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「反インフレ経済勉強会」開講のお知らせ

インフレは税の一種です。しかも普通の税よりも悪質な税です。ところが、この事実はよく理解されていません。それどころか、多少のインフレはむしろ良いことだという嘘が、現在主流の国家主義的な、誤った経済学(ケインズ経済学)や、そこから派生した極端な説 (MMT=現代貨幣理論など) によっ...

2021-04-20

マネーの起源②物々交換説は誤りか


まず、貨幣商品説に対するMMT側の批判をみてみる。中野剛志氏は、貨幣商品説のポイントを「みんながおカネがおカネだと思っているから、みんながおカネをおカネだと思って使っている」とまとめ、こう述べる。

貨幣の価値は「みんなが貨幣としての価値があると信じ込んでいる」という極めて頼りない大衆心理によって担保されているということになります。そして、もし人々がいっせいに貨幣の価値を疑い始めてしまったら、貨幣はその価値を一瞬にして失ってしまうわけです。

そのうえで中野氏は「はっきり言って、苦し紛れの説明です」と切り捨てる。

しかしブランド品や美術品が端的に示すように、あるものの価値を決定するのは、結局のところ「極めて頼りない大衆心理」である。それは貨幣も変わらない。人々が一斉に貨幣の価値を疑い始め、その価値が一瞬にして失われる事実は、ハイパーインフレの歴史が示している。

中野氏によれば、貨幣の起源を研究した歴史学者や人類学者、社会学者たちも、今日に至るまで誰も、「物々交換から貨幣が生まれた」という証拠資料を発見することができなかったという。おそらくその学者たちは、ご苦労にも、わざわざ証拠の見つかりにくい古代を調査したのだろう。

大昔のことを調べなくても、貨幣が物々交換から生まれた事例はすぐ見つかる。第二次世界大戦中の捕虜収容所で、配給品の物々交換を通じ、タバコが貨幣の役割を果たすようになったエピソードは有名だ。最近、米国の刑務所では即席ラーメンが支払いの手段として使われている。

お金が市場での物々交換から生まれたことを否定するMMT論者は、遠い昔の話などでなく、身近な事象に目を向けたほうがいい。お金は自然発生的に生まれるのだ。(この項つづく)

2021-04-19

マネーの起源①MMTの奇妙な理論


お金(貨幣)がお金として通用するのは、そのお金がモノとしての商品価値をもっているからである——。お金の起源について、標準的な経済学ではこのように教える。貨幣商品説と呼ばれる。

この貨幣商品説に対立する説に、貨幣法制説がある。お金は権力が法律や命令でお金として定めたから流通するという。貨幣法制説が間違っていることは、民間で発行される仮想通貨の存在や、古代日本で朝廷によって発行された皇朝十二銭が失敗した事実などから明らかだ。

ところが最近話題の現代貨幣理論(MMT)では、この間違った貨幣法制説に固執し、独自のアレンジを加えたうえで、正しいと言い張る。独自のアレンジとは、お金がお金として価値を持つのは、それによって税金が払えるからという説だ。

MMTを支持する評論家の中野剛志氏は、ダイヤモンド・オンラインの記事でこう述べる。

要するに、人々がお札という単なる紙切れに通貨としての価値を見出すのは、その紙切れで税金が払えるから、というのがMMTの洞察です。貨幣の価値を基礎づけているのは何かというのを掘って掘って掘り進むと、「国家権力」が究極的に貨幣の価値を保証しているという認識に至ったのです。

けれども、マネーの起源に関するMMTのこの説は、その土台となる貨幣法制説と同じく、奇妙で間違っている。以下、検証してみよう。(この項つづく)

2021-04-16

『コロナパンデミックは、本当か?』〜狂気の計画


ドイツの感染症学者バクディとライス夫妻の共著『コロナパンデミックは、本当か?』は、世界保健機関(WHO)や各国政府、大手メディアの発するコロナ情報がいかに歪み、誤解を招くものかを丹念に述べる。

たとえば、感染を発症と同一視し、PCR検査の増加に伴う感染者数の急増を大きな脅威であるかのように伝えたこと。また、死亡者のうち、コロナウイルスに感染していたと確認された人全員を、たとえ癌で死亡した患者であっても、コロナによる犠牲者として公式記録したことなどだ。

注目したいのは、恐怖心を煽った背後に、政府の明確な意図があったことを明らかにしている点だ。機密扱いが解かれたドイツの政府文書によれば、同国のコロナ対策会議では、実際の死者数を発表しても「たいしたことがないという印象を与える」だけなので、数としては大きな感染者数を意図的にアナウンスしたという。

それ以外に、具体的な手法として①コロナによる死をゆっくりと溺れ死ぬイメージで詳細に記述する②子供たちが死のウイルスをまき散らし親を殺す危険な感染源だと人々に告げる③正式に証明されていなくても後遺症に関する注意喚起を拡散する——が挙げられていた。

著者らはこれを「狂気の計画」と呼ぶ。まさにそのとおりだろう。

ナチスに追われた哲学者ハンナ・アレントは、本書に引用されたように、「国民に不安と恐怖の念を抱かせる者は、彼らをどのようにでも操ることができる」と喝破した。政府は自分たちが正しいと考える目的のためなら、いつの時代も手段を選ばない。

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2021-04-15

不要不急の存在


コロナ騒動が始まって以来、「不要不急」という言葉を耳にタコができるくらい聞かされた。最近では、政府が東京、京都、沖縄への「まん延防止等重点措置」の適用を決め、大型連休の期間中も含め、都道府県をまたぐ不要不急の移動を極力控えるよう促す考えだという。

政府がそこまで不要不急の行動をなくしたいのなら、まっさきになくせばいいものがある。政府自身だ。

事実上の外出規制で職場や学校に行けない人々が頼りにしたオンラインの会議ツールは、政府が作ったものではない。米ズーム社など民間企業のサービスだ。マスクに感染予防の効果がどれほどあるかは別として、人々の需要に応じて製造・販売したのは政府ではない。日本や中国の企業だ。ワクチンは副作用のリスクも懸念されるが、いずれにせよ作ったのは政府ではなく、製薬会社だ。

政府がやったことといえば、補助金で企業を支援したり、マスクやワクチンを買い上げたりしただけ。これらのお金は政府のものではない。人々の税金だ。政府をわざわざ通さず、人々が直接企業に払えば済む。

マスクは政府が補助金を出したりせず、個々の消費者に購入を委ねれば、作りすぎて売れ残り、税金を無駄にするようなことはなかっただろう。ワクチンも国が買い上げるのではなく、個人に選択を任せれば、より安全で安価な製品が残っていくだろう。

衆議院の解散時期が注目されているが、いつもの解散ではなく、文字どおり、二度と集まらない解散でいい。政府ほど不要な存在はないのだから。

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2021-04-14

隷従への道


経済学者ハイエクは著書『隷従への道』の第十章で、全体主義者が支持者を増やす手口について述べている。それは「従順でだまされやすく、自分の考えというものをまるで持っていない人を根こそぎ支持者にするというやり方」である。

ハイエクによれば「こういう人たちは、耳元で何度も大声でがなり立てられれば、どんな価値観も受け入れてしまう」。こうして「ものごとを深く考えようとせずあっさり他人に同調する人」や「すぐに感情が昂(たかぶ)る人たち」が加わって、全体主義の支持者はあっという間に膨らむ。

新型コロナウイルス感染症をペストに匹敵する死病であるかのように言い募り、大衆を洗脳しようとする現在の政府を予見したかのような言葉だ。多くの人は「従順でだまされやすく、自分の考えというものをまるで持っていない」という事実も、残念ながら、今回のコロナ騒動で思い知らされた。

ハイエクはさらに、全体主義の指導者が大衆の結束力を強める狡猾な手口について述べる。「敵」に対する憎悪を煽ることだ。

ナチスドイツやロシア革命の時代、敵はユダヤ人や富農だったが、今はコロナウイルスが敵とされている。しかしウイルスは人ではないから、憎しみの対象としては不十分だろう。早晩、マスクや時短営業、ワクチン接種などに非協力的・批判的な個人や事業者が、敵として認定され、憎悪の標的になるだろう。いや、すでになっている。

隷従への道を、私たちはすでに突き進んでいる。

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2021-04-13

恐怖に騙されない法


政府は恐怖心を煽り、自分の都合のいいように国民を操ろうとする。恐怖にとらわれず、正常な判断力を失わないためには、どうすればいいだろうか。

米著作家コナー・ボヤック氏が、著書『恐怖による支配』(未邦訳)で、国民の側に立った対策を提案している。対策は五つの段階に分かれる。

第一段階。権力者に対する健全な懐疑心を養う。権力を委ねられた者はそれを濫用する恐れがあるから、つねに警戒する必要がある。

第二段階。情報の選別眼を育てる。政府当局やマスコミに対する懐疑心を養うと、メディアの構造がより客観的に見えるようになり、信頼に値する情報とそうでない情報を賢明に見分けることができるようになる。

第三段階。情報源を多様化する。偽りのニュースは蔓延している。多くの情報を集め、情報源を広げれば、政治家や評論家に騙される可能性を小さくできる。

第四段階。真実を知ったら、それを広める。信頼できる情報を入手することはそれだけで有益だが、知らない人たちに広く伝えてあげれば、もっと役に立つ。

第五段階。政府に反対する人々を悪魔に仕立て上げようとする政府のやり口に同調しない。人にはつねに愛をもって接する道徳心を忘れない。

ボヤック氏の提案を一言でいえば、正しい意味のメディアリテラシーだろう。政府広報やそれを広げる大手メディアの論調をうのみにせず、少数意見にも耳を傾けること。至ってまっとうな指摘だ。

ところが今は政府の公式見解に反することを言うと、それだけで危険視され、「陰謀論」とレッテルを貼られる。とても健全な言論とは思えない。

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2021-04-12

日本は女性差別社会か


世界経済フォーラムの「ジェンダーギャップ指数2021」で、日本が156カ国中120位にとどまったとして、批判されている。調査対象となった四分野のうち、点数が低かったのは「経済」「政治参加」で、男女の所得格差、女性管理職や女性政治家の少なさが響いたという。

しかし、それによって日本が女性差別社会だと結論づけることはできない。

進化心理学の知見によれば、男女差別と思われてきた現象の多くは、男女の生物学的な違いと、そこから生じる繁殖戦略の違いに起因する。

男性は金を稼ぎ、高い地位に就くために、がむしゃらに努力する。競争に勝って多数の女性と配偶関係を結べば、それだけ多くの子供を残せるからだ。一方、女性は高い地位に就いても残せる子供の数は増えないから、それほど高い地位を求めようとしない。

そうだとすれば、政治・経済における男女格差は、差別ではなく、男女の選択の違いから生じた可能性がある。

政治の男女格差の小さな国は、ランキング首位のアイスランドをはじめ、クオータ制によって女性に一定以上の政治参加を割り当てている。日本も見習えとの意見が多いようだが、法の下の平等に照らして疑問がある。

ジェンダーギャップ指数で、日本は「教育」「医療へのアクセス」については90%以上平等が達成できているという。もし日本が本当に女性差別社会なら、こうはならないはずだ。男女の生物学的な違いを認めず、あらゆることに結果の平等を求める発想には危うさを感じる。

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2021-04-11

朱印船貿易、30年間で終わった理由


江戸幕府を開いた徳川家康は、東アジアから東南アジアへと渡航する商船に朱印状と呼ばれる海外渡航許可書を発給し、政府公認の貿易を行わせた。1604年(慶長9)に始まった朱印船貿易である。しかし、その時代は約三十年で終わりを告げた。

家康は幕府を開いた前後、外交・通商上の重要な決定を次々に下している。その背景には、西国大名が貿易で利益をあげるのを抑え、幕府のみが貿易利益を独占するために、貿易を幕府の厳重な統制の下で管理する狙いがあった。

豊後(大分県)の臼杵湾に漂着したリーフデ号に乗り組んでいたオランダ人航海士ヤン・ヨーステンと水先案内人のイギリス人ウィリアム・アダムズを江戸に招いて外交・貿易の顧問とし、それぞれ本国との通商を斡旋させた。当時、欧州では毛織物工業が発達したイギリスと、スペインから独立したオランダの二カ国が台頭し、国家の保護の下に相次いで東インド会社を設立。スペイン、ポルトガルが優勢だったアジアへ進出しようとしていた。

