2015年7月26日日曜日

財政破綻は悪か

日本がこのままでは財政破綻するとの見方に対し、政府はカネをいくらでも刷ることができるから、破綻はありえないとの反論がある。しかしそのような方法で破綻を避けても、政府とその関係者に都合が良いばかりで、一般国民には害悪をもたらす。一刻も早く破綻を宣言するのが最善の道である。

経済評論家の渡邉哲也は『この残酷な世界で日本経済だけがなぜ復活できるのか』(徳間書店)で「自国通貨建ての債務では国は破綻しない」と書く。国家には原則として通貨発行権、すなわちカネを刷る権限があるからだという。日本の場合は、日銀が円紙幣を無尽蔵に刷り、それを国債の償還に充てることができる。

これは形式的には正しい。カネを大量に刷ればやがて物価高を招き、政府が返す一万円は借りたときの一万円に比べ価値が薄まるから、実質的には借金を一部踏み倒すのと同じである。それでも形の上では債務不履行したことにならない。カネを刷り続ける限り、及ぼす影響はともかく、少なくとも財政破綻することはない。現にこれまでもそうしてきた。

さてそれでは、この手段で財政破綻を避け続けることは、一般国民にとって望ましいだろうか。とてもそうは言えない。今述べたとおり、政府がカネを刷れば刷るほど、国民が保有している現金の価値は薄まる。実質的に税金を取られるのと同じである。しかも通常の税と異なり、国会での審議もなく、税率はロシアンルーレットのように不透明かつ不平等である。

カネの量を増やすと、バブル景気をもたらす副作用もある。これは安倍政権が掲げる「アベノミクス」そのものであり、経済が一時好転したように見せかける効果はあっても、企業の生産力が強くなるわけではないから長続きせず、むしろ反動で不況が襲う。

渡邉はユーロ加盟国の金融危機に言及し、「共通通貨のため自国通貨建てでありながら自国でお金を刷れないという構造にあることが最大の問題」と書く。しかしもし自由にカネを刷れたなら、問題を当面先送りできても、将来危機が深刻になるだけである。ギリシャやスペインがカネを刷れずに緊縮財政を強いられていることは、長い目で見れば国民にとってむしろ幸いなのである。




残念ながら、日本円にはユーロのような歯止めがない。財政が破綻すれば政治家や官僚は責任を免れないから、政府は増税の一方で、さらに盛大にカネを刷り続けることだろう。これは国民の財産を侵し、経済を疲弊させる。

正しい選択は、潔く財政破綻を宣言し、国債の元利払いを一切やめることである。むろん金融や経済への影響は小さくなかろうが、清算を先延ばしすればツケは大きくなるばかりである。

(2013年9月、某ミニコミ誌に寄稿)

2015年7月25日土曜日

きれいごとでない地方論


最近はNHKの里山資本主義をはじめ、地方の生活をやたらと美化した地方論が目立つ。しかしこのすばらしいマンガはそんなきれいごととは対照的に、イヤな部分も含めて、地方生活の真実を描く。

「俗悪で非文化的な」市街地。よそ者を受け入れない排他性。個人生活への干渉。大学を卒業してUターンしたものの、東京で編集者になりたいという夢を捨てきれない朝生は、故郷への嫌悪感といらだちを募らせる。

「わたしの未来…どうなるんだろう。こうやって時間を食いつぶしているうちに、自分の中で夢が死んでいくような気がする……自分だけがとり残されて干からびていくような気がする…」

しかしそれから三年半。悩みながらも地元で教師として日々働き、暮らすうちに、しだいに生きがいと地方のよさを見いだしていく。テレビ番組で語られるような派手な成功体験ではないし、また悩むことがあるかもしれない。でも悩むことも人生の一部だ。

