタンダップ・コメディアンであるデイヴ・シャペルは「カネになる」。それも大金だ。クリス・ロック、ケヴィン・ハート、カット・ウィリアムズといった同時代人と同様、米国のアフリカ系芸人には一種の強い引力、商業的・文化的な影響力、国際的な厚いファン層がある。配信会社やプロデューサー、スポンサーも簡単に排除はできない。リチャード・プライヤー、エディ・マーフィーといった伝説の黒人芸人や、ビル・バー、ルイス・C・Kら物議を醸すとがった白人コメディアンの特番によって、ネットフリックスは少なくともコメディに関する限り、言論の自由の擁護者のような存在になりつつある。

(各記事より抜粋・要約)

2021-10-16

免疫はワクチンより自然感染で


新型コロナウイルスを含むSARS型ウイルスへの自然感染で生じる免疫(感染後免疫)は、一般にワクチンよりも強力で、長期間続き、変異に対しても広く効果を発揮する。以下はそれを示す30の研究である。(カッコ内は掲載媒体)

1. 新型コロナウイルスへの感染で生じるIgG抗体と中和抗体(NAb)は、感染症から回復した人の95%以上で、発症後6カ月から12カ月の間、持続する可能性がある。また、症状が重いほど、回復後の抗体とT細胞の記憶は強くなる。(Clinical Infectious Diseases)

2. 新型コロナに感染せずワクチンを接種した人は、感染したことのある人に比べ、デルタ型へのブレークスルー感染のリスクが13.06倍になった。感染後免疫はファイザー製ワクチンの二回接種よりも、デルタ型への感染・発症・入院に対し、より長期の強力な防御を提供する。(MedRxiv)

3. 米ウィスコンシン州で新型コロナのアウトブレイク(集団感染)について調査を行ったところ、ワクチンを接種した人がデルタ型を伝播する可能性が示唆された。(MedRxiv)

4. 新型コロナに感染したことのある人は、ワクチンの恩恵を受ける可能性は低い。ワクチンは未感染者に優先的に接種して差し支えない。(MedRxiv)

5. ファイザー/ビオンテック製のmRNAワクチンを接種した人は、感染者に比べ、抗体レベルの動態が異なる。 接種直後の抗体レベルは高いものの、指数関数的に急低下する。(MedRxiv)

6. 感染でもワクチン接種でも、自然免疫と適応免疫はしっかりと生じるが、質的に大きな違いがある。感染者の免疫反応は、ワクチン接種者ではほとんど見られなかったインターフェロン反応が非常に強化されている。(Cell)

7. 新型コロナへの感染は、T細胞依存型のB細胞反応をもたらす。長命の骨髄形質細胞(BMPC)に支えられ、安定したレベルの血清抗体が維持される。(Nature)

8. 新型コロナ感染症患者254人について調査したところ、広範な免疫記憶反応が優勢であることがわかった。スパイク結合抗体と中和抗体の半減期は200日以上と長く、寿命の長い形質細胞の生成が示唆された。ウイルスへの再暴露時に迅速な抗体反応が得られることも示唆された。(MedRxiv)

9. ワクチンを接種した人と感染歴のある人の間には、感染率の差はなかった。(MedRxiv)

10. 自然感染によって生じるCD8T細胞クローンの拡大は、mRNAワクチンの場合よりも大きい。mRNAワクチンに比べ、ウイルスの示すエピトープ(アミノ酸配列)がより広範なためとみられる。(BioRxiv)

2021-10-03

百年の平和を築いた思想


1814年9月、欧州諸国の代表がオーストリアの首都ウィーンに集まった。フランス革命とそれに続くナポレオン戦争から生じた混乱を収拾し、欧州の新しい秩序を建設しようとする「ウィーン会議」である。

「会議は踊る、されど進まず」と風刺されたように、会議は初め大国間の利害対立のため難航したが、翌1815年、ナポレオンの再挙兵を機に議定書の調印が実現した。議定書では、フランス革命以前の政治秩序の回復を目指すとともに、大国の勢力均衡による国際秩序の平和的維持が追求された。これをウィーン体制という。

ウィーン体制の成立から1914年7月に第一次世界大戦が勃発するまでの約百年は、欧州が長期にわたる平和と経済の繁栄を享受した時代だった。それを支えたのは、ナポレオン戦争の悲惨な経験を繰り返したくないという人々の思いだけではない。自由主義と呼ばれる思想の隆盛が大きく貢献した。

自由主義とは、個人の自由な行動が社会の発展をもたらすとする思想だ。とくに経済活動にさまざまな規制を加えず、自由な活動を認めるよう強調した。スコットランドの経済学者アダム・スミスは『国富論』(1776年)で自由な貿易は国を豊かにすると説き、ナポレオン戦争後の欧州で影響力を広げる。

スミスの思想を深め、行動に結びつけたのはマンチェスターの織物業者リチャード・コブデンである。コブデン自身、後述するように、その思想と行動が欧州各国の自由主義に強い影響を及ぼしていく。

