2021-09-05

フランス革命の光と闇


フランスのパリにある自由の女神像。フランスがアメリカの独立百周年を記念して贈った自由の女神像の返礼として、パリに住むアメリカ人たちがフランス革命百周年を記念して贈ったものだ。

1789年に始まったフランス革命は旧来の王制を倒し、近代市民社会の基礎を築いた。革命の光の部分だ。一方で、闇の部分もあった。暴力で反対者を弾圧する「恐怖政治」の発生だ。ギロチン(断頭台)はその恐ろしい象徴である。

自由の理念を掲げるフランス革命は、なぜ恐怖政治の闇を生んでしまったのだろうか。その原因は、自由の理念自体にあるのではない。革命政府が自由を十分に守らなかったことにある。守られなかった自由とは、経済活動の自由だ。

革命の経緯を簡単に振り返ろう。七年戦争でイギリスに敗れたフランスは、イギリスに対抗してアメリカの独立戦争を支援したが、多額の戦費で財政が悪化する。国王ルイ16世は課税の承認を求めて、1615年以来召集していなかった三部会を1789年5月に開く。三部会とは聖職者、貴族、平民の代表からなる身分制議会だ。しかし議決の方法をめぐって対立し、平民の議員を中心に、国民議会が形成される。

国民議会が憲法の起草を求めると、貴族と国王はこれを弾圧しようとした。このため、食料危機などに不満を抱いていたパリの民衆は7月14日、武器弾薬を求めて圧政の象徴とされたバスティーユ牢獄を襲撃し、フランス革命が始まった。8月、国民議会は封建的特権の廃止と人権宣言の採択を相次いで決めた。

革命は初め、立憲君主制をめざしたが急進化していく。1791年9月、男子普通選挙による国民公会が成立し、共和制の成立が宣言される。93年1月、ルイ16世は処刑された。

この間、庶民は食糧の不足と値上がりに苦しんだ。食糧事情は1789年に深刻化した後、90年、91年は緩和されたが、91年の不作が92年に影響し、民衆がテュイルリー宮殿を襲撃し国王らを捕らえた同年8月には絶頂に達した。革命期の重大な民衆行動の多くが夏から秋にかけての端境期に起こっており、食糧問題がいかに重要だったかを示している。

財産家や商人に対する民衆の攻撃が激しくなるにつれて、食糧の出回りはかえって悪くなり、値上がりが続いた。93年になるとパンの入手は困難になった。

庶民生活の困難のなかから、過激派(アンラジェ)と呼ばれる一団が生まれた。僧侶出身のジャック・ルーをリーダーとする過激派は、買い占め人、投機業者、財産家を目の敵にし、議会に迫って死刑を含む厳しい罰則で処罰すること、物価の統制、配給制の実施を求めた。

一方で過激派は買い占め人の襲撃や輸送中の物資の略奪、その安価な分配などの実力行動をたびたび展開した。その際、貧民たちや主婦が動員の対象とされた。主婦は生活問題に敏感であると同時に、信じやすいということを過激派の一人は指摘している。

革命政府内で穏健派とされるジロンド派は、経済の自由を尊重し、過激派の主張や行動を批判した。内務大臣ロランは、生産と流通の自由だけが食糧問題を解決するとして、声明で「おそらく議会が食糧についてなしうる唯一のことは、議会は何もなすべきではないということ、あらゆる障害をとり除くことを宣言することであろう」と述べた。

これに対し政府内で主導権を握る山岳派は、理論的にはジロンド派の自由主義を認めるが、過激派の主張を一部取り入れる態度を示した。同派のリーダー、ロベスピエールは「商業の自由は必要である」としつつ、「しかし、それは殺人的な貪欲が、商業の自由を濫用するにいたらないときまでのことにすぎない」と釘を刺した。

生活必需品である穀物の商業と、不要不急の染料の商業とを混同してはならないというのが、ロベスピエールの主張だった。これは経済に対する彼の無知を示していると言わざるをえない。政府が経済を統制し、市場経済の働きを妨げれば、かえって問題を悪化させてしまう。

1793年5月、穀物と小麦粉を対象に、値段の上限を定める「最高価格令」が決定された。9月には食糧のみならず全商品の価格を三年前の1790年の価格の三分の一増しに定め、また賃金も同じく1790年の二分の一増しとした。

しかし予想されたとおり、最高価格令は商品の売り惜しみを招き、かえって商品の出回りを妨げた。1793年から94年にかけての冬はことに厳しかったが、暖房用の燃料が不足し、夜の灯火も乏しくなった。春になって最高価格が引き上げられたものの、結果は変わらなかった。石鹸もローソクも手に入らず、人々は夜の2時から肉屋の戸口に集まった。

最高価格令の影響で、フランス中に闇市場が広がった。とくにバター、卵、肉などは戸別訪問によって少量ずつ販売され、手に入れたのはおもに富裕層だった。結局、富裕層が十分以上の食料品を手に入れ、貧乏人は飢えたままとなった。最高価格令は、民衆を救う狙いとは正反対の結果をもたらしてしまったのである。

飢えに苦しむ民衆は、富裕層への憎しみを募らせた。暴発を恐れた政府は1793年9月以降、半年前に設置した革命裁判所を舞台に、恐怖政治を本格化させていく。革命裁判所は、あらゆる反革命的企てに関わる事件を管轄する特別法廷で、控訴・上告は一切なく、ここで下された判決は即、確定の最終判決だった。

国会は最高価格令とともに、「疑わしい者たちに関する法令」を可決した。「疑わしい者たち」とは「反革命の輩」の意味だが、定義があいまいなため、ほとんど誰でも逮捕することが可能だった。

恐怖政治では王妃マリー・アントワネットらを含む約1万6000人が処刑され、1794年7月、テルミドールのクーデターでやっと終止符を打つ。

同月、ロベスピエールはそれまで多数の人々を送り込んだ断頭台で、自身が処刑される。ロベスピエールとその一派がパリの通りを処刑台へと向かう途中、群衆は「薄汚い最高価格令が通るぞ!」と野次を飛ばしたという。その年の12月、最高価格令は正式に廃止された。

経済の自由を安易に規制すれば、やがて社会全体の統制につながり、場合によっては深刻な権利侵害を招く。フランス革命の重い教訓である。

<参考文献>
  • 安達正勝『物語 フランス革命―バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで』中公新書
  • 河野 健二『フランス革命小史』岩波新書
  • 河野健二・樋口謹一『フランス革命』(世界の歴史)河出文庫
  • Robert L. Schuettinger, Eamonn F. Butler, Forty Centuries of Wage and Price Controls: How Not to Fight Inflation, Ludwig von Mises Institute

(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

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