しかし、そもそも為替相場が変動するのは、変動相場制を採っているからである。為替の急激な変動がそれほど嫌ならば、なぜ変動相場制でなく、昔のような固定相場制に戻さないのだろうか。
この問題について考えるため、まず第2次世界大戦後の為替制度の歴史を簡単に振り返ってみよう。
戦後の国際通貨体制は、まだ戦中だった1944年7月、米国のニューハンプシャー州ブレトンウッズで連合国が開いた会議で決定された。これをブレトンウッズ体制と呼ぶ。金との交換を保証された米ドルが基軸通貨とされ、他通貨と一定レートで交換する固定相場制が採用される。円は1ドル=360円となった。
しかし唯一の基軸通貨国となった米国は、ベトナム戦争の軍事費や国内福祉政策の支出増大に充てるため、多額のドルを増発。交換する手持ちの金が不足する事態に陥る。
ついに71年8月15日、当時のニクソン大統領が金とドルの交換停止を宣言する(ニクソン・ショック)。ニクソン・ショック直後は交換レートを1ドル=308円に切り上げるなど固定相場制を維持する試みもあったが、長続きしなかった。結局、73年に日本、欧州主要国などがドルとの変動相場制に移行し、現在に至る。
変動相場制が不安定をもたらす心配はない?
それでは、変動相場制への移行はどのような理由で支持されたのだろう。当時、理論的支柱の役割を果たしたのは、米国の経済学者で自由市場経済を信奉するミルトン・フリードマンである。50年の論文でいち早く変動相場制の採用を提唱し、62年の著書『資本主義と自由』(邦訳書は村井章子訳/日経BP社)でもその主張を繰り返した。
フリードマンは変動相場制を以下のように推奨した。まず、変動相場制は「政府の介入なしに市場での取引を通じて通貨の交換レートが決まる制度」であるから、「自由市場にふさわしいメカニズム」だという。「他の分野では政府の介入や価格統制に反対する自由主義者の多くが、変動相場制になると反対するのはなぜだろうか」と問いかけ、伝統的に経済の自由を尊重する米国人の心に訴えた。
次に、フリードマンは「変動相場制を支持するからといって、なにも不安定な為替相場を支持するわけではない」と巧みに気配りした。「理想は、為替相場は自由に変動できるが、経済政策や経済条件が落ち着いていて、実際には相場が安定的に推移すること」と述べ、変動相場制が不安定をもたらす心配はないと説いたのである。
また、変動相場制を導入すれば、「国際収支の不均衡問題は一気に解決するはずだ」と予測した。「為替レートが自由に変動して収支を均衡に向かわせるので、国際収支はつねに均衡するはずだ」との考えからだ。さらに変動相場制を導入すれば、「財とサービスの自由貿易を効率的に推進できるようになる」とも説いた。
以上が変動相場制を提案したフリードマンの論拠である。前述のように、同書の出版からおよそ10年後の70年代前半、提案は現実となったのである。
フリードマンの誤算
さて、それから45年がたった今振り返って、フリードマンの主張は正しかったと言えるだろうか。変動相場制こそ自由主義にふさわしいという主張に対しては、自由主義経済と固定相場制をともに支持する立場の経済学者から、次のように批判された。
たとえば、体積の1リットルが10デシリットルに等しいと決められているのは政府の統制だといって反対し、ある日は1リットル=9デシリットル、ある日は同11デシリットルなどと変動させたら、社会が混乱するのは間違いない。リットルとデシリットルの関係は定義されているものであり、固定したからといって、自由主義に反することにはならない。為替レートも同じである。通貨と通貨の交換比率を固定したからといって、自由主義に反することにはならない。
フリードマンの残りの主張は、為替市場の現実によって、正しかったかどうかを確かめることができる。
まずフリードマンは、変動相場制が不安定な為替相場をもたらす心配はないと述べた。しかし現実の為替相場はしばしば不安定に動き、企業や金融機関はヘッジ手段の多用や為替差損を強いられている。
次にフリードマンは、変動相場制になれば国際収支はつねに均衡すると予測した。実際には米国自身が多額の経常赤字を計上するなど、世界で経常収支の不均衡が深刻である。
さらにフリードマンは、変動相場制によって自由貿易が推進されると言ったが、現実には自国通貨切り下げなどを背景に、貿易をめぐる国際対立が頻発している。
フリードマンが描いた変動相場制の理想は、実現しているとは言いがたい。その理由を一言で言えば、彼が政府の自制心を信じすぎたからである。
政府の気まぐれな通貨増発
通貨発行という「打ち出の小槌」を安易に使わない自制心を持ち合わせた政治指導者は、あまりにも少ない。多くの場合、冒険的な軍事侵攻や有権者の人気取りのために、税収を上回る支出を行い、その穴を通貨の増発によって埋め合わせようとする。
政府の気まぐれな通貨増発の結果、為替相場は不安定になる。米国はいつでも基軸通貨のドルを刷って海外から物を買えるので、国際収支の赤字を垂れ流し続けられる。自国通貨を切り下げて一時的に輸出を増やしやすいため、金融政策と貿易をめぐる国際対立が起こりがちで、その政治調整に多大な手間暇がかかる。これらはフリードマンが予期しなかった誤算である。
冒頭で示した疑問への答えはもうわかっただろう。政府が為替の急激な変動は望ましくないと言いつつ、固定相場制に戻さないのは、通貨を自分の都合で好き勝手に増発できなくなってしまうからだ。
今の国際金融市場で巨額の資金がめまぐるしく移動するのは、民間でグローバル経済が発展したからではない。政府が大量の通貨を発行するからである。19世紀から20世紀の初めは金本位制に基づく固定相場制の時代だったが、経済のグローバル化は大きく進展した。
今では固定相場制などと言えば、多くの人が現実離れした仕組みと感じることだろう。しかし変動相場制の歴史はニクソン・ショック以来、半世紀足らずでしかない。それ以前の時代は、固定相場制でも国際経済は十分発展したのだ。
国際金融市場の不安定化で変動相場制の限界が見えてきた今、固定相場制を頭から荒唐無稽と決めつけず、国際通貨制度のあり方を原点に立ち返って考えてみてはどうだろうか。
(Business Journal 2016.07.29)*筈井利人名義で執筆
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