その一方で、スペインとの貿易にも積極的だった。フィリピンのマニラにいたスペインのフィリピン諸島長官と交渉し、スペイン船を日本貿易に誘致している。

朱印船貿易は、こうした家康の外交・通商戦略の一環だった。

朱印船の総船数は約三十年間で三百五十六隻にのぼり、多い年には二十隻以上が渡航した。朱印状の受給者は総数百五人で、上位から商人、華人、ヨーロッパ人、大名、武士の順となる。少数ながら前出のヨーステン、アダムズら在留外国人、宣教師、女性なども含まれ、多彩な顔ぶれだった。

朱印船には中国やポルトガルなど外国人を船主とする船も含まれていたが、その実質的な担い手は京の角倉・茶屋・平野、大坂の末吉、長崎の末次・荒木など、朱印船貿易家として知られる豪商だった。

朱印船が日本の港で貿易に占めるシェアはトップで、ポルトガル船や中国船、オランダ船を上回り、輸出入とも四割を超えた。日本のおもな輸入品は生糸と絹織物、甲冑などの武具に使われる鹿皮や鮫皮、砂糖や薬種など。おもな輸出品は銀で、東南アジア、中国、欧州のどこでも需要が高かった(村井章介『分裂から天下統一へ』)。

朱印船は、中国のジャンク船に欧風・和風の造船技術を取り入れた五百トンから七百五十トンの船で、二百人程度が乗り込んだ。船を操る航海士には、おもに明人、ポルトガル人、オランダ人、イギリス人が雇われた。朱印船は長崎から出港し、長崎に帰港すると定められた。

倭寇や秀吉の朝鮮出兵の影響で明が日本船の来航を禁止していたこともあり、明の目が届かない場所が朱印船のおもな渡航地になった。高砂(台湾)、交趾(ベトナム中・南部)、シャム(タイ)、ルソン(フィリピン)などである。取引の中心は、明からの商船や密貿易船と日本からの朱印船とが港湾で中国産の生糸・絹織物と日本産の銀とを交換する「出会(であい)貿易」だった。

家康は海外に宛てて「朱印状を持参する船は海賊船ではないから、貿易に応じてほしい。朱印状を持たない船は海賊と判断してかまわない」という意味の手紙を出している。このため海外貿易を行なっていた人々は家康に接近し、朱印状を求めるようになった。「朱印船貿易の制度は、貿易統制だけではなく国内支配のうえでも大きな意味をもっていた」と東京大学教授の鶴田啓氏は指摘する(『大学の日本史 近世』)。

やがて幕府の通商政策にキリスト教が大きな影響を及ぼしていく。

家康時代の対外政策は、キリスト教は禁じるが、貿易は奨励するというものだった。しかし、キリスト教の禁教を進めるには、日本人の海外渡航や貿易にも制限を加えざるをえなくなった。

幕府がキリスト教の禁教を進めた背景には、対日貿易で後発のオランダ、イギリス人が、貿易と布教を一体化させたポルトガル、スペインの弱点を突き、キリシタンの恐ろしさを吹聴したこともあった。オランダ、イギリス人はともに政府から貿易独占を認められた特権的な東インド会社に属し、布教と切り離して貿易を行うことができた。その後、イギリスはオランダとの競争に敗れ、平戸商館を閉鎖している。また、ポルトガル系とスペイン系の教会会派が互いに相手を非難したことも、キリスト教や欧州勢力への警戒感につながった。

1616年(元和2)に開明的な家康が死去した後、秀忠、家光の下で幕府の貿易政策は保守化の一途をたどる。1624年(寛永元)、スペイン船の来航を禁じた。1633年(寛永10)には、朱印状のほかに老中奉書を携えた奉書船以外の海外渡航を禁止し、さらに1635年(寛永12)、日本人の海外渡航を全面的に禁止した。この結果、朱印船貿易は約三十年間の短い歴史に終止符を打つ。

その後、1637年(寛永14)から翌年にかけて起こった島原の乱の影響から、幕府のキリスト教に対する警戒心はさらに強まり、1639年(寛永16)、ポルトガル船の来航を禁止した。さらに、平戸にあったオランダ商館を1641年(寛永18)に長崎の出島に移し、唯一残されたヨーロッパ人であるオランダ人と日本人との自由な交流を禁止した。

幕府は中国船との私貿易も長崎に限定して統制下に置き、そのほかの場所での貿易は密貿易として禁止した。こうして、いわゆる鎖国の状態となった。

幕府が天領の長崎に開港場を限定したのは、それまで東シナ海、南シナ海のネットワークによって経済力を強めてきた西国大名の力を抑制し、幕府が貿易の利益を独占する狙いからだった。アジアの海のネットワークが日本列島の西を通り越し、東の江戸幕府に結び付けられるという奇妙な状況が、幕府の権力により生み出されたと歴史学者の宮崎正勝氏は述べる(『「海国」日本の歴史』)。

家康は貿易を奨励したが、それでも幕府の権力を維持する必要から、統制は避けられなかった。家康の死後、統制はさらに強まり、鎖国に至る。自由貿易と政府権力は両立しがたいという事実を、朱印船貿易の短い歴史は物語っている。

<参考文献>
  • 村井章介『分裂から天下統一へ』(シリーズ日本中世史)岩波新書
  • 杉森哲也編『大学の日本史―教養から考える歴史へ〈3〉近世』
  • 宮崎正勝『「海国」日本の歴史: 世界の海から見る日本』原書房

2021-04-09

国民操縦の手口


政府は戦争を欲する。民主主義政府であっても、それは変わらない。政府は自分では富を生み出せないので、富を手に入れるには、他人の富を奪うしかない。その対象が国内に向かえば課税であり、国外に向かえば戦争となる。

しかし自分や家族が戦場に送り込まれる普通の人々は、戦争を好まない。それでは政府はどうするか。ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けた直後に服毒自殺したナチスドイツの元国家元帥、ヘルマン・ゲーリングが米軍の心理分析官に語った有名な言葉がある。

国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。

ゲーリングの発言のポイントは二つある。一つは国民全体に対し、外敵から攻撃されそうだと恐怖心を煽ること。もう一つはそうした扇動にもかかわらず戦争を拒む平和主義者に対し、愛国心がないと非難することだ。

この手口は、コロナ対策への協力を強いる今の政府のやり方ときわめて似通っている。国民全体に対しては、感染への恐怖心を煽る。協力を拒む人々に対しては、時短営業の要請に応じない飲食店に東京都が突きつけた命令のように、「感染リスクを高める」と非難する。

あの世のゲーリングは現在の日本を見て、満足そうにうなずいていることだろう。彼は国民を操縦する秘訣を語ったさきほどの発言に、こう付け加えている。「このやり方はどんな国でも有効ですよ」

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2021-04-08

恐怖という道具


「リバウンドが懸念される」「第四波に入りつつある」。緊急事態宣言を解除した後も、政府当局者は新型コロナウイルスに対する国民の恐怖心を煽るような発言を繰り返している。

もしコロナ感染症が本当に危険な病なら、多少脅かすようなことを言われても仕方ないかもしれない。しかし、コロナ対策を担当する厚生労働省で職員二十三人が深夜まで飲み会を楽しんだというから、政府も本心では大したことないと思っているのだろう。

それではなぜ、政府は恐怖を煽り続けるのだろうか。恐怖は国民を支配するのにきわめて便利な道具だからだ。

恐怖という感情は、人の思考と行動に特別な影響を及ぼす。いつもは分別のある人でも、恐怖に駆られると、論理的な思考や思慮深い判断ができなくなる。かつて英国の思想家バークが「恐怖という感情ほど、精神からすべての行動力と思考力をみごとに奪い去るものはない」と述べたとおりだ。

恐怖によって正常な判断力を失った人々は、他人が提案する解決策を安易に受け入れやすくなる。場合によっては、大切な自由まで譲り渡してしまう。まるで蛇ににらまれ、身動きできなくなった蛙のように。

国民を恐怖によって思うままに操作したい政府にとって、コロナは簡単に手放したくない口実に違いない。たとえ感染者が減少しようと、経済規制で企業倒産や自殺者が増えようと、あれこれ理由をつけてコロナの恐怖を煽り続けるだろう。他にもっと効き目のある恐怖が見つからない限り。

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2021-04-07

放送外資規制は撤廃を


東北新社の認可取り消しに続き、フジテレビの親会社でも過去に放送法の外資規制に違反していた疑いが強まった。放送法では、外国の法人などが持つ議決権の比率を20%未満に制限している。

安倍政権下で大騒ぎになった加計学園の獣医学部新設問題もそうだったが、この種の行政スキャンダルではいつも、そもそも規制は必要なのかという論点が無視される。それどころか、逆に規制を強化しろという意見が勢いを増す。

株式会社アシスト社長の平井宏治氏がダイヤモンド・オンラインへの寄稿で、そうした規制強化論を展開している。外資規制は「放送が世論に及ぼす影響を考慮した安全保障上の理由」から必要だと強調し、「官民ファンドを設け、MBO(経営陣が参加する買収)を行い、外国人投資家を株主から一掃することは可能」などと提言する。

平井氏が見落としていることがある。国民の安全にとって、外国政府だけではなく、自国政府も同じくらい、いやそれ以上に脅威になりうるという事実だ。

もし大東亜戦争中、情報源が日本政府の大本営発表に偏らず、外国のもっと客観的な報道に接することができたら、戦禍があれほど甚大になる前に、戦争をやめることができたかもしれない。外国の宣伝工作を心配するより、兵士の多数を戦地で餓死に追いやるような自国政府の暴虐のほうがはるかに恐ろしい。

コロナ下の今も、大手放送会社は感染症に関し政府の公式見解を繰り返すばかりで、戦時中と五十歩百歩だ。外国人資本家を締め出し、政府が実質牛耳る官民ファンドに経営を委ねたりしたら、報道の多様性はますます失われる。

他のあらゆる産業分野と同じく、外資規制は不要で有害だ。撤廃するのが正しい。

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2021-04-06

自由より安全を求める人たち


政府のコロナ対策で自由が縛られたって、仕方ない。なんだかんだ言って、命が一番大事だから——。こんな風に思っている人は少なくないだろう。けれども、その考えは正しくない。

今、私たちが自分の健康や命を守るうえで頼りにしている科学や技術は、自由なしには成り立たない。研究の自由がなければ、感染症の原因や対策を知ることはできない。営業の自由がなければ、実用的な防止手段や治療方法を製品化し、人々に届けることはできない。

科学や技術の進歩は、つねに少数の意見や行動から始まる。それが多数派の考えに反するからといって禁止すれば、進歩の可能性はなくなる。

たとえば、海外でロックダウン(都市封鎖)の効果が疑問視されているにもかかわらず、日本は自粛要請をやめようとしない。自由に行動して集団免疫を獲得する方法は、もし有効なら経済や人の心への打撃が和らぐにもかかわらず、試すことさえ認められない。

一年以上にわたり自由が制限されているにもかかわらず、日本社会がなんとか持ちこたえているのは、過去に築いた有形無形の蓄えがあるからだ。しかしこのままだと、それもいつか底をつく。

「安全を得るために自由を放棄する者は、そのどちらも得られないし、得るに値しない」。このベンジャミン・フランクリンの言葉が、今ほど切実に感じられるときはない。

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2021-04-05

奴隷根性を乗り越える


テレビのニュースを見ていると、毎日のように、コロナ対策にいそいそと協力する善男善女の姿が流れる。花見のシーズンには、ベンチで隣同士に腰かけ、「横に座ってしゃべるようにしています」と笑顔で話すカップルや、「ちょっと早く来て、人が出てきたら帰るつもりです」と答える男性らが紹介された。もちろん全員マスクをしている。

それならいっそのこと、わざわざ花見なんかに来なけりゃいいのにとも思うが、それは違う。自粛要請のせいで世の中が真っ暗になるのではなく、それなりに楽しんでますとアピールすることに意義がある。それを善男善女はわきまえている。

