きっかけは今年1月、不妊手術を強制された宮城県の女性が、国を相手に損害賠償を求める初の訴訟を仙台地裁に起こしたことだ。5月には東京、宮城、北海道に住むいずれも70代の男女3人が東京、仙台、札幌の各地裁に提訴。厚生労働省は救済に向けた実態調査を始め、全国の都道府県・市区町村に調査書を配布した。
優生保護法は「不良な子孫の出生を防止」などを目的に、終戦後まもない1948年に施行された。遺伝性の疾患や精神障害、知的障害などと診断され、都道府県の審査会で「適当」とされた場合、本人の同意がなくても不妊手術ができた。1996年に母体保護法に改正されるまで、全国で少なくとも男女1万6475人が不妊手術を強いられたとされる。
マスメディアでも報じられるように、優生保護法の前身は戦時中の1940年に制定された国民優生法で、国民優生法はナチスドイツの断種法(1933年)をモデルとした。このことから、優生保護法とはナチスの人種差別的・軍国主義的な思想が生んだものと思い込む人も少なくないだろう。
しかし、それは正しくない。ナチスの断種法にはさらにルーツがある。20世紀初めの米国である。
人類の遺伝的素質を向上させ、劣悪な遺伝的素質を排除することを目的とした優生学は、19世紀後半、英国の人類学者フランシス・ゴルトンによって提唱された。ゴルトンは進化論で有名なチャールズ・ダーウィンのいとこにあたる。
20世紀に入る頃、優生学は米国に伝わる。当時の米国社会は、急増する移民や農村から都市への人口流入により不安定化していた。こうした社会の変化に脅威を感じたのは、白人の支配層である。変わりゆく国をなんとか自分たちの権益を守るかたちで制御したいという彼らの意向と、新興の学問だった遺伝学とが結びつき、現在の科学的知見からは考えられないような優生保護政策が実践されるに至る。
全米で6~7万人もの人々が不妊手術
米国で優生学を主導したのはハーバード大学出身の生物学者、チャールズ・ダベンポートである。1911年の著作『人種改良学』は大学の教科書として何年にもわたって使用され、翌年には米科学アカデミーの会員となった。鉄鋼王カーネギー、ハリマン家、ロックフェラー家など経済界からも援助を得る。
ダベンポートは米国民のうち最も能力の劣る者を少なくとも下位10%について特定し、彼らに適切な「対策」を施すことで、血統を絶やそうとした。その多くはてんかん患者、知的障害、奇形、ろうあ者、視覚障害者といった人々である。
優生学の広がりとともに、州で強制不妊手術を可能にする断種法が相次ぎ制定される。最初は1907年のインディアナ州で、その後1909年のワシントン州、カリフォルニア州などが続いた。1927年、バック対ベル訴訟で最高裁が強制不妊手術を合憲と判断して以降、実施が急速に増え、全米で6~7万人もの人々が不妊手術を強いられた。ほとんどは女性である。
バック対ベル訴訟で判決文を書いたオリバー・ウェンデル・ホームズ判事は、今も偉大な裁判官として尊敬を集める人物だが、「社会は明白に病弱なものが種として存続することを防止することができる」と判決に記したことはあまり語られない。女性の産む権利を主張した産児制限活動家のマーガレット・サンガーも優生学を強く支持した。
米国から学んだヒトラー
こうした米国の優生学を熱心に研究したのが、のちにドイツの独裁者となるヒトラーである。ヒトラーの人種的偏見は彼自身のものだが、優生学はそれに科学的な装いを施すのにもってこいだった。
ジャーナリストのエドウィン・ブラックによると、ヒトラーはナチスの同僚に向かい、自分が米国優生学の動向にいかに詳しいかを自慢し、こう話した。
「米国のいくつかの州法を興味津々で研究したよ。どう転んでも種族にとって無益有害な子孫しか残さない人間の再生産を防止するんだ」
ヒトラーは1925〜26年に出版した著書『わが闘争』でも、移民排除に乗り出した米国をたたえ、こう記す。
「現時、少なくともよりましな解釈に向かっている微弱傾向が目につく一つの国がある。もちろんこれはわが模範的なドイツ共和国ではなく、アメリカ合衆国である。(略)アメリカ合衆国は、健康上よくない分子が移民することを原則として拒否することによって、ある民族には帰化を全然認めない。すでにアメリカはかすかに、民族主義国家観に特有な観念を知ったのだ」(平野一郎・将積茂訳、角川文庫)
米独の学者間の交流も活発だった。前述した米国のダベンポートは戦前から戦中にかけ、ナチスドイツのさまざまな研究所や出版物と関係があった。米国の学者たちから助言を受けたナチスの優生学者は、ユダヤ人をはじめとする「劣等民族」に対するヒトラーの弾圧に手を貸し、強制不妊手術や安楽死、大量虐殺に関与していく。
ナチスの動きを称賛した米国
こうしたドイツの動きを米国の優生学者は少なくとも当初、批判しなかったどころか、むしろ称賛した。カリフォルニア州ではナチスの宣伝文書を再配布し、研究結果を展示さえした。ドイツで不妊手術が月間5000人を超えた1934年、バージニア州のある病院長は「ドイツにお株を奪われそうだ」と嘆いた。
1940年、ナチスがガス室で多数の障害者を殺害し始めたときでさえ、米優生学協会の幹部は「米国が煮え切らないのに、ドイツは白黒はっきりさせている」と言い放った。
ジャーナリストのアダム・コーエンによると、戦後ナチスの指導者たちが裁かれたニュルンベルク裁判で、あるナチスの幹部は前述したホームズ判事の判決文を引用し、自己弁護した。優生保護を最初に合法としたのは米国の最高裁であるにもかかわらず、なぜ自分たちだけが罪を問われるのかと抗弁したのである。
ナチスの残虐行為が広く知れわたるとともに米国で優生学は支持を失うが、その一方で、州によっては1970年代頃まで断種法は存続し、それに基づく強制不妊手術も行われていた。
優生学がナチスの生んだ特殊な思想だと誤解したままでは、今の日本には縁のない問題だと軽くとらえてしまうだろう。しかし実際にはその根は深い。20世紀初めの米国のように、社会を守るという大義名分の下、日本や世界が再び優生学の熱に浮かされない保証はない。
<参考文献>
Black, Edwin. War Against the Weak: Eugenics and America’s Campaign to Create a Master Race
Cohen, Adam. Imbeciles: The Supreme Court, American Eugenics, and the Sterilization of Carrie Buck
(Business Journal 2018.06.13=連載終了)*筈井利人名義で執筆
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