2021-03-21

豊臣秀吉の「大東亜戦争」〜その重い教訓とは


1592年(文禄元)4月、豊臣秀吉に朝鮮侵攻を命じられた十五万余りの大軍が釜山に上陸した。1597年(慶長2)から十四万余りの兵を送って行われた二度目の攻撃とあわせ、文禄・慶長の役という。

足かけ七年に及ぶ日本軍の朝鮮侵略は、朝鮮では壬辰・丁酉倭乱(じんしん・ていゆうわらん)と呼ばれ、朝鮮の人々を戦火に巻き込み、多くの被害を与えた。日本では庶民的な英雄として今なお人気の高い秀吉は、韓国ではプンシンスギル(豊臣秀吉)として、日韓併合の立役者とみなされる伊藤博文(イドンバンムン)と並び、憎むべき日本人の代表格とされる。

一方、日本国内では、文禄・慶長の役は膨大な戦費と兵力を無駄に費やした結果となり、豊臣政権を衰退させる原因となった。

歴史家の間では、文禄・慶長の役と、近代日本が行った大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)との類似性が指摘される。最近は、秀吉の朝鮮出兵は自衛戦争だったという擁護論も聞かれ、そんなところも大東亜戦争と似ている。秀吉の「大東亜戦争」の経緯をたどり、その教訓を探ってみよう。

織田信長の後を継いで全国統一に乗り出した秀吉は、敵やライバルを次々に破る。1585年(天正13)、朝廷から関白に任じられると、互いに争っていた戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定を秀吉の決定に任せることを強制した。これによって大名から百姓に至るまで、すべての階層で合戦・私闘が禁じられ、戦国の世も終息に向かったので、この命令を豊臣平和令ともいう。

しかし、武力によって実現した平和はもろさを抱える。敵から奪ったものを味方に恩賞として与え続けなければ、不満から離反にあう恐れがあるからだ。皮肉なことに、全国統一が進み平和が訪れるにつれ、敵が減るから、与える土地も減っていく。それを解決するには、外国を侵略し、新たな領土を獲得するしかない。

秀吉がまだ全国統一の途上にあった1585年。子飼いの武将、加藤光泰(作内)が自分の家臣への知行(俸禄)を秀吉の土地からも捻出したいと申し出たのを、さしでがましいことだと譴責し、「作内(光泰)ためには、秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国(中国)まで仰せ付けらる(征服する)心に候か」と述べた。家臣団の知行増加を求める動きを、海外制覇によって解決しようとする構想が、ここに早くも見られる(北島万次『秀吉の朝鮮侵略』)。

1587年(天正15)、秀吉は対馬の宗氏を通して、朝鮮に対し服属と明(中国)出兵の先導とを求めた。交易上、朝鮮と密接な関係にあった宗氏は、朝鮮国王に依頼し、秀吉の日本統一を祝賀する使節を派遣させることでごまかそうとする。使節の来訪を受けた秀吉は朝鮮が服属したと思い込み、朝鮮政府に宛てた返書で「わが望みは三国(日本・朝鮮・中国)に名をとどろかすことだ」と宣言する。

武将の多くが出兵に危惧の念を抱いていたにもかかわらず、秀吉の弟、秀長らごく一部を除き、あえて反対の意見を唱える者はおらず、征服戦争へとなだれこんでいく。「この開戦へのなだれこみ方は、太平洋戦争の開戦前夜といかにもよく似ている」と比較文学者の上垣外憲一氏は述べる。

1591年(天正19)、秀吉は肥前名護屋(佐賀県唐津市)で築城に着手し、およそ五カ月で造り上げた。名護屋城の規模は総面積およそ十七万平方メートルという巨大なもので、大坂城に次ぐ規模だった。本城から半径三キロの範囲に、全国の諸大名を集めて陣屋を構えさせた。日本史上例を見ない一大軍事拠点である。商人や職人が名護屋に集まり、全国から膨大な物資が運び込まれた。

1592年4月、冒頭で述べたように、日本の大軍が釜山に上陸。それからわずか二十日ほどで日本軍は朝鮮の王都、漢城(ソウル)を占領した。5月3日の明け方、小西行長率いる第一軍は東大門から、加藤清正率いる第二軍は別ルートを通って南大門から、ソウルに入城した。

