2020-08-31

1万年以上前、なぜ日本人は200キロ離れた場所の石で石器をつくれたのか?

日本の旧石器時代の存在を明らかにした群馬県「岩宿遺跡」の発見者、相澤忠洋氏(1926~89年)の三十回忌献花式が命日の5月22日、同県みどり市の同遺跡で開かれた。

相澤氏は在野の考古学者。納豆などの行商をしながら石器を収集し、第二次世界大戦後まもない1946年、赤城山麓で、先端を鋭く尖らせた尖頭器(せんとうき)と呼ばれる黒曜石の石器を発見。明治大学考古学研究室と共同で調査した結果、それまで日本にはないと信じられていた旧石器時代の遺跡と判明する。


岩宿遺跡の発見後、経済成長を背景とした国土開発によって全国で発掘調査が行われ、新たな遺跡の発見が相次ぐ。一時は石器探しの名人として「神の手」と呼ばれた民間研究者により10万年前や50万年前、60万年前のものとされる一連の石器も“発見”されるが、2000年に捏造が発覚し社会問題となった。この結果、現在日本の旧石器時代の遺跡として確実なのは、岩宿を含め、約3万5000年前以降の後期旧石器時代のもののみとなっている。

十数万年前、アフリカに生まれた私たち現生人類(ホモ・サピエンス)は「偉大なる旅(グレート・ジャーニー)」と呼ばれる大移動を経て、約4万年前の日本列島にたどり着いたとみられる。

何万年も昔の人類というと、現代人とは縁遠い存在としか感じられないかもしれない。確かに厳しい自然に直接囲まれ、文明も未熟だった旧石器人との違いは小さくない。しかしそれ以上に同じホモ・サピエンス(賢い人間)として共通点は多い。そのひとつが石器に象徴される、道具の製作と使用である。

石器の歴史は限られた石材をいかに効率的に用いるかの改良の歴史といえる。日本列島の気候が寒冷から温暖に転じた2万年前、中部・関東から東北にかけて尖頭器が現れる。木の葉のような形をした、岩宿遺跡で発見されたタイプの石器だ。考古学者の松木武彦氏によれば、それまでのナイフ形石器が狩猟・解体・加工のどれにでも使える万能具だったのに対し、尖頭器は木の柄を付けて突き刺す機能が重んじられ、狩猟のために特化した石器といえる。

2万年前から1万7000~1万8000年前までの間にナウマンゾウ、大角鹿など長く人々の胃袋を満たしてきた大型獣が温暖化で姿を消し、代わりに鹿、猪、兎などの中小型獣をおもな獲物にするほかなくなった。これが尖頭器出現の背景とみられる。

さらに1万7000~1万8000年前に近づくと、最小の石材からできる限りの道具をつくり出そうとする、細石刃(さいせきじん)という新しい石器づくりの手法が各地に現れる。石塊から鹿の角などで押しはがす技術も用いて、幅1センチメートルにも満たない微小な石の刃をこそぎ取る。この小さな刃を木の柄に彫った溝に植え込んで使ったらしい。柄の形と刃の並べ方次第でナイフにも槍にもなるうえ、わずかな石材と道具があれば、どこででも必要に応じて好きな形の道具をつくり出せる。


労力だけではなく、時間というコストもかかる


石器以外で興味深いのは落とし穴だ。静岡県東部の箱根・愛鷹山麓などでは直径、深さとも1.5メートルほどの穴が列をなし、狩猟用の落とし穴と考えられる。どんな動物を獲ったかについては、鹿や猪などの中小型獣に限ったという説と、ナウマンゾウや大角鹿などの大型獣も狙ったという説がある。

ここで注意が必要なのは、石器にしろ落とし穴にしろ、つくるには大変な労力がかかったと考えられる点である。細石刃はまず石材の目を見極め、絶妙の力と方向性を持つ打撃を加えて形のそろった石刃を割り取り、次にそのへりを細かく打ち欠いたり、鹿の角で押しはがしたりして形を整えるという、複雑な工程と技術を要する。

