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インフレは税の一種です。しかも普通の税よりも悪質な税です。ところが、この事実はよく理解されていません。それどころか、多少のインフレはむしろ良いことだという嘘が、現在主流の国家主義的な、誤った経済学(ケインズ経済学)や、そこから派生した極端な説 (MMT=現代貨幣理論など) によっ...

2026-09-29

トルコ系民族の拡大

トルコ人のことをテュルクと言い、中国の史書に登場する鉄勒(てつろく)や突厥(とっけつ)はその漢字表記である。

トルコ史 (YAMAKAWA SELECTION)

6世紀以降、中央ユーラシアの草原地帯は主としてトルコ系の諸民族が活躍する舞台となった。6世紀中頃、鉄勒の一部とも言われる突厥が勢力を強め、東方では柔然を滅ぼしてモンゴル高原を統一。西方ではササン朝ペルシアと結んでエフタルを滅ぼした。こうして突厥はモンゴル高原からカスピ海北岸あたりまで、草原地帯を広く支配することになる。

突厥は中国・南北朝時代の華北の政権にも強い影響を及ぼしたが、やがて隋の攻撃や内紛によって、6世紀末に東西に分裂した。東突厥は630年に唐によって一時滅ぼされたものの、682年に再興。その後、744年に同じトルコ系のウイグルに滅ぼされるまで草原世界に覇を唱えた。一方の西突厥は、7世紀半ばに唐の支配下に入り、やがて別のトルコ系遊牧民によって滅ぼされた。

突厥に代わってモンゴル高原を統一支配したウイグルは、安史の乱に際して唐に援軍を送るなど強勢を誇った。唐に対して有利な条件を突きつけ、草原の馬と中国の絹を取引する絹馬貿易を展開した。ソグド文字を改良してウイグル文字を作り出し、仏教やマニ教を受け入れるなど文化的な発展も遂げた。

ウイグルは9世紀中頃、同じトルコ系のキルギスによって滅ぼされたが、その一部はタリム盆地のオアシス都市に入って定着した。イラン系など先住民を吸収しながら、その地域をトルコ化していった。カシュガル、クチャ、ホータンなどのオアシス都市が点在する、このトルコ化したタリム盆地は、のちに東トルキスタンと呼ばれるようになる。

一方、草原地帯の西部には、トルコ系のブルガール人がいた。7世紀中頃、ブルガール人は移動を始め、その一部はヴォルガ川流域に至り、別のグループはバルカン半島でブルガリア王国を建国して在来の諸民族と融合した。同じ頃、カスピ海北西部ではトルコ系のハザールが自立した。彼らは国家としてユダヤ教に改宗したことで知られ、都市を建設して西アジアのイスラム世界との交易で栄えた。

8世紀以降、ムスリム(イスラム)軍は、アム川の北に広がるオアシス都市の支配権をめぐって、草原のトルコ系遊牧民と争うようになった。同時期、唐も西域への進出を目指しており、751年、高仙芝率いる唐軍と、アッバース朝のムスリム軍が激突した。このタラス河畔の戦いで勝利したムスリム軍はアム川以北の支配権を固め、次第にこの地方のイスラム化が進んでいった。

9世紀後半になると、この地でイラン系のサーマーン朝がアッバース朝から事実上自立した。ブハラを首都とするこの王朝のもとで、アム川北方のオアシス地帯のイスラム化はいっそう進展する。サーマーン朝は、一方でトルコ系遊牧民の少年奴隷を買い入れ、彼らを優秀な軍人として育成してマムルーク(奴隷軍人)軍団を組織し、アフガニスタン方面へと進出した。

やがて、トルコ系遊牧民自身が建国したカラハン朝で、10世紀に君主(ハン)がイスラム教に改宗した。これを契機に、トルコ系遊牧民の間で大規模なイスラム受容の動きが始まる。カラハン朝はサーマーン朝を滅ぼしてアム川以北を支配し、同時に東トルキスタンにも進出した。

この王朝の時代から、トルコ系の人々はアム川周辺のオアシス都市にも定着するようになり、この地域は西トルキスタンと呼ばれるようになる。イスラム化したトルコ人は、こののち大挙して西アジアへと進出し、セルジューク朝などを建国していくことになる。

イスラム教で、預言者ムハンマド以来のスンナ(慣行)を尊重し、正統カリフ、ウマイヤ朝、アッバース朝と続いたカリフを正統な指導者と認める立場をスンナ派と言う。

11世紀前半に中央アジアからイランへと勢力を広げたトルコ系のセルジューク朝は、熱心なスンナ派としてアッバース朝カリフ(イスラム教の預言者ムハンマドの後継者)の権威を認める立場をとっていた。この王朝の初代スルタンとなるトゥグリル・ベクは、1055年にバグダードに入城して、当時カリフを幽閉同然にしていたシーア派のブワイフ朝を追放。これに感謝したカリフから、世俗の支配者を意味するスルタンの称号を授けられた。こうして西アジアの中心部を支配する初のトルコ系イスラム王朝が確立した。これ以降、スルタンはイスラム諸国の君主の一般的な称号として広く用いられるようになり、現代でもオマーンやブルネイの君主の称号として残っている。

