連邦準備理事会は、米国の中央銀行制度の最高意思決定機関。その金融政策の動向は米国内はもちろん、世界の市場関係者から注目を集める。このFRBが陰謀の産物だと言ったら、驚くだろうか。それとも「そんな陰謀論は信じない」と笑うだろうか。けれども陰謀が「ひそかに計画する、よくない企て」(大辞林)だとすれば、FRBの創設はその定義にぴったり当てはまる。
自分の自由を縛る中央銀行制度を進んで設立
1910年11月22日、米国東部ニュージャージー州ホーボーケンから南に向け、1台の列車が出発した。列車には専用車両があり、ウォール街の有力銀行家数人と大物政治家1人が乗り込んでいた。一行の目的地はジョージア州沖合、ジキル島。ここには世界有数の大金持ちたちが会員となっている狩猟クラブがある。彼らはそこで1週間にわたり、ある作業をすることになっていた。だが会合そのものも、その目的も極秘だった。
一行は鴨猟に出かける風を装い、ジキル島に到着した。ひそかに集まった参加者は、ネルソン・オルドリッチ(共和党上院議員)、ヘンリー・デイヴィソン(JPモルガン商会共同経営者)、ポール・ウォーバーグ(クーン・ローブ商会共同経営者)、フランク・ヴァンダーリップ(ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨーク副頭取)、チャールズ・ノートン(ファースト・ナショナル・バンク・オブ・ニューヨーク頭取)、ピアット・アンドリュー(ハーヴァード大教授、連邦財務次官補)らである。
この顔ぶれは、当時の金融業界における勢力関係の縮図といえる。ホスト役のヘンリー・デイヴィソンは、名門モルガン財閥の総帥ジョン・ピアポント・モルガンの腹心。モルガンはジキル島クラブのオーナーの1人であり、会合を開く段取りをつけたのはデイヴィソンとみられている。チャールズ・ノートンがトップを務めるファースト・ナショナル・バンク・オブ・ニューヨークもモルガン系である。
一方、ロードアイランド州選出の共和党上院議員であるネルソン・オルドリッチは、石油王ジョン・ロックフェラーが興したロックフェラー財閥と親しい関係にあった。娘は石油王ジョン・ロックフェラーの息子、ジョン・ロックフェラー2世の妻となり、オルドリッチからファーストネームを譲り受けた孫のネルソン・ロックフェラーは1970年代、フォード政権で副大統領を務める。フランク・ヴァンダーリップのナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークもロックフェラー系である。
ヴァンダーリップはのちに会合のことをこう回顧している。
「全員の名が一度に記されたりすれば、われわれの秘密旅行はワシントンやウォール街、さらにはロンドンを震撼させたことだろう。そんなことになってはならなかった。そうなったらわれわれの時間と努力が水泡に帰する」(G・エドワード・グリフィン『マネーを生みだす怪物』)
会合の目的とは、米国に中央銀行、すなわち後のFRBをつくるための法案を作成することだった。それをなぜこれほどひた隠しにしたのだろう。しかも、中央銀行の役割の一つは民間銀行の営業活動を監督し、規制することとされている。なぜ米国の銀行家たちは、自分の自由を縛る中央銀行制度をわざわざつくろうとしたのだろう。
銀行を取り巻いていた厳しい経営環境
その背景には、当時の銀行業界の置かれた経営状況がある。米企業は事業資金を銀行から借り入れるより、利益でまかなう姿勢を強め、急速に銀行離れが進んでいた。しかもビジネスのパイ全体が縮小するなかで、それを奪いあう競争は熾烈になっていた。
米国の民間銀行には大きく2つの種類がある。ひとつは各州が認可する州法銀行で、建国以来の古い伝統をもつ。もうひとつは連邦政府が認可する国法銀行で、南北戦争中の1863年に新設が認められた。連邦政府が国法銀行の普及を後押ししたことで、州法銀行は一時衰退するが、南北戦争終結後の経済成長に伴い、発展のフロンティアとなった南部・西部で創業が相次ぎ、勢いを盛り返していた。
ジキル島の会合に経営トップが参加したモルガン系のファースト・ナショナル・バンク・オブ・ニューヨーク、ロックフェラー系のナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークは、どちらも行名に「ナショナル」という形容詞がつくが、これは国法銀行を意味する。ジキル島に集まった当時、これら国法銀行は州法銀行の攻勢を受け、苦しい立場に置かれていた。
とくにモルガン、ロックフェラー系をはじめとするニューヨーク勢は、国法銀行同士の競争でも厳しい状況にあった。新興勢力であるセントルイス、シカゴの両都市に追い上げられていたからである。
さらに銀行にとって、もっと恐ろしいことがあった。預金者による取り付け騒ぎである。銀行は一般に、預金の一部だけを支払準備として手元に残し、残りは貸し出しに回してしまうから、何かのきっかけで預金者が一斉に払い戻しを求めると、それに対応しきれず破綻してしまう。貸し出しを増やし、手元に残す預金の割合が小さくなればなるほど、そのリスクは高まる。実際、1907年には多数の取り付けをともなう金融恐慌が発生し、JPモルガン商会が救済に乗り出して事態を何とか収拾している。
ツケは一般国民に押し付けられる
20世紀初め、以上のような厳しい状況に直面したニューヨークの銀行財閥は、これらの問題を一挙に解決する方法を知っていた。中央銀行の設立である。中央銀行の力で金利を低く抑えることができれば、企業は借り入れを増やしてくれる。中央銀行の規制により銀行業を営む条件を厳しくすれば、新規参入を制限し、競争を和らげることができる。そして中央銀行が「最後の貸し手」として無制限にマネーを供給してくれれば、預金者の取り付けを恐れず、貸し出しを増やすことができる。中央銀行は銀行経営の自由を縛るかもしれないが、その見返りとして大手銀行の既得権益維持に役立ってくれるのである。
モルガン商会のデイヴィソンは「私は自由競争よりも規制と支配のほうが好ましいと考えている」と本音をはっきり述べている。石油王ロックフェラーはもっと露骨に「競争は罪だ」と繰り返した。大銀行は中央銀行による規制をやむをえず受け入れたのでなく、むしろ進んで導入しようとしたのだ。
だが銀行自身が先頭に立って中央銀行設立運動を繰り広げるわけにはいかない。そんなことをすれば、世間からたちまち下心を見透かされてしまう。ただでさえ当時、ニューヨークの金融財閥は産業界への支配を強めているとして非難を浴びていた。
中央銀行設立を進めるには、銀行財閥ができるだけ表に出ないことが必要だった。企ては上首尾に運び、1913年12月、FRBの根拠となる連邦準備法が成立する。それ以降、現在に至るまで、政治や銀行業界から独立しているはずのFRBは、今回のように利下げで時の政権を事実上援護したり、過剰融資で経営危機に陥った銀行を特融で救済したりしてきた。そのツケはドルの価値希薄化というかたちで一般国民に押し付けられる。約110年前に大銀行の既得権益を守るために企てられたFRBという陰謀は、現在進行形なのだ。
(Business Journal 2019.11.13)
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