Why We Should Repeal the Civil Rights Act | Mises Institute [LINK]
【海外記事紹介】アメリカの保守主義者や自由至上主義者の間で今、1964年に制定された「公民権法」を撤廃すべきだという極めて過激で波紋を呼ぶ議論が再燃しています。この議論を紐解くと、そこには単なる人種問題を超えた、国家権力と個人の自由を巡る深刻な対立が見えてきます。この記事は、公民権法こそが「憲法を食い尽くした法律」であり、肥大化する政府の専制的な武器になっていると批判しています。
論理の核心は、公民権法が個人の基本的な自由である「結社の自由」「契約の自由」「表現の自由」と相容れないという点にあります。自由な社会においては、誰と交流し、誰とビジネスを行うかを選択する権利は個人に属するはずですが、反差別法はこの「選択」そのものを政府が規制することを可能にしました。この記事は、「差別とは選択することそのものである」と述べ、政府が国民の選択を規制することは、最終的に国民の思想や良心の自由を統制することに繋がると警鐘を鳴らしています。
さらに記事は、公民権法が「政府の巨大化」を正当化するエンジンとして機能していると指摘します。差別の撤廃という道徳的な名目を掲げることで、政府は州や個人に対して無限の権力を行使できるようになりました。興味深いのは、これがリベラル派だけでなく、保守派にとっても政治的な武器になっているという指摘です。トランプ政権を含む歴代の政権が、公民権部門を政敵への攻撃や調査に利用してきた実態を挙げ、この法律が本来の目的を離れ、権力闘争の道具に成り下がっていると批判しています。
また、保守派が掲げる「能力主義(メリット制)」や「色盲社会(人種を問わない社会)」という理想も、この記事の視点からは批判の対象となります。国家が「能力」を定義し、それを民間に強制することは、結局のところ別の形の国家強制に過ぎないというのです。真の自由とは、人種的な枠を設けたい大学もあれば、特定のグループを優先したい企業もある、という多様な選択が許容される状態を指します。すべてを政府が決めた基準に当てはめるのではなく、市場の契約に委ねるべきだという主張です。
もし公民権法が撤廃されれば、企業は訴訟を恐れずに自由に雇用でき、大学は本来の学びの場に戻り、銀行の与信は政治的な割り当てではなく実力に基づいたものになると著者らは説きます。この主張は、現代の多様性(DEI)重視の流れに真っ向から対立するものですが、行き過ぎた国家の介入が個人の自由を蝕んでいるという危機感は、多くのアメリカ人の間で共有されつつあります。
私たちは、「差別の禁止」という善意から生まれた法律が、時として国家による専制の隠れ蓑になり得るという逆説的な現実に直面しています。日本においても、公正な社会と個人の自由の境界線をどこに引くべきか、この鋭い問いかけは決して他人事ではありません。
0 件のコメント:
コメントを投稿