セルジューク朝は、軍制面ではマムルークを採用したが、民政の官僚には伝統的なイラン系人材を起用し、ペルシア語を行政用語とした。ペルシア語は、これ以降のイランや中央アジア、さらにはインドのイスラム国家の公用語となり、インド洋交易に従事するムスリム商人の共通商業用語としても広く普及していく。

セルジューク朝の一派はビザンツ帝国領であったアナトリア(小アジア)に進出し、この地をトルコ化・イスラム化していった。これが現在のトルコ共和国の母体となる。同国が外交面などで存在感を発揮できるのは、長い歴史の積み重ねがあるからだろう。

2026-09-28

自由を叫ぶ指導者の矛盾

Impressions of fake-libertarians’ idols [LINK]

【海外記事より】自由主義や私的所有権を研究・提唱する国際組織のメディアであるプロパティ・アンド・フリーダム・ソサエティ(The Property and Freedom Society)に、「偽りのリバタリアンたちの偶像に対する印象」と題された記事が掲載されました。この記事では、自らをリバタリアンと位置づける政治家や支持層をめぐる言動に対して、ソーシャルメディア上で交わされている複数の批評的な反応を取り上げています。

紹介されている投稿の焦点となっているのは、アルゼンチンのハビエル・ミレイ大統領をめぐる発言や行動です。引用された情報によれば、ミレイ大統領はインタビューのなかで、アメリカのドナルド・トランプ前大統領を人類史上最も重要な人物の1人として称賛したほか、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相についても国際社会の中で傑出した地政学的ビジョンを持つ指導者であると評価しました。

これに対し、投稿者たちからは厳しい視線が向けられています。公立病院や公教育といった国内の公共インフラや制度の現状には目を向けない一方で、アメリカを訪れて賞を受賞したり、他国の国家指導者たちを過剰に持ち上げたりしている姿勢に対して疑問が呈されています。国家権力を縮小し個人の自由を最優先するはずの思想を掲げながら、強権的な国家指導者や国家主義的な権威に接近し称賛しているように見える様子が、偽りの偶像崇拝として批判の対象となっています。

記事自体は長文の論考を連ねる形式ではなく、国連総会などの国際舞台での演説風景やテレビ番組での発言動画を含む複数のSNS投稿を並べる形で構成されており、リバタリアニズムを標榜する指導者が実際の外交や言動においてどのような振る舞いを見せているのか、その現状と外部からの冷ややかな受け止め方を淡々と浮き彫りにしています。

2026-09-15

ミレイ氏の矛盾 フォークランドとパレスチナ

What If Milei Applied The Same Logic Used For The Malvinas To Israel? [LINK]

【海外記事より】リバタリアン系の思想フォーラムであるプロパティ・アンド・フリーダム・ソサエティのウェブサイトに掲載された、アルゼンチンのハビエル・ミレイ大統領の外交方針を批判的に検証する論考をご紹介します。ミレイ大統領は、国家の干渉を徹底的に排するリバタリアンやアナルコ・キャピタリズムの原則を掲げて就任し、世界的な注目を集めてきました。しかし記事では、彼の外交姿勢、とりわけマルビナス諸島、いわゆるフォークランド諸島に対する立場と、イスラエルに対する立場の間に見られる大きな論理的矛盾が指摘されています。

ミレイ氏はマルビナス諸島をめぐる領有権問題について、力による現状変更や強制的な奪還を退け、現地に暮らす住民の自己決定権や自由意志を尊重すべきだという見解を示しています。これは、個人の自己決定権や所有権を基礎とするリバタリアニズムの論理と整合的な判断であると評価されます。一方で、同氏はイスラエル政府に対しては無条件とも言える強い支持を表明し、対外的な連帯を強調し続けています。

記事は、もしミレイ氏がマルビナス諸島に対して適用した「住民の自己決定権」という論理を、中東のイスラエルとパレスチナをめぐる文脈にも同様に適用したならばどうなるのかという問いを投げかけています。パレスチナの人々が暮らす土地において、当事者である現地住民の意志や所有権を軽視したまま特定の国家権力を支持することは、彼自身が掲げる普遍的な自由主義の理念と明らかに衝突しているのではないか、と論者は分析しています。

最終的に記事は、ミレイ氏の掲げる理念が国内政策においては一貫していても、国際関係や地政学的な問題においては、国家権力や特定の同盟関係を優先するダブルスタンダードに陥っていると結論づけています。思想的な一貫性を重視するリバタリアンの視点から、政治指導者が直面する原則と現実政治の乖離を浮き彫りにした論考となっています。