なんだか北朝鮮のテレビみたいだって? とんでもない。だって強制されたわけではなく、みずから進んで行動しているのだから。そのほうが悪性かもしれないけれど。

恋人同士ならマスクなど外し、顔を見ながら話せばいい。人が来たら帰ったりせず、いっしょに桜を楽しめばいい。そうしたからって、健康へのリスクがどれだけ高くなるっていうのだ。

でも善男善女はそうしない。むしろお上の命令に進んで従うほうが、気持ちがいいと思っているに違いない。そうでなければ、あの笑顔にはなれない。

社会思想家の大杉栄は、「奴隷根性論」でこう書いた。

政府の形式を変えたり、憲法の条文を改めたりするのは、何でもない仕事である。けれども過去数万年あるいは数十万年の間、われわれ人類の脳髄に刻み込まれたこの奴隷根性を消え去らしめる事は、なかなかに容易な事業じゃない。(『大杉栄評論集』岩波文庫)

奴隷根性を乗り越えることは、政治の仕組みを変えるより難しいかもしれない。しかし嘆いてばかりいても仕方ない。大杉栄は前を向いて、こう付け加えている。「けれども真にわれわれが自由人たらんがためには、どうしてもこの事業は完成しなければならぬ」

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2021-04-04

宗教改革と主権国家

ニュースを見ていると、「主権国家」という言葉に出会う。英国の欧州連合(EU)離脱をめぐり、英国がEUに対し「我々は主権国家として独自のルールを持つ」と主張するといったケースだ。

主権国家の登場は近世の欧州だ。当時、教皇や皇帝という、個々の国家を超越する権力が衰え、各国が独立性を強め、自国の領域内で最高の権力(主権)を主張するようになった。これが現在まで続く主権国家だ。今でこそ当たり前の存在と思われているけれども、歴史上、それほど古いものではない。

主権国家の形成を推し進める役割を果たした出来事がある。宗教改革だ。宗教というと、現代の欧米では国家とは距離を置いた存在になっているが、意外なことに、主権国家の成立と宗教改革は深いかかわりがあった。その歴史をたどると、宗教改革の明るい面だけではなく、暗い影の部分も浮かび上がる。


宗教改革は、ドイツの神学者マルティン・ルターが1517年に贖宥状(しょくゆうじょう)の効力に関する九十五カ条の論題を提起したことから始まった。贖宥状は、免罪符の呼び名でも知られる。罪を犯した者でも、教皇が発行するこの証書を買えば、罪が赦されるとされた。

かねて贖宥状に疑問を抱いていたルターは、教皇レオ十世がローマの聖ピエトロ大聖堂の改修費にあてるために認めた贖宥状の販売を批判した。人は聖書のみをよりどころにし、信仰のみによって救われると説いたルターの考え方は、教皇や教会の権威を否定することになった。

教皇はルターを破門するがルターは従わなかった。神聖ローマ皇帝カール五世が、1521年のヴォルムス帝国議会にルターを呼び出し、その教説の撤回を求めても応じなかった。皇帝の弾圧に抗議するルター派はプロテスタント(抗議者)と呼ばれ、のちにこの言葉は、ローマ教皇の権威を否定する新教徒全体を指すようになる。

ルターはザクセン選帝侯フリードリヒの下に身を寄せ、そこで聖書のドイツ語訳を進めた。グーテンベルクが発明した印刷術により、聖書は民衆の間に広まり、ローマ教皇の権威をさらに揺るがしていく。

ルターが宗教改革を始めるのに先立つ四十年余りの間に、欧州は一つの転機を迎えていた。主権国家の出現である。

イングランドでは、1455年から三十年間続いたばら戦争ののち、テューダー朝が成立する。フランスでも、百年戦争と国内統治の強化によってイングランド王とブルゴーニュ公の勢力を排除した。一方、神聖ローマ帝国が君臨するドイツでは、バイエルン、プロイセン、ザクセンといった領邦(地方国家)単位での統合が進んだ。

こうした主権国家にとって最も障害となったのは、国内のローマ・カトリック教会勢力だった。教会は十分の一税で国の富の多くを吸い上げていたほか、教会や修道院は大地主として国土の多くの部分を所有していた。

なにより困ったことに、こうした教会の活動は国家を超越していた。教会の利害と国家の利害が衝突した場合、国家は国内の教会が国家の利害に沿って行動することを期待できなかった。

したがって、ローマ・カトリック教会当局と衝突して窮地に陥ったルターを、ザクセン選帝侯フリードリヒがかくまったのは偶然ではない。歴史学者の小泉徹氏が指摘するとおり、フリードリヒにしてみれば、「敵の敵は味方」、ローマ・カトリック教会の敵は味方だったのである(『宗教改革とその時代』)。

こうしてドイツの各地の領邦で、同じように領邦君主がプロテスタント聖職者を保護し、他方、プロテスタント聖職者が領邦君主の支配を正当化するという関係が生じた。1555年、アウクスブルクの宗教和議でルター派は公認されたが、宗派を選ぶ権利が認められたのは諸侯だけで、個人の信仰の自由が認められたわけではなかった。宗教改革の進展は、主権国家の支配強化という政治的な目的に支えられていた。

イングランドの場合はもっとはっきりしている。離婚問題でローマ教皇と対立したヘンリ八世は、1534年、議会の協賛を得て国王至上法(首長法)を定め、国王を最高の長とするイギリス国教会を創設し、教皇と絶縁した。しかし目的はローマ・カトリック教会の政治力排除にあり、ヘンリ自身はルターの教説には何の関心もなかった。

このように宗教改革と主権国家の形成の間には密接な関係があった。その関係が最も極端な形で現れたのは、修道院などカトリック勢力の財産の没収である。

宗教改革の当初から、北ドイツの領邦君主はカトリック勢力の財産に手をつけた。ルター派に改宗したホーエンツォレルン家のアルブレヒトは1525年、十字軍以来の歴史を持つドイツ騎士団国の土地を没収し、プロイセン公国を創設した。ヘッセン方伯フィリップ一世は領内にある修道院の土地をすべて没収し、収入の大半を自分のものにした。

イングランドには1530年におよそ八百の修道院があり、イングランド全土の五分の一から四分の一を所有し、総収入は王室に匹敵するといわれていた。ヘンリ八世はこの莫大な財産に目をつけ、1535年、政治的右腕であるトマス・クロムウェルを自らの代理に任命する。

クロムウェルは風紀の乱れを調査するという名目で各地に委員を派遣し、修道院を含む教会財産を綿密に調査し、目録を作成した。そしてまず翌年、規模の小さい修道院を対象に、とくに風紀の乱れが甚だしいという理由で解散を命じる。大修道院の抵抗をかわすため、弱い部分から手をつけたのだ。

イングランドの各地で修道院の解散が始まると、すべての旧秩序が変革されるのではとの不安からジェントリ(地方貴族)や農民が武装蜂起した。クロムウェルは、一部の大修道院がこれに加担したと難癖をつけ、関係者を処刑する。この事態におびえた各地の大修道院は雪崩を打って自ら解散し、1540年にはすべての修道院が解散してしまった(前出『宗教改革とその時代』)。

「抗議者」という言葉の由来から、プロテスタントは国家権力に抵抗する人々というイメージを持つかもしれない。だがプロテスタントが抗議したのはローマ教皇の権威であり、国家権力ではなかった。しかも主権国家の力を借りてローマ教皇に対抗した関係上、国家権力を否定する契機はほとんどなかった。

ルター自身、そうだった。1524年、西南ドイツの農民が、ルターの教えに触発されて大規模なドイツ農民戦争を起こした。ルターは初め農民の運動を支持したが、農民たちがトマス・ミュンツアーらの指導のもとに領主制の廃止や土地の共有などを要求すると、これに反対し、諸侯に一揆を鎮圧するため、妥協せずに徹底的に戦うよう説いた。

例外はあった。ルターと並ぶ宗教改革の旗手ジャン・カルヴァンの一派は、フランスではユグノーと呼ばれ、カトリックの王権から厳しく弾圧され、内乱を起こした。プロテスタント神学者テオドール・ベーズは、被治者の同意を欠く統治を行う者は「公敵」であり、すべての被治者はこれに対する武装抵抗権を持つとして、ユグノーの立場を擁護した。もっとも、このような抵抗権理論はプロテスタント思想に本来備わっていたものではなかった。

宗教改革は結果として、一つの国家に一つの宗教という形態を生み出した。国家と宗教はつねに協力関係にある。とりわけルターを生んだドイツでは、プロテスタントは今日に至るまで一貫して体制保持に協力してきた。20世紀のナチス政権に対しても、ヒトラー暗殺計画に加わり処刑された神学者ディートリヒ・ボンヘッファーのような例外はあるが、全体として無批判だったとされる。

ナチスは、ルターが1543年に書いた「ユダヤ人とその偽りについて」という文書をユダヤ人の迫害や反ユダヤ主義のために利用した。宗教改革によってユダヤ人がキリスト教への改宗を始めるだろうという期待が外れ、その腹いせに書いたような文書だ。ルターはユダヤ人を厳しい言葉で批判した。ナチスに都合よく抜粋され、編集されたとはいえ、ルターの主張であることに違いはない。

このため第二次世界大戦中や終戦直後、連合国側の研究者から「ルターはヒトラーの先駆者だった」とまで批判されることになった。

だがヒトラーを滅ぼした米英などもその後、反共産主義や反テロリズムを旗印に、アジアや中東で十字軍を思わせる軍事介入に乗り出す。異なる宗教・文化の人々を暴力で苦しめ、今も苦しめている。

熱烈な信仰や思想は、それだけで平和を脅かすことはない。国家権力と結びついたとき、脅威となる。宗教改革と主権国家の歴史は、その危険に警鐘を鳴らす。

<参考文献>
  • 小泉徹『宗教改革とその時代』(世界史リブレット)山川出版社
  • 深井智朗『プロテスタンティズム - 宗教改革から現代政治まで』中公新書
  • 宮田光雄『ルターはヒトラーの先駆者だったか: 宗教改革論集』新教出版社
  • Rothbard, Murray N., Austrian Perspective on the History of Economic Thought, Ludwig von Mises Institute.
(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

2021-04-02

MMTの矛盾⑤納税者の権利


MMTを支持する中野剛志氏も、お金を発行した結果、その価値が下がることは、次のように認めている。

インフレとは物価が上がることですが、裏返せば、貨幣の価値が下がることです。つまり、ハイパーインフレになれば、お札はただの「紙切れ」になってしまいます。〔略〕ハイパーインフレはさすがに困ります。

ところがおかしなことに、中野氏が問題視するのはハイパーインフレだけだ。むろん、ハイパーインフレは良くない。けれども、国民にお金の価値の下落というコスト、つまりインフレ税を払わせる点では、そこそこ大幅なインフレはもちろん、緩やかなインフレ(マイルドインフレ)だって同じだ。

マイルドインフレは、ある意味では、ハイパーインフレよりたちが悪い。ハイパーインフレは誰が見ても異常なので、食い止めようとする意思が働きやすい。ところがマイルドインフレの場合、むしろ正常であり望ましいという考えが、政府や経済学者によって流布されている。だから長く続きやすい。これは政府にとって望ましい。インフレ税を長期にわたり、じっくりと搾り取ることができるからだ。

ハイパーインフレはさすがに困る、裏を返せばそれ未満のインフレは問題ないという中野氏やMMT論者の考えは、旧来のリフレ派と同じく、「百姓は生きぬように、死なぬように」と言い放つ封建領主と変わらない。納税者の権利という発想は一ミリもない。

最後に「今の日本はデフレだから、インフレ税の批判は当てはまらない」という意見にあらかじめ反論しておこう。論拠はいくつかあるが、ここでは一つだけ挙げる。「今の日本はデフレ」という認識がそもそも怪しい。アベノミクス以来の金融緩和を背景に、マンションや株式といった資産の価格は上昇が続いている。それが物価に反映されないのは、政府の統計に資産価格が含まれていないからにすぎない。(この項おわり)

