しかし政治の力で無理に賃金を引き上げると、労働コストの上昇を受けて企業が雇用に慎重になり、労働者は職を得るチャンスが小さくなってしまう。悪くすると、多数の失業者が生じかねない。
政府による賃上げ圧力は経済史上、最悪の事態の一因となったことがある。有名な大恐慌だ。
大恐慌当時、米国の失業率が25%にも達したことはよく知られる。この原因について、当時のハーバート・フーバー大統領が自由放任主義者で、必要な不況対策を何も打たなかったからとよく説明される。しかし昨年10月24日の本連載記事『政府の経済政策で経済悪化いう事実』でも指摘したように、近年、事実は逆であることがわかってきた。
フーバー政権は実際には、さまざまな不況対策を講じた。そしてそれが逆効果となり、経済の自律的な回復を妨げてしまったのである。そうした政策の1つが、賃金決定に対する政府の介入だった。
大恐慌の発端となったニューヨーク株暴落から1カ月後の1929年11月21日、フーバー大統領はホワイトハウスに自動車王ヘンリー・フォードをはじめとする米産業界の大物たちを集め、次のような「過激な提案」を行った。
「賃金は現状を維持しなければならない。(略)産業界は状況を『緩和する』のを支援すべきである。苦しい企業は最悪でも労働時間を削減して雇用を共有してほしい。しかし、一般的な方向は高賃金を維持しつつ雇用を押し上げることにある」(『アメリカ大恐慌・上巻』<アミティ・シュレーズ著/田村勝省訳/NTT出版>)
強制ではなかったが、大統領の要請を受け、会議に出席した経営者らは賃下げをしないと誓い、全米の経営者に同調を呼びかけた。なかでもヘンリー・フォードは、労働者が自分たちのつくった製品を購入するのに十分な賃金を払わなければならないという持論に基づき、勇敢にも賃上げを表明した。
フーバーの介入に喜んだのは労働組合である。当時の労組は弱体で、組織率は労働者の7%にすぎず、業界全体に最低賃金を強制する力がなかった。そこへ政府が組合の代わりに、最低賃金を事実上強制してくれたのである。
1930年10月、米労働総同盟(AFL)は年次総会にフーバーを招き、ウィリアム・グリーン議長が「(大統領は)偉大な影響力を発揮され、賃金水準を維持し、下落を防ぐことに貢献されました」とその政策をほめそやした。
市場の失敗ではなく、政府の失敗
しかしその背後で、米経済は未曽有の大量失業に苦しむことになる。経済学者リチャード・ベダーとローウェル・ギャラウェイの推計によると、米失業率は1929年1月から10月までの平均が2.44%だったのに対し、株暴落翌月の11月は5.0%、12月は9.0%に上昇する。その後、12月時点の値を追うと、1930年が14.4%、31年が19.8%、32年が22.3%。フーバーが退任した33年3月には28.3%にも達した。
それまでの米政府が賃金を自由に下落するに任せたのと対象的に、フーバー政権では政府の介入のせいで賃金がなかなか下がらなかった。ベダーらは「労働市場は政府の介入で通常の働きを妨げられた。この介入のせいで、激しい衝撃で始まった不況が大恐慌に転じた。市場の失敗ではなく、政府の失敗こそ問題だった」と分析する。
しかも失業の苦しみは、社会的弱者にひときわ厳しく襲いかかった。企業に賃下げが事実上禁じられたことで、技能や経験の乏しい労働者を安い賃金で雇うことができなくなったためである。1931年1月時点で、デトロイト市では黒人女性の失業率が約75%(全国平均は14%)に達した。
フーバーに賃下げはしないと誓った企業は、1931年秋ごろまで、懸命に約束を守ろうとしたが、経済の繁栄が最高潮に達した株暴落直前の賃金水準を維持するのは、さすがに厳しくなってきた。卸売物価が30年に10%、31年に15%とそれぞれ大きく下落したため、名目賃金を横ばいに保つだけでも、物価を考慮した実質賃金は急上昇した。
こうしたなか、ついに賃下げの動きが広がる。大企業で先陣を切ったのは鉄鋼大手のUSスチールで、1931年9月、賃下げに踏み切った。建設業は31年末、フーバー政権が承認しないことを恐れ、ひそかに賃下げを行った。独自の哲学で一時は賃上げを実施した自動車王フォードさえ、32年には賃下げに追い込まれた。
フーバーは最後まで、みずからの賃上げ圧力のせいで大量の失業が発生し、不況が深刻になったことを理解しなかった。1932年秋、再選を目指した大統領選での演説で、政策の成果を誇らしげにこう強調した。
「不況の歴史上初めて、企業の配当、利益、生活費が減少しても、賃金は下がりませんでした」
実際には、賃金だけがフーバーの圧力によって高止まりしていたため、実質賃金が上昇し、大量の失業を招いたのである。当然ながら、フーバーは再選を果たせなかった。
安倍政権が企業に賃上げ圧力をかけ、それに企業が従えば、目先は労働者の人気を集めるかもしれない。しかしいずれ景気が悪化した際、大量失業というツケを払わされるのは労働者自身である。
(Business Journal 2017.11.30)*筈井利人名義で執筆
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