パリのテロ事件を受けた各国のテロ対策は、どんどんエスカレートしている。事件の舞台となったフランスでは、オランド大統領が非常事態宣言によらなくても強力な治安対策をとれるよう憲法改正に乗り出す方針を示した。事件後に出した現行の非常事態宣言ではすでに、裁判所の捜索令状なしでの家宅捜索、報道規制、人や車の往来の制限、集会開催や夜間外出の禁止、カフェやレストランの閉店――などを命じることができる。
欧米では治安当局が、スマートフォン(スマホ)などによる通信の暗号化技術がテロ組織に悪用されているとして、米アップルと米グーグルに対し、暗号の解読手段を用意するよう改めて要請した。テロの実行犯らは暗号化されていないスマホのショートメールで連絡を取り合っていたにもかかわらず、プライバシーの侵害につながりかねない暗号規制が持ち出されたことで、テロに便乗した規制強化ではないかと議論を呼んでいる。
日本では、共謀罪の新設を求める声が政府・自民党内から出てきた。犯罪を実行せず、準備もしておらず、話し合っただけで処罰の対象にする罪である。戦前、思想の弾圧に使われた治安維持法で、共謀罪に相当する「協議罪」が多用された反省から、戦後日本の刑事法は、ごく一部の例外を除き、犯罪の実行行為があって初めて罰するのを原則としてきた。共謀罪が新設されれば、この原則を根本から崩すことになる。
それでも各国の国民の間には、「テロという非常事態の下では、自由が多少制限されるのはやむを得ない」「政府として当然の対応」といった鷹揚(おうよう)な受け止め方が少なくないようである。国民の安全を守るのは政府の仕事とされているから、多くの人々がそう考えるのも無理はない面はある。
テロの起源
しかし、そのような人たちにぜひ知っておいてもらいたい歴史的事実がある。テロとはそもそも、政府が自国民の権利を脅かすことを指す言葉だったのである。
テロの起源は、18世紀のフランス革命にある。
有名なバスティーユ牢獄襲撃から4年後の1793年、革命政権は内憂外患の危機にあった。国内では事実上の徴兵に反対する農民の蜂起が広がり、国外では革命打倒を狙う第1次対仏大同盟が結成されていたからである。
同年6月、議会から穏健なジロンド派が追放され、ロベスピエール率いる急進的なジャコバン派の独裁政権が成立した。同政権は内外の危機を、政府の強烈な権限強化で乗り切ろうとする。その象徴といえるのが、同年9月に導入された「嫌疑者法」である。
嫌疑者とは反革命容疑者の意味だが、定義が曖昧であるため、ほとんど誰でも容疑者とみなして逮捕することができた。その多くはギロチン(断頭台)に送られる。同法によって処刑されるか獄中で死亡した犠牲者は合計3万人近くに達したといわれる。すさまじい弾圧は1794年7月、ロベスピエール一派が反対派のクーデターで失脚するまで続いた。
ジャコバン派によるこの独裁政治は、恐怖政治(フランス語でLa Terreur、英語でReign of Terror)と呼ばれる。これが政治用語としてのテロ(英語でterror)という言葉の起こりである。
テロリストという言葉もここから始まった。多数の国民の生命を奪ったロベスピエールは、「史上初のテロリスト」と呼ばれる。
つまり、テロリストとはもともと、政府にそむく勢力や暴徒ではなかった。国民を敵から守るという名目で国民の生命・財産を奪う、政府当局者を指したのである。
近代民主主義の出発点であると同時に、テロの起源となったフランス革命。その流れを汲むフランス政府が現在、「テロとの戦い」を声高に叫ぶのは、なんとも皮肉である。
政府の国民に対するテロ
もちろん現在では、テロという言葉は恐怖政治という元の意味から離れて、反政府勢力による暴力を指す場合がほとんどである。それでもテロの起源が政府にあるという事実は、テロ対策を名目とした政府の権限強化がエスカレートする現状に対し、重要な警鐘となるだろう。政府が国民に行使しうる暴力や強制力は、たいていのテロリストよりはるかに大きいからだ。
安全のためなら自由が多少束縛されるのはしかたがない――。そう考えている人は、フランス革命前夜に駐仏大使を経験した米国の政治家ベンジャミン・フランクリンの言葉を覚えておくべきだろう。
「安全を得るために自由を放棄する者は、そのどちらも得られないし、得るに値しない」
(Business Journal 2015.12.13)*筈井利人名義で執筆
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