2021-04-01

MMTの矛盾④インフレ税という悪税


政府がお金の発行量を増やすと、政府自身は新たなお金を手にする一方、人々はお金の価値を奪われる。実質、税金と同じだ。これを「インフレ税」と呼ぶ。

MMT論者は、政府の通貨発行権を活用すれば、コストなしでメリットを享受できるとまことしやかに語る。フリーランチを楽しめると甘くささやく。それは真っ赤な嘘だ。タダ飯だと信じて盛大に飲み食いしたら、インフレ税の支払いが待っている。

しかもインフレ税は普通の税に比べ、非常にたちが悪い。

そもそも課税は、法律の定めによらなければならない。これを租税法律主義という。マグナ・カルタに由来する近代法の大原則で、日本国憲法でも84条にうたわれている。具体的には、法律で課税対象、税率、課税方法、徴収方法などの条件を定めなければならない。

ところがインフレ税の場合、根拠となる法律が存在しない。課税対象も税率も、課税や徴収の方法も、どこにも定められていない。消費税なら税率は10%と法律に明記されているけれども、インフレ税の負担は国民一人一人ばらばらだ。税率は何%か、政府自身にもわからない。

普通の税金なら、国会で根拠となる法律を成立させなければならない。世論の反対があるから、すんなりとはいかない。下手をすると選挙で負ける。

インフレ税にそんな苦労はない。政府が中央銀行を使ってお金を増やすのに、いちいち国会の承認はいらない。「金融政策の一環」と言っておけばいい。メディアもインフレ税をほとんど問題にしないから、国民の多くは税金を取られている意識すらない。

近代法の精神を踏みにじる悪質な税金。それがインフレ税だ。(この項つづく)

2021-03-31

MMTの矛盾③偏るコスト負担


おとぎ話の世界で、ある晩、人々が眠っている間、天使が不思議な力を使い、全員の財布の中身を一瞬で二倍に増やしたとしよう。他の条件に変化がなければ、お金の購買力は半分になる。けれども、朝になって財布の異変に気づいた人々が不満を漏らすことはないだろう。皆平等にお金が増え、購買力の低下を埋め合わせることができるからだ。

しかし現実の世界では、こうはならない。お金を発行する政府(中央銀行)は、国民のお金を同時に同じだけ増やしてはくれない。時間差があるし、額も均等ではない。

政府によって新たに発行されたお金を最初に手に入れるのは、政府自身だ。次に、政府と事業や預金といった取引関係のある企業や団体、銀行など。続いて、その取引先へと順次渡っていく。政府と深いつながりのない普通の人々は、お金を受け取れるとしても、届くのは最後のほうだ。

この間、他の条件に変化がなければ、お金の流通量の増加とともに、物価はしだいに上がっていく。言い換えれば、お金の購買力が下がっていく。政府やその親しい関係者は購買力が下がる前にお金を使うことができるのに対し、普通の人がお金を手にする頃にはその購買力は下がってしまっている。

おとぎ話の世界で天使がお金を増やす場合は、社会の全員が購買力の低下というコストを平等に負担する。しかし現実の世界で政府がお金を増やす場合は、コストは普通の人々に偏って押しつけられる。これは事実上、税金と同じだ。(この項つづく)

2021-03-30

MMTの矛盾②購買力低下のコスト


自国通貨建ての国債は、なぜデフォルトしないのだろうか。中野剛志氏によれば、「自国通貨を発行して返済にあてればいい」からだ。これは正しい。

日本であれば、日本国債は円建てだから、政府(日本銀行)が円を発行し、そのお金を国債の返済にあてればいい。

そうだとすれば、日本国民はまるで打ち出の小槌を手に入れたように、気兼ねなく政府にどんどん国債を発行させ、調達した資金で、公共事業でも社会福祉でも給付金でも使い放題になる。実際、MMTの信奉者はそれを求めている。

しかし、ここで「フリーランチはない」という経済の鉄則を思い出そう。この鉄則の意味は、何事にもコストが伴うということだ。

政府の通貨発行によって、国民にはどのようなコストが発生するだろうか。それは通貨の購買力低下だ。

あなたが一万円持っているとしよう。このお金でスニーカーを二足買えるとすると、一万円の購買力はスニーカー二足分になる。

ここで政府が新たに円を発行し、一万円給付してくれた。手持ちは計二万円になった。しかし他の人たちも同じように手持ちが二倍になったので、払えるお金が増え、スニーカーが二倍に値上がりした。その結果、一万円の購買力は半分のスニーカー一足分になってしまった。

この単純な例では、通貨の購買力低下のデメリットを実感できないかもしれない。購買力が半分になっても、手持ちのお金が二倍になり、購買力の目減りを埋めてくれるからだ。けれども、現実の世界ではそうはいかない。(この項つづく)

2021-03-29

MMTの矛盾①フリーランチの幻想


最近もてはやされる現代貨幣理論(MMT)の根底にあるのは、国家を万能の存在として神のように崇める国家主義である。だから信奉者が左翼(革新派)、右翼(保守派)の両方にまたがっている。

しかし、国家の力で経済に繁栄をもたらすことはできない。むしろ混乱と衰亡を招くばかりだろう。保守派の評論家、中野剛志氏がダイヤモンド・オンラインで公開している記事を素材に、MMTの本質と矛盾、害悪を見ていく。

MMTとはそもそも何か。中野氏が説明するとおり、自国通貨を発行できる政府の自国通貨建ての国債はデフォルト(債務不履行)しないので、政府はいくらでも好きなだけ財政支出をすることができる。財源の心配をする必要はない、とする理論だ。

「政府はいくらでも財政支出をすることができる」という突飛な主張について、中野氏はこう付け加える。「経済学の世界では、よく『フリーランチはない』と言われますが、国家財政に関しては『フリーランチはある』んです」

経済学についてまともな知識のある人なら、驚いてのけぞるに違いない。「フリーランチ(タダ飯)はない」とは、あらゆる経済事象に共通する鉄則だ。それを部分的にせよ否定するのは、たとえるなら「物理学の世界では、『すべての物体の間には引力が働く』と言われますが、霞が関では違うんです」と言うようなものだ。

後述するように、たとえ国家であっても、フリーランチはないという経済の法則を逃れることはできない。それができると信じるのは、国家は万能という幻想にとらわれているからだ。(この項つづく)

2021-03-28

大澤真幸・國分功一郎『コロナ時代の哲学』

コロナ時代の哲学

社会主義革命のチャンス?


マルクス主義の教理の一つに、恐慌待望論がある。経済恐慌が起こると、それに伴う社会の混乱に乗じて、資本家の搾取に苦しんできた労働者が革命を起こし、社会主義を打ち立てる。だから革命のチャンスである恐慌の到来を待ち望むというものだ。

1857年、米国発の恐慌が英国に波及すると、マルクスの盟友エンゲルスは、いよいよ革命が近いと期待し、株価の急落するロンドンの取引所にうきうきして通ったという。

本書の目玉である対談で開陳されるのは、マルクス主義の影響が色濃い、ゆがんだ危機待望論だ。著名な論客二人は、あけすけに、あるいは遠慮がちに、新型コロナウイルス感染拡大を奇貨とした社会主義革命への期待を語る。

対談の冒頭、大澤真幸は「現在、新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大によって、日本を含む世界が未曾有の危機に晒されています」との認識を示す。

しかし、国内の死亡者は累計で九千人に近づいたが、インフルエンザでも例年三千〜四千人が亡くなり、関連死も含めると一万人に及ぶとされる。しかもコロナによる死亡者の八割近くが七十歳以上の高齢者で、二十歳代の死者は三人、十九歳以下の死亡者は一人もいない(鳥巣徹『コロナ自粛の大罪』および東洋経済オンラインによる)。

この事実に照らせば、コロナが「未曾有の危機」だという、政府の公式見解をなぞったような認識はそもそも疑問だ。けれどもここは目をつぶって、話を進めよう。

相手の國分功一郎の発言は当初、悪くない。コロナをきっかけに世の中に広まった、疫学的なものの見方は「非常に非人間的」だと警鐘を鳴らす。なぜなら「一人ひとりの人間を単なる駒と見なして、駒同士が会わないようにする、病状が悪化したら隔離することを原則とする」からだ。

ところが大澤は、せっかく國分が提示したコロナ政策の非人間性という論点を深掘りしようとせず、あらぬ方向に議論を誘導する。「世界共和国」の夢だ。

ウイルスは国境を越えて拡大するので、「自分の国だけでは解決できない、自分の国だけの解決はナンセンス」と大澤は強調する。そのうえで、コロナ危機は「世界共和国への最初の一歩」になりうると述べる。

世界共和国などつくらず、政府間の連携で十分な気もするが、これもよしとしよう。その世界共和国とは、いかなる政治経済体制になるのか。もちろん、社会主義だ。

大澤は「どんな政府も、この問題〔コロナ問題〕に対してギリギリの手を打ち続ける必要がある。そうしていく中で、気がついたら世界がすっかり変わってしまったということもあるかもしれない」と述べる。その先例として、2008年のリーマン・ショックを挙げる。

当時、経済危機を救うためとして、ゼネラル・モーターズ(GM)などの大企業や銀行に多額の公的資金が投入された。「あれほどの公的資金によって倒産を免れたということになると、大企業や銀行は、ある意味で、国有化されたに等しいわけです。国有化は、しかし、社会主義体制のやり方ではないですか」

国有化は社会主義のやり方だという大澤の指摘は正しい。しかし正しくないことが二点ある。ひとつは大澤が続けて述べた、「資本主義が延命するために、社会主義的な手法を使わざるをえなかった」という見方だ。社会主義的な手法を大々的に導入してしまったら、それはもう資本主義ではない。半社会主義とでも呼ぶべき代物だ。

正確には、米国経済はすでにリーマン・ショックの前から、政府・中央銀行と大企業・大銀行が癒着した半社会主義(縁故主義ともいう)に変質していた。リーマン・ショックはその弊害が露呈したものだ。政府と親しい企業・銀行に対する公的資金投入は縁故主義では当然の選択であり、それは資本主義の延命ではなく、縁故主義の肥大にすぎない。

大澤のもうひとつの誤りは、社会主義が資本主義に代替可能な経済体制だと楽観的に考えている点だ。それは大澤が次に述べる、ベーシックインカムに関する議論ではっきりする。

今、世界中の政府が国民に給付金を配布している。日本も一回の十万円では済まず、同じような給付を何回も、かなり長期間継続せざるをえないだろう。実質的にはベーシックインカムに近いものになる。そのアイデアを徹底させていくと、「能力に応じて貢献し、必要に応じて取る」というコミュニズム(共産主義)のスローガンに近づく。危機に対応した事実上のベーシックインカム導入により、資本主義の基本的なルールが否定されることになる。

「気づいたら『無意識の革命』が起きていた、ということがあるかもしれない」と大澤は話し、さらに一歩進めて、「無意識の世界同時革命になるかもしれません」と夢を膨らませる。

コロナが社会に良い変化をもたらすという考えには倫理的に抵抗していた國分も、大澤の怪気炎に気圧されてか、やがて「自分は、もしかしたら単に世論におびえていただけじゃないか」と頼りないことを言い出す。そしてコロナ対策として押しつけられた時短営業や外食自粛について、こんな告白をする。

実を言うと、夜の八時ぐらいには店がすべて閉まって暗くなっている街を見たとき、どこか痛快な気持ちがあったんです。これでいいじゃないか、なぜ夜遅くまで働かなければならないのか、って。

ベーシックインカムを十分配れば、「能力に応じて貢献し、必要に応じて取る」共産主義を実現させれば、誰も夜遅くまであくせく働かずに済むのに、と國分も大澤も言いたいのだろう。もし実現したら、すばらしい楽園に違いない。

けれども、それは実現不可能なユートピアだ。金をどれだけ大量に発行し配っても、社会は豊かにならない。金は食べることも着ることもできないからだ。社会が豊かになるには、品質が良く手頃で多彩な商品・サービスの生産を増やさなければならない。それが資本主義でなければ無理なことは、ソ連など旧社会主義国における市民生活の窮乏が示している。

ソ連崩壊から三十年になろうという今なお、知識人の多くが社会主義への幻想を手放さない。その哲学の貧困にはあきれるばかりだ。それに対し一般の人々は、理不尽な経済統制に苦しみながらも、起業家の助けを得て、乗り切る道を見つけていくだろう。市場経済の強靭な対応力は、この一年で誰もが目にしたところだ。