石材も簡単に手に入るとは限らない。黒曜石、頁岩(けつがん)、サヌカイトといった石材は産出地が限られるため、遠隔地から運ばれる場合が多い。たとえば長野県野辺山高原の矢出川遺跡で見つかった黒曜石は、200キロも離れた太平洋沖の神津島産だという。氷河期に100メートル以上海面が低下しても神津島と本土は陸続きにならないから、旧石器人が舟を使って運び出したとしか考えられない。考古学者の堤隆氏は、動物の革を張ったシーカヤックのようなものだったのではと推測する。命がけの航海だったろう。

石材を手に入れるには、はるばる遠隔地まで出かけるのではなく、他地域から交換を通じて取得していたとの見方もある。その場合も交換する食料などを入手しなければならないから、余分な労力がかかることに変わりはない。

多数の大きな落とし穴づくりも、スコップなど土掘り専用の道具を持たない人々にとっては困難な作業だったはずだ。おそらく木の棒などで掘ったと考えられる。

労力だけではなく、時間というコストもかかる。石器や落とし穴をつくっている間はその時間を狩りに使うことができず、食料を入手できない。その間、ひもじい思いを我慢しなければならない。

労力や時間という小さくないコストをわざわざ払って、石器や落とし穴をつくったのは、コストを上回るリターンがあったからである。素手や木の棒で獣をただ追いかけるより、落とし穴に追い込み、石の刃を付けた槍で仕留めるほうが効率よく多くの獲物を得られるから、その方法を選択したのだ。

今の文明は昔の石器文化の延長線上にある


現代の資本主義経済でも、物を生産するには普通は素手でなく、専用の道具や設備を使う。そのほうが品質の良い物を大量に効率よくつくれるからだ。旧石器人がその知恵でつくり出した落とし穴や石器は、現代の工場やそこで使われる器具・機械の遠い先祖といえる。石器をこしらえる間、ひもじさをこらえたことも、現代人が目先の消費を切り詰めて貯蓄し、それが企業の設備投資に活用されるのと同じ構図だ。

文化人などのなかには、現代の機械文明や資本主義を批判し、原始・古代の人々の生き方に学べという意見がよくある。けれども、今の文明は昔の石器文化の延長線上にある。石器という道具をつくり出し、改良を重ねた旧石器人と、機械を発達させ、さらに進化させようとする私たちは、同じホモ・サピエンスである。どちらか一方を肯定し、他方を否定することはできない。

道具がもたらす生活は決して不幸ではない。遺跡調査によると、旧石器人はキャンプに集まり、石器の生産や生活をしていたとみられる。円を描いて並んだ数基から十数基の簡素なテントが、個人や家族の居場所だったようだ。遠くからやって来た集団と石器を交換したり、ナウマンゾウなど大型獣の狩りを共同で行ったりするのが目的だったとの説もある。いずれにしても、石器の利用で生活が比較的豊かになり、より多くの家族を養うことが可能になった表れといえる。

冒頭で紹介した相澤忠洋氏は、岩宿でみずみずしい青色の石器を明治大学と共に掘り出した際、「祖先の一家団らんの場で使われたにちがいない石器を手にして、その肌に隠された夫婦、親子などの人間関係」に郷愁と思慕を募らせた。素朴だが機能美を感じさせる石器は、その後長い時間をかけ、苦労しながら日本列島に豊かな社会を築いていく人々の歴史の幕開けを飾るにふさわしい。

<参考文献>
松木武彦『列島創世記』(全集 日本の歴史1)小学館
堤隆『旧石器時代ガイドブック』(シリーズ「遺跡を学ぶ」別冊02)新泉社
白石浩之『旧石器時代の社会と文化』(日本史リブレット1)山川出版社
相沢忠洋『「岩宿」の発見』講談社文庫

Business Journal 2018.07.26)

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