「まわり道して、わたしは帰る。そして、新しい道を歩きはじめる。また、まわり道をするかもしれないけど――。それでもいいと、今は思う」

朝生だけでなく、おもな登場人物のひとりひとりがそれぞれの悩みを抱えた等身大の人間として共感をもって描かれる。読むたびに感動を新たにする作品だ。

アマゾンレビューに転載】

2015年7月20日月曜日

政府は秩序を生まない

国家主義者は、人間社会は国家がなければ成り立たないと信じている。しかしそれは誤りである。社会を律する法も、経済に欠かせない貨幣も、本来は国家(政府)が政治的に作り出すものではなく、民間(市場)で自律的に生み出されるものである。国家が政治的打算に基づき濫造濫発する法律や貨幣は、むしろ社会や経済の秩序を乱す。

評論家の中野剛志は『反・自由貿易論』(新潮新書)で、国家主義のイデオロギーをむき出しにこう書く。「ルールの体系を設計し、担保するのは政治であり、国家です。貨幣、私有財産制度、取引法制など、市場に不可欠なものは全て、国家の政治力がなくてはありえません。市場は、国家の政治力によって形作られているのです」。たいていの人は、法や貨幣は国家が設計し、強制しなければ成り立たないというこの考えを信じていることだろう。だがそれは根拠のない俗説である。

国家による立法が広まったのは近代以降で、人類史においては比較的最近にすぎない。それ以前の法は、部族の慣習、先例に基づくコモン・ローの裁判、商事裁判所の商慣習法、船荷主が設置した法廷で形成された海事法など、国家以外の制度から生み出された。近代国家によって定められた法律には、これら近代以前に確立された法を明文化したものが含まれる。

歴史家フリッツ・ケルンが述べるように、近代以前、法を「創造」するという考えはなかった。法は「発見」するものであった。すなわち、慣習や判決の積み重ねから理性によって抽出される法則であった。それゆえ法とは古いものであり、新しい法とは言葉の矛盾である。「中世の観念にしたがえば、新しい法の制定はそもそも不可能」とすら言える。


貨幣も同様である。貨幣とは元来、貝殻や石、家畜や穀物など、その役割にふさわしい自然の産物を人間が自発的に選ぶことによって生まれた。最も便利な貨幣として世界で使用され、近代の経済発展を支えたのが金や銀である。やがて金貨や銀貨の鋳造は政府が行うようになったが、もとは民間で製造されていた。

これらの事実は、国家の政治力がなければ法や貨幣はありえないという主張が嘘であることを証明している。それどころか、国家による法律の濫造、貨幣の濫発は、社会や経済を混乱させている。個人に任せるべき健康づくりや子づくりを政府が押しつける健康増進法や少子化社会対策基本法をはじめとする悪法の数々、「異次元の金融緩和」がもたらした円相場の乱高下はその典型であろう。

市場経済によって不安定になる社会を政治が安定させるという中野の主張とは逆に、政治の介入こそ社会を不安定にする元凶なのである。
(2013年7月、某ミニコミ誌に寄稿)

2015年7月12日日曜日

押売りの経済学

不景気の原因は、国民がカネを使わないことである。だから景気を良くするには、政府が国民になり代わってカネを使ってやればよい――。ケインズ経済学に毒された政治家や言論人はこう主張する。しかしこれは大きな勘違いである。欲しくないものを無理に買わせても人間は幸せにならないし、社会も豊かにならない。

「日本のケインズ」として最近人気を集める高橋是清は、政府の国防費についてこんなことを書いている。「国防のためには、材料も要る、人の労力も使はれる。それらの人の生活がこれに依つて保たれる。だから拵(こしら)へた軍艦そのものは物を作らぬけれども、軍艦を作る費用は皆生産的に使はれる」(『随想録』中公クラシックス)

これを『目覚めよ! 日本経済と国防の教科書』(中経出版)で引用した経済評論家の三橋貴明は、「高橋是清の『国民経済』に対する理解度は、驚愕するほどに深い」と持ち上げる。そして「国民の安全に直結する公共投資や防衛費」はもちろん、極論すれば「浪費だろうが何だろうが、日本政府がおカネを消費もしくは投資として使えば、日本国民の所得が創出される」と述べる。

しかし高橋も三橋も、経済にとって肝心のことを忘れている。商品やサービスを提供するのは、人を満足させるためである。そのためには人が商品・サービスの値段を知ったうえで、買うか買わないかを自由に選べなければならない。ところが政府が提供するサービスは、これらの条件を欠いている。