ちなみに、冒頭で触れた1857年の恐慌に続いて革命は起こらず、マルクスとエンゲルスを落胆させた。資本主義の自律的な回復力で、経済が再び成長に向かったからだ。コロナ時代の希望もまた、資本主義にある。

2021-03-26

偽りの物語


市民革命の時代には神聖不可侵とまでされた財産権などの経済的自由が、現代では「公共の福祉」による大幅な制限を受けるようになった理由として、教科書ではこんな説明がされる。

19世紀末から20世紀初めにかけて、資本主義の高度化が進むなかで、社会的・経済的不平等が拡大し、労働者・農民の苦しい生活を生み出した。そこで国家の社会政策・経済政策によって問題の解決が図られることになった——と。

ところがこの公式見解は、虚構でしかない。後半生を英国で暮らしたカール・マルクスは、資本主義が進展するほど貧困者をますます貧しくし、革命をもたらすと考えた。しかし1883年にマルクスが死んだとき、平均的な英国人は、マルクスの生まれた1818年より3倍も豊かになっていた。1900年には、英国の極貧者数は四分の三も低下しており、人口の10%ほどになっていた(ヨハン・ノルベリ『進歩』)。

マルクスの予言に反し、英国をはじめとする西欧諸国で社会主義革命は起こらなかった。資本主義によって貧困者は貧しくならず、逆に豊かになったからだ。すると西欧の政治家たちは、豊かになった人々の財産を吸い上げようと、政府の力で人々に安心を与えるという幻想を振りまき、福祉国家という収奪装置を築いた。

公式見解はこうした真実を語らない。福祉国家の提供する医療、年金、介護サービスが、自由な資本主義よりいかに劣悪な代物でも、いやだからこそ、資本主義の悪を国家が正すという偽りの物語を、政府は学校教育やメディアを通じて国民に刷り込み続けるのだ。

2021-03-25

経済的自由の復権

John Ingram | The Egg Merchant | The Metropolitan Museum of Art

財産権、職業選択の自由、営業の自由といった経済的自由は、憲法が保障する他の人権に比べ、保護される度合いが小さい。職業選択の自由などを保障した日本国憲法22条の条文には「公共の福祉に反しない限り」という但し書きがあるし、財産権を定めた29条も、財産権の内容については「公共の福祉に適合するやうに」法律でこれを定めるとしている。

日本国憲法で、人権の制約根拠である「公共の福祉」という言葉が登場するのは、一般論を述べた条文を除けば、経済的自由に関する上記二つの条文だけだ。つまり経済的自由は憲法の条文からして、他の権利よりも容易に制限されうる、もろい人権ということだ。

けれども憲法の歴史上、最初からそうではなかった。近代的憲法原理を確立したとされるフランス人権宣言(1789年)で、財産権は「不可侵かつ神聖な権利」(17条)とされた。

ところが19世紀後半から20世紀にかけて、財産権はそもそも社会的に制約された、法律による広汎な規制に服する権利と言われるようになる。ドイツのワイマール憲法(1919年)では、財産権は「義務を伴い、その行使は、同時に公共の福祉に役立つべきである」(153条3項)とされた。このワイマール憲法の考えを日本国憲法も引き継いでいる。

フランス人権宣言から百年余りで、財産権が神聖でも不可侵でもなくなった背景には、社会主義・国家主義の台頭がある。財産権を公共の福祉の名の下に初めて制限したワイマール憲法の制定からさらに百年がたち、経済の自由に対する制限を誰もが当然と思うようにさえなった。

コロナ対応を錦の御旗に、一片の命令によって人々の営みがいともたやすく制限される状況をおかしいと思うのなら、長らく蹂躙されてきた経済的自由の復権を目指さなければならない。

2021-03-24

無視された自由

Joachim Beuckelaer | Fish Market | The Metropolitan Museum of Art

東京都からコロナ対応として出された時短営業の命令が「営業の自由を保障した憲法に違反する」などとして、飲食チェーンのグローバルダイニングが都を提訴した。勇気ある行動に拍手を送りたい。

ところが、提訴自体はメディアでも大きく取り上げられたものの、憲法違反が問われたことに対するメディアやネットの注目度は今ひとつだ。それは先日、「同性婚できないのは憲法違反」とした札幌地裁判決に対する異様な盛り上がりと比べれば、一目瞭然だろう。同性婚に対する初の違憲判決が画期的だとしても、温度差が大きすぎる。

その理由は結局のところ、営業の自由をはじめとする経済的自由が、憲法論議においていつも置き去りにされている、「二流の自由」だからだろう。護憲勢力が熱心に擁護するのは、9条で定める平和主義のほか、25条の生存権、21条の表現の自由、24条の婚姻の自由あたりだ。

これに対し22条で定める職業選択の自由や、29条の財産権は、それらから導かれる営業の自由とともに、冷たく無視されている。毎年、5月3日の憲法記念日に市民団体が開く集会で、「平和を守れ!」とは叫ばれるのに、「財産権を守れ!」というプラカードや横断幕など見たことがない。

これはもちろん、護憲勢力の中心が左翼だからだ。左翼から見れば、経済的自由は資本家に都合の良い自由にすぎず、本音では守るどころか潰したいと思っている。じつは右翼も、その点ではたいして変わらない。

グローバルダイニングの提訴が、経済的自由の重要性を再認識するきっかけになることを祈りたい。ただでさえないがしろにされてきた経済的自由がこれ以上侵されれば、それ以外の自由もやがて音を立てて崩れ去るだろう。

2021-03-21

豊臣秀吉の「大東亜戦争」〜その重い教訓とは


1592年(文禄元)4月、豊臣秀吉に朝鮮侵攻を命じられた十五万余りの大軍が釜山に上陸した。1597年(慶長2)から十四万余りの兵を送って行われた二度目の攻撃とあわせ、文禄・慶長の役という。

足かけ七年に及ぶ日本軍の朝鮮侵略は、朝鮮では壬辰・丁酉倭乱(じんしん・ていゆうわらん)と呼ばれ、朝鮮の人々を戦火に巻き込み、多くの被害を与えた。日本では庶民的な英雄として今なお人気の高い秀吉は、韓国ではプンシンスギル(豊臣秀吉)として、日韓併合の立役者とみなされる伊藤博文(イドンバンムン)と並び、憎むべき日本人の代表格とされる。

一方、日本国内では、文禄・慶長の役は膨大な戦費と兵力を無駄に費やした結果となり、豊臣政権を衰退させる原因となった。

歴史家の間では、文禄・慶長の役と、近代日本が行った大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)との類似性が指摘される。最近は、秀吉の朝鮮出兵は自衛戦争だったという擁護論も聞かれ、そんなところも大東亜戦争と似ている。秀吉の「大東亜戦争」の経緯をたどり、その教訓を探ってみよう。

織田信長の後を継いで全国統一に乗り出した秀吉は、敵やライバルを次々に破る。1585年(天正13)、朝廷から関白に任じられると、互いに争っていた戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定を秀吉の決定に任せることを強制した。これによって大名から百姓に至るまで、すべての階層で合戦・私闘が禁じられ、戦国の世も終息に向かったので、この命令を豊臣平和令ともいう。

しかし、武力によって実現した平和はもろさを抱える。敵から奪ったものを味方に恩賞として与え続けなければ、不満から離反にあう恐れがあるからだ。皮肉なことに、全国統一が進み平和が訪れるにつれ、敵が減るから、与える土地も減っていく。それを解決するには、外国を侵略し、新たな領土を獲得するしかない。

秀吉がまだ全国統一の途上にあった1585年。子飼いの武将、加藤光泰(作内)が自分の家臣への知行(俸禄)を秀吉の土地からも捻出したいと申し出たのを、さしでがましいことだと譴責し、「作内(光泰)ためには、秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国(中国)まで仰せ付けらる(征服する)心に候か」と述べた。家臣団の知行増加を求める動きを、海外制覇によって解決しようとする構想が、ここに早くも見られる(北島万次『秀吉の朝鮮侵略』)。

1587年(天正15)、秀吉は対馬の宗氏を通して、朝鮮に対し服属と明(中国)出兵の先導とを求めた。交易上、朝鮮と密接な関係にあった宗氏は、朝鮮国王に依頼し、秀吉の日本統一を祝賀する使節を派遣させることでごまかそうとする。使節の来訪を受けた秀吉は朝鮮が服属したと思い込み、朝鮮政府に宛てた返書で「わが望みは三国(日本・朝鮮・中国)に名をとどろかすことだ」と宣言する。

武将の多くが出兵に危惧の念を抱いていたにもかかわらず、秀吉の弟、秀長らごく一部を除き、あえて反対の意見を唱える者はおらず、征服戦争へとなだれこんでいく。「この開戦へのなだれこみ方は、太平洋戦争の開戦前夜といかにもよく似ている」と比較文学者の上垣外憲一氏は述べる。

1591年(天正19)、秀吉は肥前名護屋(佐賀県唐津市)で築城に着手し、およそ五カ月で造り上げた。名護屋城の規模は総面積およそ十七万平方メートルという巨大なもので、大坂城に次ぐ規模だった。本城から半径三キロの範囲に、全国の諸大名を集めて陣屋を構えさせた。日本史上例を見ない一大軍事拠点である。商人や職人が名護屋に集まり、全国から膨大な物資が運び込まれた。

1592年4月、冒頭で述べたように、日本の大軍が釜山に上陸。それからわずか二十日ほどで日本軍は朝鮮の王都、漢城(ソウル)を占領した。5月3日の明け方、小西行長率いる第一軍は東大門から、加藤清正率いる第二軍は別ルートを通って南大門から、ソウルに入城した。

名護屋で勝報に接した秀吉は有頂天の極みに達し、明征服後のマスタープランを明らかにする。①後陽成天皇を北京に移し都周辺の十カ国を料所とする。姉の子で養子の秀次を大唐関白として都周辺の百カ国を渡す。②日本帝位は良仁親王・智仁親王のいずれでもよい。日本関白は羽柴秀保・宇喜多秀家のいずれかとする。③高麗は羽柴秀勝か宇喜多秀家に支配させる。④秀吉自身は寧波に居所を定める。

中国を中心とする世界システムを丸ごと呑み込んでしまおう、できれば天竺(インド)まで切り取ろう、という壮大な構想である。その背景には、武力に優れた日本が、文弱の中国や朝鮮に負けるはずがないという「軍事力に寄せる絶大な信頼」があったと、東京大学名誉教授の村井章介氏は指摘する(『世界史のなかの戦国日本』)。

こうして始まった戦争は、緒戦の快進撃もつかのま、朝鮮各地での義兵決起や李舜臣による日本水軍の撃破、明軍の参戦によって泥沼化。疲弊した日本兵の投降も相次ぎ、劣勢となっていく。一時休戦後の慶長の役では日本軍は最初から苦戦し、1598年(慶長3)、秀吉の死去に伴う日本軍の撤退によって終了した。この失敗は豊臣政権の命取りとなり、わずか二年後には関ケ原で西軍が大敗する。

一方、勝利した明にとっても、戦争による人的・経済的損失は大きく、国運が傾いた。中国東北地方の女真族がヌルハチに率いられて強大となり、これを抑える軍事費がかさむなどして国力が衰亡。やがて女真族の王朝である清に取って代わられる。

秀吉が失敗した中国征服に、ヌルハチはなぜ成功したのか。ヌルハチは毛皮などの交易を通じて明の辺境官僚と接触する経験を積んだことに加え、清朝に至っても民族固有の制度と中華帝国の制度を巧みに組み合わせた。一方、秀吉は武力だけに頼り、占領した朝鮮でも日本の統治政策を単純に押し付けた。「異文化のなかで戦うという感覚の欠如が、最大の敗因」と前出の村井章介氏は指摘する(『分裂から天下統一へ』)。

1910年(明治43)8月、韓国併合の夜、韓国総監・寺内正毅は「小早川・加藤・小西が世にあらば、今宵の月をいかに見るらむ」と詠んだ。秀吉の朝鮮出兵で指揮官を務めた小早川秀秋、加藤清正、小西行長の名を並べ、かつて未完に終わった秀吉の「偉業」を今ここに達成したと誇ったのである。

