数年前からはやり始めた「新自由主義」という言葉が、最近ますます多用されるようになってきた。リベラル派、保守派を問わずこの言葉を使い、政府の経済政策や政治家の主張を盛んに非難する。
しかし、ここで素朴な問いかけをしてみたい。今の経済政策のあり方に大きな問題があるのは確かである。だがそれは果たして、「自由」という言葉を使って呼ぶことが適切だろうか。
しかし、ここで素朴な問いかけをしてみたい。今の経済政策のあり方に大きな問題があるのは確かである。だがそれは果たして、「自由」という言葉を使って呼ぶことが適切だろうか。
新自由主義が注目される火付け役となった本を読み返してみよう。英国出身の経済地理学者、デヴィッド・ハーヴェイの『新自由主義』(邦訳2007年刊、渡辺治監訳/作品社)である。すると意外な事実が明らかになる。
ハーヴェイは新自由主義を次のように定義する。
「新自由主義とは何よりも、強力な知的所有権、自由主義、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治経済的実践の理論である」
「強力な知的所有権」は表現の自由と衝突する面があるからひとまず除外するとしても、それ以外の「自由主義」「自由貿易」「企業活動の自由」などの部分は、文字どおり「自由」という言葉にふさわしい。別の言い方をすれば、「市場原理主義」と呼んでもいいだろう。
しかし今の経済政策が、とてもこのような自由や市場原理にあふれているとは思えない。
たとえば貿易である。政府や大手メディアは、環太平洋経済連携協定(TPP)が自由貿易であるかのように喧伝するが、以前この連載で述べたように、その実態は複雑な制限だらけの管理貿易にすぎない。
ハーヴェイは共産主義の祖であるマルクスを信奉しており、それにふさわしく、新自由主義が理念として掲げる自由貿易や企業活動の自由を批判する。しかし同時に、新自由主義のもう一つの側面も批判する。むしろ力点はこちらにあるといっていい。
それは、理念としては貿易や企業活動の自由を掲げる政府が、現実にはそれと正反対の介入政策をしばしば行うことである。
たとえば、ジョージ・W・ブッシュ元米大統領は、自由市場と自由貿易を信奉すると言いながら、鉄鋼業が盛んなオハイオ州での選挙戦の勝利を確かなものにしようと、鉄鋼関税を設定した。国内の不満を和らげるために、国外からの輸入数量制限も恣意的に設けられた。
欧州諸国も自由貿易を主張しつつ、自国の農業は保護している。武器取引など特定の業界の利益を推進するために特別の国家介入を行う。中東のような地政学的に重要な地域では、政治的なつながりと影響力を獲得するために信用の供与を恣意的に広げる。
ハーヴェイによれば、こうした「理論と実践とのギャップ」が最も甚だしいのは、金融の分野である。
新自由主義に基づけば理論上、国家権力は金融機関の経営に介入しないはずである。ところが現実にはしばしば、経営危機に瀕した金融機関を政府が救済する。1987~88年に米国で貯蓄貸付組合危機が起きた際にはおよそ1500億ドルを納税者が負担し、97~98年にヘッジファンドのロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)が破綻した際には、35億ドルが投入された。
つまり、新自由主義とは理念として市場原理を標榜するものの、それがより重要な要求と衝突する場合、その原理は「放棄されるか、見分けがつかないほどねじ曲げられる」とハーヴェイは述べている。
では、より重要な要求とは何か。それは「エリート権力の回復・維持」である。
新自由主義とは市場原理主義と同じ意味だと思い込んでいる人は、少なくないだろう。しかし意外にも、少なくともハーヴェイの議論によれば、それは誤解である。監訳者の渡辺治一橋大学名誉教授も解説で、新自由主義では市場の秩序に任せて国家の介入は最小限に抑えられるという考えは「謬論」(間違った議論)だと指摘している。
まとめると、新自由主義とは経済の自由を建前として掲げつつ、本音では権力者の利益のために市場経済への介入をためらわない考えといえよう。
さて、ここで最初の問いに戻ろう。新自由主義が以上のようなものだとすれば、それを「新自由主義」と呼ぶことは適切だろうか。そうとは思えない。この言葉に含まれる「自由」とは建前にすぎないからだ。マルクスを信奉し、経済の自由を目の敵にする共産主義者にとってはこれでいいのかもしれないが、本質とかけ離れていて人を混乱させる。
権力者が経済に介入して一部の企業や金融機関の便宜を図り、それによって自分自身も地位の保全や金銭上の利益を手に入れる――。そうした腐敗した政治・経済のあり方には、もっと適切な呼び名がある。それは「縁故資本主義」である。
縁故資本主義については、米経済学者のルイジ・ジンガレスが著書『人びとのための資本主義』(邦訳2013年刊、若田部昌澄監訳/NTT出版)で詳しく解説・批判している。大手金融機関と政府の癒着など、槍玉に挙げる例はハーヴェイとほとんど変わらない。本当の問題は経済の自由ではなく、政府と企業の不公正な縁故関係(コネ)であることがよくわかる。
ただし、縁故資本主義という呼び名も最善ではない。公正な市場競争に基づく本来の資本主義と紛らわしいからだ。
この際、新自由主義は「新国家主義」と言い換えてはどうだろうか。自画自賛で恐縮だが、むき出しの古い国家主義と違い、看板には自由を掲げ、都合次第でいつでも経済に介入する正体をずばりと言い当てていると考える。