第一に、値段が不明朗である。政府が国防、教育、インフラ整備といったサービスの代償として課す税金は、サービスの質に応じて決まるのでなく、支払う側の所得や資産の額に応じて一方的に決められる。

第二に、購入を拒否することができない。外国に拉致されても助けてくれないような政府に防衛費を払うのは嫌だと言っても、税金をその分負けてはくれない。


このような商売の仕方を、もし民間でやったら何と呼ばれるか。そう、押売りである。なるほど、もし押売り屋が客からカネを巻き上げるのに成功したならば、高橋が言うように、押売り屋の生活は「これに依つて保たれる」ことになろう。しかしこれでは社会全体の幸福は増進しない。押売りが幸福になる分、客が不幸になるからである。

もし押売りが手のつけられないほど横行すれば、人はまじめに働くことをやめてしまうだろう。どんなに稼いでも押売りに奪われてしまうからだ。まじめに働く者が減れば、商品やサービスの供給が減り、社会は物質的に貧しくなる。政府がカネを使えば景気は良くなるという押売りの経済学を声高に唱える輩こそ、社会を貧しくする元凶なのである。
(2013年6月、某ミニコミ誌に寄稿)

2015年7月5日日曜日

金融暴走の犯人

自由な市場経済を非難し、政府による規制を主張する論者がその理由として必ず持ち出すのは、金融市場の「暴走」である。しかしこれは勘違いもはなはだしい。なぜなら金融市場の混乱を引き起こす犯人は、政府自身だからである。

ジャーナリストの東谷暁は『経済学者の栄光と敗北』(朝日新書)で、ケインズを引き合いに出しながら、このおなじみの勘違いを繰り返している。ケインズは大恐慌時代の1933年に書いた論文で、ニューヨーク株式相場の大暴落をきっかけとする恐慌は「野放図な金融の国際化が根本的な原因であり、金融の暴走が見せた強欲は醜悪」と主張し、金融の国際化は危険だと論じた。東谷は、リーマン・ショック以降、資本の移動に制限を課すという議論は力を増しており、これは「ケインズの復活」のひとつだと称賛する。

しかし「金融の暴走」についてちょっと考えれば思いあたる事実に、ケインズは触れず、東谷は気づいていない。金融市場が「暴走」するのは、カネが過剰に供給されるからである。だれが供給するのか。現代の金融制度において、それは中央銀行、すなわち政府以外にありえない。

広義のカネには中央銀行が印刷する紙幣だけでなく、金融機関の貸出しも含まれる。貸出量は中央銀行が定める準備率によって制限されるから、過剰な貸出しの責任はやはり政府にある。

かつては金本位制がカネの過剰な供給に歯止めをかけていた。政府は保有する金の量に応じてしかカネを増やせないからである。第一次世界大戦で多額の戦費を調達する際、この歯止めが邪魔になり、多くの政府が金本位制を中断した。戦後もしばらくその状態が続いた結果、過剰なカネが株や土地に流れ込んで世界中でバブルを生み出し、ついに崩壊する。これが大恐慌の真相である。

東谷が述べるように、ケインズは第二次大戦後、戦後の国際通貨制度について英国代表として交渉した際も、金本位制に反対し、政府間だけで通用する「バンコール」という通貨の創設を唱えた。結局ケインズ案は採用されなかったものの、政府を金本位制の足枷から解き放つという目的は達せられた。


主要国の多くは金本位制にもはや復帰せず、かろうじて維持した米国も1971年のニクソン・ショックで完全に離脱した。これで有権者にばらまくカネを気兼ねなく刷りまくるようになった各国政府こそ、過剰な投機資金を世界に溢れさせた元凶である。

ケインズに惑わされこうした明白な事実が目に入らない東谷は、金融市場には「害悪をもたらさないように規制を課するというのが賢明」と書く。しかし害悪をもたらす根元も、規制すべき対象も、市場ではなく政府なのである。(2013年5月、某ミニコミ誌に寄稿