コブデンは1804年、サセックスで貧しい農家の息子として生まれた。極貧の中で育ち、正式な教育はほとんど受けていない。若くしてロンドンでキャラコ染の販売会社が成功し、マンチェスターで豊かな生活を送るようになった。その財産で世界旅行を始め、欧州の多くの国や米国、中東を訪ねる。旅上で執筆した小冊子で自由貿易、平和、対外不干渉に基づく新たな外交政策の考えを支持し、反響を呼んだ。

1839年、英国に戻り、穀物法の撤廃に賛同する。穀物法は1815年に制定された国産農業保護法。ナポレオン没落後の大陸封鎖令廃止で安価な大陸産穀物が流入するのを防ぐため、地主や農家の働きかけで、輸入穀物に高関税を課した。関税によって食料・穀物の値段は人為的につり上げられ、国内の農家を潤していた。

コブデンは、穀物法は英国民の食料価格を押し上げ、農業以外の産業の妨げになっていると主張。ジョン・ブライトとともに廃止運動の先頭に立つ。コブデン、ブライトらマンチェスターの産業資本化を中心とする自由貿易論者をマンチェスター派と呼ぶ。

1841年、コブデンは庶民院(下院)の国会議員に当選。コブデンと彼が率いる反穀物法同盟に対する国民の支持は広がり、1846年、ついに穀物法は廃止される。廃止後のイギリス経済は心配された農業への打撃もなく、黄金時代を享受していく。

コブデンの運動はフランスに刺激を与えた。1845年、ジャーナリストのフレデリック・バスティアは小冊子で穀物法廃止運動を紹介する。バスティアはアダム・スミスを信奉し、風刺の利いた多くの記事で、自由主義の利益と保護主義の害悪を説いた。ロウソク業者が政府に対し太陽との競争を防いでくれと請願する寓話は有名だ。

ドイツで自由貿易運動の中心人物になったのは、ジョン・プリンススミスである。イギリス生まれのプリンススミスはドイツに移住し、ベルリンでジャーナリストになる。イギリスで穀物法が廃止された1846年、コブデンの反穀物法同盟にならい、多くの財界人や言論人を集めてドイツ自由貿易協会を設立した。プリンススミスはフランスのバスティアの影響も受け、1850年にその著作を翻訳・出版している。

プリンススミスによれば、経済の発展には資本の蓄積が必要だが、政府の介入や重い税金は、資本の蓄積を阻害し、貧困を生み出す。とくに大きな妨げになるのが軍事費だとして、プリンススミスは反軍国主義の立場を長く貫いた。これはコブデンらマンチェスター派やバスティアにも通じる姿勢だ。

イギリスのコブデンは穀物法廃止後、活躍の場を海外に広げる。フランスの皇帝ナポレオン三世に謁見して自由貿易の利益を説き、1860年1月、世界初の自由貿易協定である英仏通商条約の締結に成功した。コブデン条約とも呼ばれるこの条約で両国の航海と通商の自由を定め、商品の関税を互いに引き下げた。

同条約の影響は大きかった。1862〜1866年にかけてフランスは各国と自由貿易条約を相次いで結んでいく。相手はドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、スイス、スペイン、ポルトガル、スウェーデン、ノルウェーなどだ。これら諸国の多くも互いに貿易自由化に踏み切り、欧州では自由貿易が急拡大していく。

もう一つ、急拡大したのは移動の自由だ。フランスはコブデンの働きかけもあり、1861年、パスポート(旅券)とビザ(査証)をともに廃止した。産業革命で鉄道網が急速に発展し、移動の自由に対する要求が強まっていたことが背景にある。他の欧州諸国もフランスに追随し、20世紀初めには欧州全域でパスポートはほとんどなくなった。

コブデンらマンチェスター派の議論の出発点は、自由貿易による市場の拡大にあったが、そこから発展して独自の平和理論を築いていった。自由貿易による社会諸階級の利害の調和、自由貿易による各国の相互依存の深化がもたらす国際平和、国際平和のもとで可能となる軍事支出の節減、外国の紛争への不干渉主義などである。

コブデンは穀物法廃止を果たした1846年の演説で、自由貿易が世界平和をもたらすという信念をこう語っている。「夢かもしれませんが、遠い未来、自由貿易の力は世界を変え、政府の仕組みは今とまったく違うものになっているかもしれません。強大な帝国も大規模な軍隊もいらなくなるでしょう」

コブデンは1865年に死去する。その頃には自由主義が欧州を支配し、戦争はほとんどなくなっていた。コブデンの夢はかなったように見えた。

残念ながらその半世紀後、未曾有の大戦勃発で世界は戦争の世紀へと突き進んでいく。今も各地で戦火は絶えない。世界から戦争をなくすうえで、平和の百年を築いた自由主義の思想は貴重なヒントになるはずだ。=連載おわり

<参考文献>

(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)