「国家は国民に優越する」という明治以来の国家主義を一掃するため、近代的原理の徹底を図れと著者は提言する。ところが、その根幹であるはずの私的所有権に冷淡である。これでは成功はおぼつかない。
著者が近代的原理の例としてあげるのは、基本的人権の尊重、国民主権の原理、男女の平等であり、私的所有権は言及されない。形式上は基本的人権に含まれるものの、実際には無視、いや敵視すらしていると思われる。
著者が私的所有権を無視・敵視している傍証は、おなじみ「新自由主義」への執拗な攻撃である。もし新自由主義が政府と企業の癒着を指すのであれば、批判は正しい。だが著者は、多国籍資本とアメリカ国家は「別物」という。
資本は私有財産だから、他人の自由を侵さない限り、自由に使えなければならない。それが近代的原理である。ところが著者は近代的原理を守れと言いつつ、財産利用の自由は認めない。これは矛盾であり、著者の議論を著しく弱める。
私的所有権は金儲けのための特権ではない。一坪反戦地主運動も、私的所有権がなければ不可能である。左翼の著者は認めたくないだろうが、私的所有権を擁護しない近代的原理など、ほとんど無意味であり、無力である。
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