けれども結局、軍事力にものを言わせた大日本帝国のアジア支配は失敗し、むしろ帝国そのものの崩壊を招く。軍国日本は秀吉の重い教訓に学ぶことができなかった。

最後に、インターネットなどで見かける、秀吉の朝鮮出兵は自衛戦争だったという説の是非に触れておこう。この説によれば、朝鮮出兵は、世界征服をもくろむスペインによる明征服を阻止し、朝鮮半島からスペインと配下の明軍が日本に侵略してくるのを防ぐことが目的だったという。

東北大学名誉教授の平川新氏は、和辻哲郎文化賞を受賞した著書『戦国日本と大航海時代 』で、秀吉の朝鮮出兵について「ポルトガルとスペインによる世界征服事業への対応のあらわれだった」と分析。自衛戦争とは呼んでいないが、スペインに日本を武力で征服することの困難さを強く認識させ、武力征服の断念につながったと評価する。

けれども、実際に日本がスペインに攻められたわけではない。かりに朝鮮出兵の背景にスペインに対抗する意図があり、結果的にスペインの侵略を防ぐ効果があったとしても、無関係な朝鮮の人々に与えた甚大な損害が正当化されるわけではない。平川氏も、出兵は「朝鮮側からすれば、一方的な侵略にほかならない」と述べている。

秀吉が恐れたというスペイン自身、過剰な軍備拡張がたたって国家破産に追い込まれ、自滅の道をたどった。その意味でも、秀吉の「大東亜戦争」は壮大な無駄だったのである。

<参考文献>
  • 北島万次『秀吉の朝鮮侵略』(日本史リブレット)山川出版社
  • 上垣外憲一『文禄・慶長の役―空虚なる御陣』講談社学術文庫
  • 村井章介『世界史のなかの戦国日本』ちくま学芸文庫
  • 村井章介『分裂から天下統一へ』(シリーズ日本中世史)岩波新書
  • 平川新『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』中公新書

2021-03-20

リバタリアンの外交政策

属国にされたら
まったく深刻な事態だ。もし日本が中国の属国にされたらどうなる。国の中に軍事基地を置かれ、国民が維持費を払わされ、住宅密集地で危険な離着陸訓練を繰り返され、騒音に苦しめられ、中国兵が犯罪を行っても逮捕・訴追できない。なんだ、今とたいして変わらないじゃないか。

上には上がある
中国がウイグル人を無理やり洗脳しているのが事実だとしよう。それをナチスのホロコーストと同じジェノサイドという言葉で呼ぶのも許されるとしよう。それでも米国が行ったインディアンの虐殺という正真正銘のジェノサイドに比べれば、足元にも及ばない。上には上があるのだ。

リバタリアンの外交政策
リバタリアン(自由主義者)の立場は政府権力をできるだけ小さくすることであり、孤立主義はその外交関係における完全な表現である。介入主義は孤立主義の対極にある。政府権力が国境を越えて他国を侵し、他国の人々を支配しようとすれば戦争に至る。これは自国民の権利侵害と一対である。(経済学者、マレー・ロスバード)

米国外交の伝統
米外交における孤立主義の古典的な表明は1796年9月、初代大統領ジョージ・ワシントンの退任演説だ。「わが国の外交に関する偉大な行動規範は、通商関係を拡大し、政治的つながりを少なくすることだ。世界のいかなる国とも永続的な同盟は避けなければならない」と彼は述べた。(著作家、ビル・カウフマン)

America First! Its History, Culture, and Politics (English Edition)

2021-03-19

暴君が栄える理由

権利蹂躙の命令
「経営が厳しく、手塩にかけた従業員が辞めてしまうことも耐えられない」とグローバルダイニングの長谷川社長がまっとうで勇気ある発言。営業の自由や財産権を踏みにじる暴挙。一部の店舗だけを狙い撃つ方法にも疑問。いつも憲法を守れと叫ぶ学者や評論家は何をしているのか。

コロナ対策の人権侵害
フリーダム・ハウスの調べによると、コロナ拡大後、八十カ国で民主主義と人権の状況が悪化している。政府関係者は国民の安全を守るためなら必要な権力をすべて行使する資格があるという前提によって、権力の濫用が増大。百カ国近くで言論と出版の自由に対して規制が強化された。(著作家、ジェームズ・ボヴァード)

生活支配の権力
バイデン大統領は、団結してコロナ予防策を取れば七月四日の独立記念日には正常に近づくと述べた。冬が終わり感染は消えつつあるのに、生活を支配する権力を手放す気はない。四カ月も家族の小さな集まりしか許さないとは、独立革命時の英国の暴君ジョージ三世が慈悲深く見える。(元米下院議員、ロン・ポール)

暴君が栄える理由
なぜ国全体が暴君の手に落ちてしまうのか? シェイクスピアが示唆した答えは、周囲の人々の自滅だという。純粋に暴君に騙される人々。尋常でないことを尋常なこととして受け容れてしまう人々。そして面倒を避けたいがために、いやいやながらも暴君の命令に従う雑多な群衆。

暴君――シェイクスピアの政治学 (岩波新書)

2021-03-18

国家のお墨付き?


国家のお墨付き?
「結婚の平等へ大きな一歩」と喜び合う同性カップルの原告たち。気持ちはわかる。でも、そもそも本人どうしの「合意のみに基いて成立」(憲法24条)するはずの結婚に、国家のお墨付きを得なければならないのがおかしい。戸籍を廃止しよう。結婚の平等ではなく、結婚の自由を。

家族の絆
結婚に国家のお墨付きが必要だから、こんなくだらない騒ぎも起こる。同姓でも別姓でも自由にすればいい。「家族の絆や一体感を危うくしてしまう」と自民主導で保守色にじむ意見書。家族を危うくするのは姓の決め方なんかじゃない。戦後、自民党が膨張させてきた福祉国家だ。

結婚は慣習法で
16世紀になるまで、欧州のキリスト教国では正当な結婚は教会や政府の許可ではなく、カップルの意思に基づくと定義されてきた。米国では19世紀半ばまで、同居が世間に知られていれば正当な結婚とみなされた。しかしその後、米政府は慣習法による結婚を無効とし、管理を強めた。(歴史家、ステファニー・クーンツ)

政府は結婚に関わるな
米国法の伝統では、自由とは政府に何かを求める資格ではなく、政府の行為からの自由と理解されてきた。政府は人々が結ぶ契約を妨げてはならない。政府が結婚に介入して以来、やってきたのはおなじみのことだ。課税し、規制し、定義をいじる。案の定、良くなった点は何もない。(米上院議員、ランド・ポール)

2021-03-17

汝奪うなかれ


汝奪うなかれ
フランシスコ教皇は政府による富の再分配強化を求める。だが再分配で社会の気遣いや人々の同情心を育むことはできない。むしろ集団と集団とを争わせ、社会構造を破壊し、不調和と依存の文化を生む。真の思いやりは自発的な慈善であり、人の金を奪って他に与えることではない。(ザ・ヒル)

他人の金で善行
総理が切った次のカード。困窮家庭のほか、自殺相談の民間団体に支援も。財源は予備費から5000億円超。喝采する人、不満な人、いろいろだろう。でも覚えておいたほうがいい。この対策費、菅さんの金じゃない。国民の金だ。人を助けるために別の人から金を奪えば、憎悪を生む。

国家に期待するな
誰もがいつ「国家から切り捨てられる側になるかわからない」と危ぶむ柳美里さん。でも知っておいたほうがいい。国家は優しいボランティアじゃない。弱い人を助ける気など、はなからない。助けるふりをするのは、国民から多くの金を巻き上げるため。弱者は都合次第でお払い箱。

国家によらない福祉
1920年代米国では男性の少なくとも三人に一人が民間の共済組合に加入し、計九十億ドル以上の生命保険に入っていた。失業保険も充実していた。組合員の医療費は安く、二ドル(ほぼ日給分)払えば一年間、医師に軽い手術も含め治療してもらえた。非組合員だと一度の診察で二ドルだ。(ミーゼス研究所)

2021-03-16

財源のないユートピア


財源のないユートピア
フルタイムの仕事への転職は進むわ、心身ともに健康になるわ、タバコや酒に走る人はほとんどいないわ、良いことずくめ。でも一つだけ心配が。社会実験の資金はフェイスブック共同創業者らの個人寄付でまかなわれたとか。本番が税金なら、この町に来たがる金持ちはいないかも。

雇う身になってみて
ベーシックインカム(UBI)懐疑論をきちんと紹介。不快でストレスの多い仕事には大幅に高い賃金が要求されそう。労働者はハッピーでも、雇う企業にはコストの上昇。困った企業が生産拠点を海外に移せば、財源の税収が失われ、制度が瓦解する。UBI支持者は人を雇う立場になって考えたことがないようだ。

不効率の利点
ベーシックインカムを導入すれば、複雑な福祉制度が効率的になるからと勧める人がいる。とんでもない。今の福祉制度をなんとか辛抱できるのは、不効率だからだ。給付を受けるには煩雑なお役所手続きを踏む必要がある。おかげで制度を利用する気が失せ、納税者は守られている。(経済教育財団)

インフレに弱い制度
ベーシックインカムの財源確保のために企業や富裕層に増税すれば、職業訓練などへの投資が減り、労働者の能力が低下する恐れがある。また、家庭は目先は収入増で助かっても、都市部の地価上昇で生活費が増えれば、給付金がそれに連動しない限り、数年で生活には足りなくなる。(経済教育財団)

2021-03-15

打つ手なし


打つ手なし
「もう打つ手がない」から解除するという無茶苦茶な理屈には誰もがあきれるが、権力者は決して反省しないだろう。彼らは無能なくせに、いや無能だからこそ、人々が自主的な創意工夫で困難を克服することに我慢ならない。すぐにまた何か理由をつけて自由を縛ろうとするだろう。

競争に還れ
古くから自由開業を基盤としてきた日本の病院。戦後の規制で非営利を強いられ、民間病院は株式による資金調達が許されず、中小規模にとどまる。病床不足の興味深い歴史的背景。筆者は「競争よりも協調」をと述べるが、むしろ自由競争の伝統に立ち返ることが、医療再生への道。

経済封鎖の害悪
多数の調査によれば、ロックダウン(都市封鎖)でコロナ死は防げない。だが多くの州政府は攻撃的で憲法違反の対策で経済封鎖を強い、子供を学校から追い出し、家族を分断、散歩や屋外での遊びさえ妨げた。案の定、結果は病気より悪い。自殺や家庭内暴力が増え、経済格差と貧困が拡大した。(経済教育財団)

ゼロリスクの幻想
コロナ対策で最大のコストは、政府はゼロリスク社会の実現のために何でもできるし、しなければならないと国民に信じさせたことだ。実際にはゼロリスク社会の実現など不可能だし、それを試みるコストは、物質的資源の面においても人々の自由を奪う面においても甚大である。(経済学者、ベロニク・ドルジ)

2021-03-14

政府の期待する報道


政府の期待する報道
「ワクチンに関して、メディアにどのような報道を期待していますか?」とは、まるで御用聞き。「リスクとベネフィットを的確に伝える」ことが必要だと言いながら、前後のインタビューを含め、ワクチンのリスクに対する突っ込んだ質問はなし。それでも、大手メディアの報道洪水に比べればかわいいもの。

米メディアの忖度
日本でありがたがられる米名門メディア。その堕落した正体を完全に露呈。新興・海外勢がクオモ知事の死者数隠蔽を早くから指摘していたのに、民主党への忖度でNYタイムズやワシントン・ポストは沈黙、CNNやMSNBCは礼賛をやめず。体制の一部となったジャーナリズムの醜い末路。

検閲を求める人々
既存メディア企業を脅かすメルマガサービス、サブスタックを体制派の記者やテック大手幹部、大学教授らが攻撃し、配信記事の検閲を求めている。彼らは批判精神に富んだ反体制派が自分たちの覇権にとって危険だと知っている。独立したプラットフォームとその利用者を支えよう。(ジャーナリスト、グレン・グリーンウォルド)

