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2026-10-11

唐帝国とグローバル経済

618年に李淵によって建国され、長安を都とした唐は、一般には中国歴代王朝の一つとして認識されている。しかし、その歴史的意義や経済的な影響力は、単に中国史の枠内に収まりきれるものではない。

唐―東ユーラシアの大帝国 (中公新書 2742)


唐は、ユーラシア大陸の多様な勢力と巧みにネットワークを構築した。北・西方の突厥やウイグル、チベットに建国された吐蕃などの勢力に対しては、現地の首長に爵位を与えて形式的に支配下に組み込み、官僚を派遣して監督させる羈縻政策を用いたり、皇室の娘を降嫁させたりして関係を維持した。また、国内では外来の宗教であった仏教が定着し、貴族の保護を受けて栄えた。玄奘や義浄がインドから持ち帰った経典の翻訳事業が進み、やがて浄土宗や禅宗といった中国固有の宗派も形成されていった。


唐が構築したこの精緻な国家体制と豊かな文化は、東アジア周辺諸国のモデルとなった。東アジア文化圏は唐を中心に強いまとまりを見せ、朝鮮半島の新羅や渤海、そして日本などの諸国は、朝貢制度を通じて唐の制度や文化を積極的に導入した。


とりわけ日本への影響は多大であった。日本は遣唐使を送って中国の先進的なシステムを輸入し、大化改新を経て律令国家体制を整えていった。「日本」という国号や「天皇」の称号が定まったのもこの時期である。唐の長安を模した都市計画によって奈良に平城京が建設され、均田制に倣った班田収授法が施行された。特筆すべきは、中国の方孔円銭と同じ形態の銅銭である和同開珎などが発行されたことである。これは単なる文化の模倣にとどまらず、貨幣経済という新たな経済インフラの導入を意味していた。


唐の経済圏は東南アジアにも及び、真臘やチャンパー、シュリーヴィジャヤなどが朝貢し、香料などの物産は中国中南部の港町から大運河を経て各地へ流通していた。


しかし、8世紀に入ると、唐の支配体制に構造的な変化が生じ始める。7世紀末に武則天が帝位についた際、科挙官僚を積極的に任用したことで、政治の担い手が古い家柄の貴族から科挙官僚へと移行する転機となった。続く8世紀初めの玄宗の治世は繁栄を極めたが、同時に商業の発達に伴って貧富の差が顕在化していった。格差が開き、没落して土地から逃亡する農民が増加したのである。その結果、農民を直接把握することを前提とした均田制や租庸調の税制は崩壊へと向かい、それに依存していた府兵制も維持できなくなった。政府は代わりに傭兵を用いる募兵制を採用し、辺境の防備には節度使と呼ばれる指揮官を充てるようになった。


こうした社会構造の歪みは、反乱という形で表面化する。玄宗の晩年、実権を握っていた楊貴妃の一族に対する反発から、節度使の安禄山とその武将である史思明が反乱を起こしたのである。世に言う安史の乱は、一見すると国内の動乱に見えるが、実は当時起こったユーラシア全域における人的移動と深く関わっており、その意味において国際的な事件であったと評価されている。


8年続いたこの乱はウイグルの援軍を得てようやく鎮圧されたものの、これを境に中央政府の統制力は弱まり、有力な節度使が地方の行政・財政の権力を握って自立する動きが加速した。時を同じくして、西域ではアッバース朝とのタラス河畔の戦いに敗れ、唐は領土の縮小を余儀なくされた。


深刻な財政難に直面した唐は、780年に抜本的な税制改革に踏み切る。従来の租庸調に代わり、両税法を採用したのである。これは、現実に所有している土地に応じて夏と秋の2回に分けて税を課すという仕組みであった。この改革に伴い、均田制の下では禁止されていた土地の自由な売買が正式に認められ、地主が土地を買い集めることが合法化された。現実の経済実態に合わせて、理念的な土地支配から資産ベースの課税へとシステムを転換させたのである。また、財政を支えるため塩の専売も重要な財源として位置づけられ、密売者は厳しく取り締まられるようになった。


だが、経済の構造的な疲弊を完全に立て直すことはできなかった。9世紀後半、塩の密売人であった黄巣らが起こした反乱はまたたく間に全国へと広がった。この黄巣の乱もまた、河南から発生した単なる国内の動乱と捉えられがちであるが、もはや中国国内で完結する出来事ではなくなっていた。実際、黄巣の軍勢が広州を陥落させた際、それまで続いていたイスラーム世界との海上交易が停止してしまったのである。当時の広州城内にはおよそ12万人に上るイスラーム世界の人々が居住しており、極めて大規模な国際交易が行われていたことがうかがえる(森部豊『唐―東ユーラシアの大帝国』)。


唐の崩壊は、東ユーラシアからイスラーム世界にまで及ぶ広大なグローバルな交易ネットワークに直接的な打撃を与える出来事でもあった。最終的に唐は10世紀の初め、節度使の朱全忠によって滅ぼされる。


唐帝国の歴史は、均田制や律令制といった精緻なシステムによる統治と、それが実体経済の発展や格差の拡大によって変容していく過程を示している。それは東アジアの枠を超えたグローバルな相互依存の歴史であり、国家体制と実体経済との関わりについて、現代の我々にも通じる視座を提供している。

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