政府を正しく批判したいのなら、正しい言葉遣いをしなければならない。言論人が新自由主義という不適切な呼び名で政府を罵倒し続ければ、国民の間で自由そのもののイメージが悪化し、結果的に政府によるさまざまな自由の抑圧に手を貸すことになりかねない。
ハーヴェイは新自由主義を次のように定義する。
「新自由主義とは何よりも、強力な知的所有権、自由主義、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治経済的実践の理論である」
「強力な知的所有権」は表現の自由と衝突する面があるからひとまず除外するとしても、それ以外の「自由主義」「自由貿易」「企業活動の自由」などの部分は、文字どおり「自由」という言葉にふさわしい。別の言い方をすれば、「市場原理主義」と呼んでもいいだろう。
しかし今の経済政策が、とてもこのような自由や市場原理にあふれているとは思えない。
たとえば貿易である。政府や大手メディアは、環太平洋経済連携協定(TPP)が自由貿易であるかのように喧伝するが、以前この連載で述べたように、その実態は複雑な制限だらけの管理貿易にすぎない。
ハーヴェイは共産主義の祖であるマルクスを信奉しており、それにふさわしく、新自由主義が理念として掲げる自由貿易や企業活動の自由を批判する。しかし同時に、新自由主義のもう一つの側面も批判する。むしろ力点はこちらにあるといっていい。
理論と実践とのギャップ
それは、理念としては貿易や企業活動の自由を掲げる政府が、現実にはそれと正反対の介入政策をしばしば行うことである。
たとえば、ジョージ・W・ブッシュ元米大統領は、自由市場と自由貿易を信奉すると言いながら、鉄鋼業が盛んなオハイオ州での選挙戦の勝利を確かなものにしようと、鉄鋼関税を設定した。国内の不満を和らげるために、国外からの輸入数量制限も恣意的に設けられた。
欧州諸国も自由貿易を主張しつつ、自国の農業は保護している。武器取引など特定の業界の利益を推進するために特別の国家介入を行う。中東のような地政学的に重要な地域では、政治的なつながりと影響力を獲得するために信用の供与を恣意的に広げる。
ハーヴェイによれば、こうした「理論と実践とのギャップ」が最も甚だしいのは、金融の分野である。
新自由主義に基づけば理論上、国家権力は金融機関の経営に介入しないはずである。ところが現実にはしばしば、経営危機に瀕した金融機関を政府が救済する。1987~88年に米国で貯蓄貸付組合危機が起きた際にはおよそ1500億ドルを納税者が負担し、97~98年にヘッジファンドのロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)が破綻した際には、35億ドルが投入された。
つまり、新自由主義とは理念として市場原理を標榜するものの、それがより重要な要求と衝突する場合、その原理は「放棄されるか、見分けがつかないほどねじ曲げられる」とハーヴェイは述べている。
では、より重要な要求とは何か。それは「エリート権力の回復・維持」である。
新自由主義とは市場原理主義と同じ意味だと思い込んでいる人は、少なくないだろう。しかし意外にも、少なくともハーヴェイの議論によれば、それは誤解である。監訳者の渡辺治一橋大学名誉教授も解説で、新自由主義では市場の秩序に任せて国家の介入は最小限に抑えられるという考えは「謬論」(間違った議論)だと指摘している。
まとめると、新自由主義とは経済の自由を建前として掲げつつ、本音では権力者の利益のために市場経済への介入をためらわない考えといえよう。
新国家主義
さて、ここで最初の問いに戻ろう。新自由主義が以上のようなものだとすれば、それを「新自由主義」と呼ぶことは適切だろうか。そうとは思えない。この言葉に含まれる「自由」とは建前にすぎないからだ。マルクスを信奉し、経済の自由を目の敵にする共産主義者にとってはこれでいいのかもしれないが、本質とかけ離れていて人を混乱させる。
権力者が経済に介入して一部の企業や金融機関の便宜を図り、それによって自分自身も地位の保全や金銭上の利益を手に入れる――。そうした腐敗した政治・経済のあり方には、もっと適切な呼び名がある。それは「縁故資本主義」である。
縁故資本主義については、米経済学者のルイジ・ジンガレスが著書『人びとのための資本主義』(邦訳2013年刊、若田部昌澄監訳/NTT出版)で詳しく解説・批判している。大手金融機関と政府の癒着など、槍玉に挙げる例はハーヴェイとほとんど変わらない。本当の問題は経済の自由ではなく、政府と企業の不公正な縁故関係(コネ)であることがよくわかる。
ただし、縁故資本主義という呼び名も最善ではない。公正な市場競争に基づく本来の資本主義と紛らわしいからだ。
この際、新自由主義は「新国家主義」と言い換えてはどうだろうか。自画自賛で恐縮だが、むき出しの古い国家主義と違い、看板には自由を掲げ、都合次第でいつでも経済に介入する正体をずばりと言い当てていると考える。
政府を正しく批判したいのなら、正しい言葉遣いをしなければならない。言論人が新自由主義という不適切な呼び名で政府を罵倒し続ければ、国民の間で自由そのもののイメージが悪化し、結果的に政府によるさまざまな自由の抑圧に手を貸すことになりかねない。
(Business Journal 2016.06.29)*筈井利人名義で執筆
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