最大の脅威は政府
言論の自由に最も危険なのはテック企業ではなく、政府だ。米民主党が成立を目指す選挙改革法案(HR1)は、オンラインの政治広告への検閲を強化。長たらしい免責でスポンサーの名前や連絡先を示し、候補者公認でないと明記。音声や動画だと10〜15秒もかかり、事実上の妨害だ。(リーズン財団)

2021-03-13

原発行政の腐敗


原発行政の腐敗
原子力規制委のメンバーに原発業界の人間はなれないはずなのに、ルールが有名無実化。再稼働に慎重な委員は排除。政治からの独立性が高いという言葉に説得力なし。行政が政治から独立しうるという幻想を捨てよう。政府は票や金と引き換えに特権を求める者と癒着し、腐敗する。

原発を歪める補助金
原発への補助金は、経済を破壊するグリーンニューディールの夢想よりずっと前に始まった。それは政府がエネルギー市場をゆがめる先駆けとなった。政府が原子力産業に持ち込んだのは、金融業と同じく、影響が全体に及ぶシステミックリスクだ。業界は潤い、国民がリスクを負う。(経済学者、バリー・ブラウンスタイン)

原発は市場競争で
次世代原子炉のベンチャーを率いるゲイツ氏。安全性は「これまでのものとは比較にならないほど高い」と力説。その製品はぜひ、政府を使って押しつけたりせず、自由競争で市場の審判を仰いでほしい。かつてあなたがそうして夢を実現し、人々を喜ばせたことを忘れないでほしい。

個人的には反対
個人的には原発に反対です。しかし気候変動に関する政府間パネル(IPCC)によると、原発はカーボンゼロ達成に向けた大きな新エネルギー戦略で、再生エネルギーの完全な供給が難しい国を中心に、小さな役割を果たせます。たとえきわめて危険だとしても。(環境活動家グレタ・トゥンベリさん、2019年)

2021-03-12

公共事業の無責任


公共事業の無責任
住宅も企業もない場所にも築く宮城県気仙沼市の防潮堤。便益をコストが上回るとの試算を無視。復興資金が100%国の歳出で、使いきることを優先。「資金の費用対効果に誰も責任をとらないという仕組み」。この地元市議のコメントが、公共事業の無駄と無責任のすべてを物語る。

政府支出の機会費用
政府支出で新しい橋や道路を過疎地に造って得られる利便の大きさは、不明か仮定のもの。お金を民間で使えば得られる利便(機会費用)との比較もされない。橋を造れば雇用を生み、人々も利用できる。けれどその事業をやらなかったら、納税者や労働者は別のことができたはずだ。(ミーゼス研究所編集主任、ライアン・マクメイケン)

国はインフラから手を引け
州や市町村が自分で公共事業にお金を出せば、無駄な事業を避けようとする。けれども国が払うと、無駄遣いにまっしぐらだ。だから地方分権を進め、国の権限を小さくしよう。立派なインフラを整えたければ、補助金と規制を減らし、国の支配を排除した本当の民営化を進めよう。(エコノミスト、ダニエル・ミッチェル)

財政出動の中身
バイデン大統領の2兆ドル近いコロナ対策のうち、コロナに直接関係あるのは1000億〜1600億ドルにすぎない。一方、少なくとも3500億ドルは、州や自治体が税収不足に陥っていないのに、その支援に充てられる。860億ドルはコロナとまったく無関係な労働組合の年金救済に投じる。(経済教育財団)

2021-03-11

陰謀論という真実

陰謀論という真実
筆者によれば、陰謀論とは「誰かが裏で世の中を操っている」と考える思考。しかしそれ自体は異常でも何でもない。「米政府はイラクに大量破壊兵器があると嘘をつき、国民を操ろうとしている」などと言えば、陰謀論呼ばわりされただろうし、実際された。でもそれは事実だった。

政治と陰謀論
国会が外国製鉄鋼への関税を引き上げる法律を成立させたら、国内鉄鋼業界がロビイストを動かしたと誰もが思う。その見方を「陰謀論」と呼んだりはしない。陰謀論はそれをより複雑な事柄に広げるにすぎない。公共事業、政府委員会の設立、中央銀行の創設、戦争への参加などだ。(経済学者、マレー・ロスバード)

もし事実だったら?
家族や友人が流言やデマを信じ込んでいる場合、どうすればいいかと問われ、「(家族や友人と)同じアカウントでさまざまな動画を再生することで、自動表示される“おすすめ”を変えてみる」と荻上チキさん。プライバシーも気になるけれど、もしデマが事実だったらどうするの?

本当にあった陰謀
「政府が何も知らない市民に薬物を投与し、洗脳実験を行なった」などと言ったら、たちまち陰謀論としてソーシャルメディアから締め出されるだろう。しかしこれは事実だ。MKウルトラ計画と呼ばれる米政府の犯罪が、このドキュメンタリーで描かれる。二度と起きない保証はない。

2021-03-10

差別は市場が解決

差別は市場が解決
森発言のせいで、「女性は話が長いのなら採用をやめよう」という「ガラスの天井」を生むと心配し、憤る鴻上さん。大丈夫。女性がまじめな働き手なら、採用をやめた会社はせっかくの貴重な人材をみすます失い、競争が不利になる。叱る労力がもったいない。ほっときましょう。

男女賃金格差の理由
ハーバード大学の経済学者によると、男女の賃金格差は完全に、男女の選択の違いに基づく。同じ職場でも、女性は男性より多くの無給休暇を取り、残業時間が少ない。男性より時間と融通性を大事にするからだ。扶養家族のある女性は扶養家族のある男性より仕事を早く切り上げる。(ミーゼス研究所編集主任、ライアン・マクメイケン)

同一労働同一賃金の意味
20世紀初め、女性の労働に対する規制は、産めよ増やせよの優生学的な理由からだった。当時の賢明なフェミニストは「同一労働同一賃金」を合言葉に規制廃止を求め、市場経済の力で男性並みの賃金を得ようとした。政府に同一賃金の強制を求めるのは、言葉の元来の意味に反する。(著作家、ジェフリー・タッカー)

政治はくだらない
このみごとなドラマで主人公ベスは政府に対し、チェスの上位者は女が少ないから法律で増やせと要求などしない。参加自由な大会で、自力で勝ち抜いていく。ソ連大会で共産主義を批判しろという支援団体の要求を「くだらない」と拒んだように、フェミニズムの声明も断るだろう。

2021-03-09

環境主義の偽善

物語 東ドイツの歴史-分断国家の挑戦と挫折 (中公新書)

環境主義の偽善
過激環境団体エクスティンクション・レベリオンが展開するキャンペーン。布のごみを集めて服を作るのはかえってエネルギーを食うかもしれないし、割高になるかもしれない。資本主義を批判するけれど、自分の写真を共有したスマホやソーシャルメディアは資本主義が生んだもの。

科学は規範ではない
科学は事実だけを述べ、規範は述べない。何をするべきか述べることはできない。酒を飲むと病気になりやすいとは言えても、だから禁酒せよとは言えない。ある人が健康よりも酒の楽しみを取れば、飲み続けるだろう。この選択は「反科学的」ではない。単に主観的な好みの結果だ。(ミーゼス研究所)

環境レーニン主義の脅威
スウェーデンの人類生態学者マルムは、コロナと気候変動を利用して世界に社会主義革命を起こせとこう述べる。「カーボンゼロの達成には制裁や命令が必要だ。エコロジー・レーニン主義はあらゆる機会をとらえ、大惨事に向かう経済を政府に直接支配させる」。ついていけない。(哲学者、デビッド・ゴードン)

社会主義の環境破壊
資本主義は環境を破壊すると非難される。しかし社会主義になったら、状況はむしろ悪化するだろう。本書によれば、東ドイツでは褐炭ストーブからの煤煙の排出や化学コンビナートからの汚染の垂れ流しで環境が破壊された。環境保護団体は秘密警察シュタージの家宅捜索を受けた。

2021-03-08

真のショック・ドクトリン


真のショック・ドクトリン
「創造的復興」の美名の下、インフラ偏重で空費された十年。原発もコロナも同じ。政府にとって重要なのは、問題の解決ではなく、問題を利権拡大に利用すること。ショック・ドクトリンとは火事場泥棒資本主義のことだと言うけれど、とんでもない。火事場泥棒国家主義のことだ。

コロナ危機の本質
もし医療崩壊が、日本医師会会長が定義したように、適切な医療が適切なタイミングで受けられないことだとすれば、以前から3時間待ちで3分の診療と揶揄される日本の大学病院だって医療崩壊のはず、と外科医の大木隆生氏が鋭い批判。コロナ危機の本質は硬直した医療体制だ。

お気楽な宗教
ロックダウン(都市封鎖)など政府の滅茶苦茶なコロナ対策は、通信技術が発達した今だから何とか耐えられる。人々がコロナ対策の宗教を信じるのは、自分の仕事が無事なうちだけだ。その程度の薄い信仰心でしかない。二十年前や百年前なら、人々はこれほどお気楽ではいられなかっただろう。(ジャーナリスト、ジョン・タムニー)

恐怖の原因
今議論となっているのは、経済活動が縮小する原因として、自発的な行動とロックダウンの強制でどれくらいの違いがあるかだ。コロナへの恐怖心は、政府が劇的なロックダウンを行うという事実そのものによって煽られる。実際にも、経済の打撃の多くはロックダウン自体が原因だ。(経済学者、ドナルド・ブドロー)

2021-03-07

清の栄光と小さな政府

「中国」の形成 現代への展望 (シリーズ 中国の歴史)

世界経済の歴史をたどると、ひとつの法則があることに気づく。市場経済に対する規制や課税の少ない「小さな政府」の国は繁栄するということだ。古代ローマ帝国がそうだし、アッバース朝やオスマン帝国などのイスラム帝国もそうだった。

中国史上、最後を飾る王朝となった清もその最盛期、小さな政府によって空前の繁栄を享受した。その賢明な統治は、満洲族の建てた征服王朝であるという強い自覚から生まれたものだった。

満洲(満州)は文殊菩薩(マンジュシュリ)が語源とされ、それまでの女真に代わって民族名とされた。のちに彼らの原住地である中国東北部を指す地域名としても用いられるようになる。

16世紀に明との貿易による利益で台頭した満洲人の後金は清へ発展し、17世紀には明に代わって中国を支配するとともに、モンゴルを押さえてチベット仏教世界の盟主となった。北京を都とし、康熙・雍正・乾隆の3代の皇帝の時代に最盛期を迎える。

清はきわめて大きな版図と、多様な人々を抱える帝国だった。満洲人に漢人、モンゴル人もいればチベット人もいて、東トルキスタンのムスリム(イスラム教徒)も加わった。それを清朝の皇帝がすべて統治するという形だった。

その際、清朝は各地域に特定の統治原理を押しつけず、その土地の習俗・慣例に即して統治した。こうした方法を漢語で「因俗而治(俗に因〔よ〕りて治む)」と言う。現状をあるがままに追認し、不都合のない限り、統制も干渉も加えようとしなかった。

満洲人は、人口で漢人やモンゴルなどに劣る自らの非力な立場をよくわきまえていた。その自覚が各地の自治を尊重する「因俗而治」の統治を選ばせた。結果として「多元化した東アジア全域に君臨しうる資質を生み出したばかりか、清朝そのものに三百年の長命を与えた」と京都府立大学教授の岡本隆司氏は指摘する(『「中国」の形成』)。

清帝国は周辺国との関係でも、明朝時代のありようを踏襲しつつ、より円滑になるよう配慮した。前代の明朝は、「北虜南倭」と呼ばれる遊牧民や倭寇(後期倭寇)の侵入に悩まされた。これは、どれほど禁止しても遊牧民や倭寇との貿易が旺盛だったことを意味する。

そこで清朝は貿易を禁圧することなく、現実を追認し、むしろ促進できるように制度を整える。民間商船の出航と外国商船の来航を認めて各貿易港の税関に管理させる「互市貿易」である。1757年以降は広州を入港地に指定し、公行(コホン=特許承認の組合)を通じて貿易させた。

