日清戦争は近代日本が初めて体験した本格的な戦争であり、歴史的な意味が大きい。ところが、10年後に始まった日露戦争が司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』やそのドラマ化によってよく知られるのに比べると、一般の印象は希薄なようだ。しかし、この戦争こそ、その後の日本の進路を決定づけた戦争にほかならない。
日清戦争の目的はなんだったのか。その伏線は開戦のおよそ20年前にさかのぼる。1875年(明治8)、日本の軍艦、雲揚号が朝鮮の江華島沖で挑発的な行動をして朝鮮側の砲台と交戦する事件(江華島事件)を起こし、これを契機に1876年には日本は軍艦を送って日朝修好条規を結び、朝鮮を開国させる。
日朝修好条規の第1条には「朝鮮国は自主の邦にして、日本国と平等の権を保有せり」という規定を盛り込む。当たり前の内容のように見えるが、そこには清国を宗主国とする朝鮮の伝統的な外交関係を断つという、日本側の重大な意図が隠されていた。
日朝修好条規は、治外法権を定め関税自主権を与えないなど、かつて日本が欧米に強制された不平等条約と同様の内容だった。日本はかつて自分たちが強制されたことを、朝鮮に対して強制したのである。これにより朝鮮人は日本への反感を強めていく。
1894年春、朝鮮で大規模な農民の反乱が起こった。きっかけは、うち続く飢饉と政府による圧政、地方役人の不正・腐敗に対する怒りである。武装蜂起した農民らは人間の尊厳と平等、博愛を解く「東学」の思想運動によって結びついた。かつては東学党の乱と呼ばれたが、現在では東学農民戦争といわれる。
農民軍は逐洋斥倭(日本と西洋の駆逐)などをスローガンに掲げ、全羅道の全州を占領する。朝鮮国王は清国に援兵を要請。日本も朝鮮に出兵する。日本と清国の介入を見て、朝鮮の農民軍は同年6月に朝鮮政府と急遽、全州和約を結んで停戦した。
朝鮮王宮の占領
この停戦によって日清両国軍が朝鮮に滞在する理由は消滅した。日本はなんとか理屈をつけて清国と戦端を開こうと、あれこれ画策するがうまくいかず、とんでもない暴挙に出る。朝鮮王宮の占領である。
日清戦争での日本軍の第一撃は1894年7月25日、朝鮮の仁川沖合で清国海軍と交戦した、豊島沖の海戦からと一般にはいわれる。ところが実際の実弾発射第一撃は驚くべきことに、朝鮮の首都、漢城(ソウル)の王宮に対してだった。
日本軍は清国軍と砲火を交える前に、王宮である景福宮を正面から攻撃してこれを占領し、国王・高宗を事実上、捕虜とする。豊島沖海戦の2日前、7月23日の未明のことだった。8月1日に出された清国に対する正式な宣戦布告では、日清戦争の目的は朝鮮の独立とうたわれている。ところが実際には、よりによって朝鮮国王が住み、国の政治の中心である王宮の占領から戦争は始まったのである。
近年発見された記録により、王宮占領に関する詳しい事実がわかってきた。最も重要な事実は、占領は日本政府・軍の計画によるものだったことだ。現場の思いつきではなく、日本政府と朝鮮駐在の日本公使、すでに出兵していた日本陸軍部隊など日本を公的に代表する諸機関の緊密な連絡と合意のもとに計画・実行されたのである(中塚明『日本人の明治観をただす』)。
この占領について当時、大鳥圭介朝鮮公使が陸奥宗光外相にあてた公電や、日本政府・軍の公式説明は「朝鮮兵との突発的な衝突から始まり、日本軍はやむをえず応戦、王宮に入って国王を保護した」というものである。ところが真相はすでに述べたとおり、日本政府・軍の周到な計画によるものだった。公電や公式説明は嘘であり、日本政府・軍によって歴史が改竄されたのである。公権力による記録の偽りや捏造という、現代にも及ぶ根深い問題はこのころから存在した。
陸奥外相は、朝鮮の国王を捕虜にして戦争を始めるという強引なやり方について「狡獪手段」(ずるがしこい手段)と回想録で述べている。しかし戦況が日本有利に運び、清国軍に勝った勝ったの歓声が渦巻くようになると、当初のためらいや心配の声は消し飛んでしまう。
加担した知識人とメディア
国民の間に戦争に対する熱狂を生み出すうえで、メディアが果たした役割を無視できない。最大の情報源となったのは新聞だった。従軍記者制度はこの日清戦争から始まったが、従軍した記者の数は66社、114人に及ぶ。記者たちが戦地から競って送る「連戦連勝」の記事は、現代のオリンピック報道と同様に人々を興奮させた。戦争は新聞に部数拡大のチャンスを提供する。「万朝報」は開戦した年の発行部数が1457万部と前年に比べ60%も増え、「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」はどちらも30%前後の伸びを見せた。
軍歌も多くつくられた。日清戦争後まもなく東京帝国大学総長、文部大臣になった外山正一までが「うちころせ大砲で、文明の大敵を、衝き崩せ剣をもて、蛮族の巣窟を、東洋の文明を、進むるは我が力、撃て撃て突け突け、君の為め国の為め」と低俗そのものの歌をつくる。大衆だけでなく、最上級の知識人までが、この近代日本にとって最初の本格的対外戦争に夢中になり、正気を失って熱狂したのである(梅田正己『日本ナショナリズムの歴史 2』)。
前述した日本軍による朝鮮王宮の占領という暴挙は、朝鮮民衆の祖国愛に火をつけた。農繁期が終わる10月下旬、東学農民軍の第2次蜂起が始まる。今回の目的は明確に「抗日」だった。これに対し大本営の川上操六参謀次長は「ことごとく殺戮すべし」と命じる。日本軍の徹底した弾圧により殲滅された農民軍の死者数は3万〜5万人とも推定される。日清戦争での死者数は日本軍1万3000、清国軍3万とされるから、交戦国でないはずの朝鮮の犠牲者が最も多かったことになる。
日清戦争という呼び方では無視されやすいが、これは一種の「日朝戦争」だったといえる(原朗『日清・日露戦争をどう見るか』)。この東学農民戦争については、日本の公刊戦史では完全に隠蔽された。日本の統治時代はもちろん、第二次世界大戦後も軍事独裁政権下では固く封印される。1980年代の韓国民主化の時代を迎え、ようやく研究が着手された。長い間、歴史の闇に封じ込まれてきたのである。
現在、日本政府やその支持者は、元徴用工訴訟や従軍慰安婦問題など昭和戦前期に関する歴史認識をめぐり、韓国への反発を強めている。しかし韓国の対日感情の根底には、明治にさかのぼる日本の軍国主義に対する不信感がある。いたずらに感情的になる前に、明治政府が策謀をめぐらし、隠蔽した最初の対外戦争、日清戦争の真相くらいは知っておきたいものだ。
(Business Journal 2019.07.20)
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