名護屋で勝報に接した秀吉は有頂天の極みに達し、明征服後のマスタープランを明らかにする。①後陽成天皇を北京に移し都周辺の十カ国を料所とする。姉の子で養子の秀次を大唐関白として都周辺の百カ国を渡す。②日本帝位は良仁親王・智仁親王のいずれでもよい。日本関白は羽柴秀保・宇喜多秀家のいずれかとする。③高麗は羽柴秀勝か宇喜多秀家に支配させる。④秀吉自身は寧波に居所を定める。

中国を中心とする世界システムを丸ごと呑み込んでしまおう、できれば天竺(インド)まで切り取ろう、という壮大な構想である。その背景には、武力に優れた日本が、文弱の中国や朝鮮に負けるはずがないという「軍事力に寄せる絶大な信頼」があったと、東京大学名誉教授の村井章介氏は指摘する(『世界史のなかの戦国日本』)。

こうして始まった戦争は、緒戦の快進撃もつかのま、朝鮮各地での義兵決起や李舜臣による日本水軍の撃破、明軍の参戦によって泥沼化。疲弊した日本兵の投降も相次ぎ、劣勢となっていく。一時休戦後の慶長の役では日本軍は最初から苦戦し、1598年(慶長3)、秀吉の死去に伴う日本軍の撤退によって終了した。この失敗は豊臣政権の命取りとなり、わずか二年後には関ケ原で西軍が大敗する。

一方、勝利した明にとっても、戦争による人的・経済的損失は大きく、国運が傾いた。中国東北地方の女真族がヌルハチに率いられて強大となり、これを抑える軍事費がかさむなどして国力が衰亡。やがて女真族の王朝である清に取って代わられる。

秀吉が失敗した中国征服に、ヌルハチはなぜ成功したのか。ヌルハチは毛皮などの交易を通じて明の辺境官僚と接触する経験を積んだことに加え、清朝に至っても民族固有の制度と中華帝国の制度を巧みに組み合わせた。一方、秀吉は武力だけに頼り、占領した朝鮮でも日本の統治政策を単純に押し付けた。「異文化のなかで戦うという感覚の欠如が、最大の敗因」と前出の村井章介氏は指摘する(『分裂から天下統一へ』)。

1910年(明治43)8月、韓国併合の夜、韓国総監・寺内正毅は「小早川・加藤・小西が世にあらば、今宵の月をいかに見るらむ」と詠んだ。秀吉の朝鮮出兵で指揮官を務めた小早川秀秋、加藤清正、小西行長の名を並べ、かつて未完に終わった秀吉の「偉業」を今ここに達成したと誇ったのである。

けれども結局、軍事力にものを言わせた大日本帝国のアジア支配は失敗し、むしろ帝国そのものの崩壊を招く。軍国日本は秀吉の重い教訓に学ぶことができなかった。

最後に、インターネットなどで見かける、秀吉の朝鮮出兵は自衛戦争だったという説の是非に触れておこう。この説によれば、朝鮮出兵は、世界征服をもくろむスペインによる明征服を阻止し、朝鮮半島からスペインと配下の明軍が日本に侵略してくるのを防ぐことが目的だったという。

東北大学名誉教授の平川新氏は、和辻哲郎文化賞を受賞した著書『戦国日本と大航海時代 』で、秀吉の朝鮮出兵について「ポルトガルとスペインによる世界征服事業への対応のあらわれだった」と分析。自衛戦争とは呼んでいないが、スペインに日本を武力で征服することの困難さを強く認識させ、武力征服の断念につながったと評価する。

けれども、実際に日本がスペインに攻められたわけではない。かりに朝鮮出兵の背景にスペインに対抗する意図があり、結果的にスペインの侵略を防ぐ効果があったとしても、無関係な朝鮮の人々に与えた甚大な損害が正当化されるわけではない。平川氏も、出兵は「朝鮮側からすれば、一方的な侵略にほかならない」と述べている。

秀吉が恐れたというスペイン自身、過剰な軍備拡張がたたって国家破産に追い込まれ、自滅の道をたどった。その意味でも、秀吉の「大東亜戦争」は壮大な無駄だったのである。

<参考文献>
  • 北島万次『秀吉の朝鮮侵略』(日本史リブレット)山川出版社
  • 上垣外憲一『文禄・慶長の役―空虚なる御陣』講談社学術文庫
  • 村井章介『世界史のなかの戦国日本』ちくま学芸文庫
  • 村井章介『分裂から天下統一へ』(シリーズ日本中世史)岩波新書
  • 平川新『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』中公新書

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