貿易の拡大は、清の経済を繁栄に導く。東南アジアとの貿易も活発だったが、最もインパクトが大きかったのは西洋との貿易である。

互市貿易のスタートとほぼ同時期、主として広州に来て貿易を営み始めたのが、英国など西洋諸国の貿易商人である。当初その量は小さかったが、18世紀も後半に入ると、西洋からの商人がおびただしく中国を訪れ、急速に購買を増やしていく。

西洋商人が買い付ける商品は生糸や陶磁器など中国の特産品であり、とりわけ脚光を浴びたのは茶だった。欧米では産業革命を始動していた英国を中心に、喫茶の習慣が定着しつつあった。茶は当時、世界でほぼ中国にしかできない。そのため中国茶の輸入は右肩上がりで伸びていった。

統治の安定と経済の発展の下で人口が急増し、18世紀半ばには漢人だけで3億人と前世紀の3倍に達した。その背景には荒れ地、産地でも栽培できるとうもろこし、さつまいもなどアメリカ大陸原産作物の普及があった。人口増とともに海外への移住が増加し、東南アジア各地で華僑社会が形成された。

一方で政府は、財政の無駄削減と税負担の軽減に努めた。中国歴代最高の名君の一人といわれる康熙帝は、宮廷費用の節約を図り、これを明代の十分の一に切り詰めた。巡幸の費用も宮廷の内帑金(ないどきん)で賄った。帝は大規模な遠征軍をたびたび出したが、その軍事費のための増税は行わず、しばしば減税を命じた(増井経夫『大清帝国』)。

とくに注目されるのは、即位五十周年を記念して施行された「永不加賦(えいふかふ)の制」である。国家の安定と国庫の充実を自負し、前年の壮丁男子の人口2462万を定数とし、それ以降増加したものは永久に人頭税をかけないこととした。これによって人頭税が消滅し、課税が土地に一本化される。それまで税を逃れるために隠れていた人々が表に出てきたことも、人口急増の一因とみられる。

人口の大幅増にもかかわらず、財政の規模は小さいままだった。1766年(乾隆31年)の歳出は3460万両と小規模で、半分以上を軍事費が占める。しかも歳入は4500万両余りなので、収支はかなりの黒字だった。前出の岡本氏は「驚くべき『小さな政府(チープ・ガバメント)』」だと述べる(『近代中国史』)

きわめて小さな政府でも支障がなかったのは、行政がもともと民間の社会・経済にあまり関わっていなかったからだ。医療、介護、救貧など現代では行政の業務とされる事柄の多くは、民間が緩やかな組織を独自に結んで営んでいた。

財政の抑制で役人や軍人の給与は安く、それをカバーするため汚職が横行したと、小さな政府のマイナス面を指摘する声もある。しかし庶民からしてみれば、役人や軍人に払う賄賂が税金より安くつくのであれば、そのほうが得だ。

経済繁栄のあだ花である、成金趣味に眉をひそめる向きもある。中国一の奢侈の都といわれた揚州では、バブル時代の日本を思わせるさまざまな贅沢三昧が伝えられる。

揚州では冠婚葬祭、家屋、飲食、衣服、乗り物などに数十万の金を費やすことが珍しくなかった。ある人は一万の大金を一時に使い果たしてしまいたいと考え、その金で全部金箔を買い込み、塔の上から風に飛ばした。ある人は高さ五、六尺もある銅の溲瓶(しびん)をつくり、夜中尿意を催すとわざわざ上って用を足したという(岡田英弘他『紫禁城の栄光』)。

たしかに、良い趣味とは言えない。しかしその一方で、自ら高尚な学問や芸術を楽しむとともに、学者や芸術家のパトロンとして文化に大きな役割を果たした者も少なくなかった。古典の解釈を実証的に行う考証学は、揚州の富豪たちの大きな財力によって発達した学問で、江戸時代の日本にも影響を与えた。

けれども繁栄の背後には、衰退の影も忍び寄っていた。欧米から大量に流れ込んだ銀が中国全土で物価騰貴を引き起こし、食糧暴動が頻発するに至る。社会不安の高まりを背景に世界の終末を唱える白蓮教徒の反乱が起こり、土地税の減免を求める土地所有者の運動も激しくなる。清朝は多額の費用を使って鎮圧にあたり、それが財政を圧迫した。

過去に繁栄を誇った国々の例に漏れず、清帝国もやがて衰え、最後は滅亡した。それでも民間の自由を尊重することでもたらされたその栄光は、歴史に長く刻まれるだろう。

<参考文献>
岡本隆司『「中国」の形成 現代への展望』(シリーズ 中国の歴史)岩波新書
岡本隆司『近代中国史』ちくま新書
増井経夫『大清帝国』講談社学術文庫
岡田英弘・神田信夫・松村潤『紫禁城の栄光―明・清全史』講談社学術文庫
岸本美緒・宮嶋博史『明清と李朝の時代』(世界の歴史)中公文庫

(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

2021-03-06

われら半奴隷


われら半奴隷
国民負担率が軽くなったと思わせるカラクリ。財務省が楽観的すぎる見通しを発表し、メディアが垂れ流す。実績ベースでは46.1%に急上昇して過去最高に。所得の半分近くを召し上げられるとは、われら日本人、立派な半奴隷。ウイグル族なんてほっとけよ。強制労働はここにある。

巨大な盗み
政府だけがその収入を強制によって手に入れる。それは課税として知られる。昔は年貢と呼ばれた。課税は純粋かつ単純な盗みである。たとえどんな大泥棒もかなわない、巨大きわまる規模の盗みであっても。それは国家の住民、すなわち国民の財産を強制的に没収することである。(経済学者、マレー・ロスバード)

MMTとは要するに
政府は通貨を発行する能力があるという点において、企業や家計とは決定的に異なると中野氏。それは正しい。でも、違いはそれだけじゃない。政府は税を取ることができる。通貨の発行はインフレ税という一種の税。つまりMMT(現代貨幣理論)とは、政府は税を取れると言っているにすぎない。

通貨はどこで生まれるか
MMTの主張とは反対に、通貨の本質は政府への税の支払いとは何の関係もない。通貨は、政府の命令や全市民による何らかの社会契約で創造されることはないし、創造することもできない。通貨はいつでも、自由な市場経済の働きによって創造されなければならない。(エコノミスト、フランク・ショスタク)

2021-03-05

すべては勝つために

ギリシャ神話集 (講談社学術文庫)

すべては勝つために
政治家の仕事は政策じゃない。政局だ。次の選挙で勝つこと、それがすべて。前回は知事に先を越されたが、今回は総理の面目を施す。しかも五輪聖火リレーに間に合う絶妙なタイミング。飲食店が苦しんでる? もう少し我慢しなさい。次の支援金のカードをいつ切るか考えるから。

専門家はいなかった
政府の新型コロナ対策分科会には感染症の専門家はいても、医療崩壊を防ぐ制度設計の専門家はいないという、驚きの事実。取材現場で、非常時に必要な指揮命令系統は「今からでも整備が必要」との声を聞いたという。医療体制の整備を待って辛抱したこの半年、一年は何だったの。

何を努力した?
「病床の空き具合は改善しているが、医療従事者の負担が大きくなる重症者が多い」。だから「より厳しい対策を」と医療の専門家。ちょっと待って。現場が大変なのはわかるけど、厚労省や医療業界の偉い人たちは、医療体制の改善にどれだけ努力をしたのか、さっぱりわからない。

どちらに合わせる
ギリシャ神話に出る追いはぎプロクルステスは、背の高い客が来ると小さい寝台に寝かせ、体のはみ出した部分を切り取った。まるでコロナで医療崩壊しそうだと言って、施設や人員を増やすのでなく、暮らしや心を破壊する行動制限で感染をなくそうとする政治家や専門家のように。

2021-03-04

コロナ撲滅の代償


国民を助ける法
「国民の皆さんの命と暮らしを守るために」と菅首相が苦渋の決断。なんとおやさしい。それならいっそ延長の間、税金をすべて無しにしてください。国民は助かるし、政府の皆さんも痛みを分かち合える。なんなら小出しにせず、どーんと年内いっぱいとか。もちろん五輪は無しで。

コロナとワクチン
「因果関係は評価できず」と強調するメディア。「偶発的な事例かもしれない」と専門家。他の病気で死んだとき、たまたまコロナに感染していたケースまでコロナ死に含めてしまうのとは、えらい違い。コロナ死に対して、一度でも「偶発的な事例かもしれない」とコメントしてよ。

経済規制の効果
フロリダ州は旅行先として完全に開かれて人気があるうえ、米国で最も年齢層が高い。にもかかわらず、百万人あたりの入院者と死者は、規制がずっと厳しく年齢層の若いカリフォルニア州よりも少ない。フロリダ州でのスーパーボウル開催後も、感染、入院、死亡は減り続けている。(ミーゼス研究所)

コロナ撲滅の代償
ゼロコロナを主張する人々は明白な真実を見落としている。抑圧的な方策は人間の本性に反し、人間の権利と自由を著しく損なう。もし中国共産党が(本当かどうか疑問だが)コロナウイルスの撲滅をやってのけたとしたら、それは人権侵害を伴う方策によって可能になったのである。(アメリカ経済研究所)

2021-03-03

コロナは儲かる

イソップ寓話集 (岩波文庫)
イソップ寓話集 (岩波文庫)

コロナは儲かる
100兆円を超える過去最大の予算案、衆院で可決。財政悪化に歯止めがかかるどころか、感染症という絶好の口実を得て、糸の切れた凧。与野党そろって、国を憂える顔をしつつ、ここぞとばかりにバラマキに精を出す。いやあコロナは儲かりますな。まだまだ続いてもらわないとね。

コロナ対策の中身
バイデン政権が打ち出した1.9兆ドル(約200兆円)のコロナ対策。しかし中身はコロナとは関係ない交付金や政治案件でいっぱい。農業訓練など農家向け「人種平等」推進に10億ドル。左翼政治団体に渡る「環境正義」に5000万ドル。カリフォルニア州の地下鉄建設に1億1200万ドル。(経済教育財団)

緊急事態の真相
昨春の緊急事態宣言下での都内入院患者数の大幅な下方修正、病床確保数の大幅な上方修正とまったく同じ過ち。しかも特段の発表なしと筆者は厳しく批判。それでも小池知事は緊急事態宣言の解除に難色とは恐れ入る。政治家にとって人々の恐怖心とはそれほどおいしいものらしい。

蛙の末路
支配者がいないことを苦にした蛙たちが、ゼウスに王様を授けてくれと頼む。もらった木ぎれの王様に満足できず、再びねだると、怒ったゼウスは蛇を王にし、蛙たちは食われて死ぬ。コロナ下で独裁者のように振る舞う政治家に喜々として従う人々の末路は、このイソップ寓話の蛙。

2021-03-02

弾劾に値する罪



弾劾に値する罪
米国を攻撃せず脅かしてもいない国に対し議会の承認もなく戦争を始めるのは、真に弾劾に値する罪だ。バイデン大統領はシリア空爆の罪で弾劾されなければならない。トランプもオバマもそうだった。しかし民主党も共和党も、米国を戦争に導く無謀な大統領を弾劾しようとしない。(元米下院議員、ロン・ポール)

シリア人の命
黒人の命も大切だ。アジア人の命も大切だ。目覚めた企業が声を上げる。すばらしい。でもそれならなぜ、バイデン大統領がシリアを空爆した日、「シリアの人々の命も大切だ」と声を上げ、政府に抗議しなかったのか。なぜ #StopBombingSyria のキャンペーンを広げなかったのか。

共産主義のコスト
この先生によれば、保険とは共産主義のようなもの。車に保険をかければ、事故を起こしても保険会社がカバーし、自分は全責任を負わなくても済むから。そこでビジネスにも保険をかければ、損失を心配しなくて済むと提案。ご自由に。保険料がとんでもなく高くなりそうだけど。

ベーシックインカムの脅威
「国民一億総生活保護者化するっていう感じになっちゃうのでは」(白井氏)、「国家によってまさに飼いならされてしまうという危険性をはらんでいる」(的場氏)と、ともにベーシックインカムに健全な懐疑。マルクス主義者のただ一つの長所は、ケインズ主義者でないことだ。