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2026-06-14

ペルシャ帝国の栄光

今年2月末、米国とイスラエルがイランを攻撃し、交戦状態となった。ペルシャ人を中心とするイラン民族は、古代のペルシャ帝国時代からの長い歴史と文化を継承する、誇り高い民族として知られる。アケメネス朝、アルサケス朝(パルティア)、ササン朝と続いたペルシャ帝国の栄光の歴史をたどってみよう。

地中海世界の歴史2 沈黙する神々の帝国 アッシリアとペルシア (講談社選書メチエ)

紀元前8世紀にオリエント全域を初めて統一したアッシリア帝国は、被征服民に対する重税や強制移住といった苛烈な政策が各地で反乱を招き、前7世紀に崩壊した。その旧領内には、リュディア、新バビロニア、メディア、エジプトの4王国が分立する時代が続いた。前6世紀中頃になると、イラン高原の西南部に居住していたペルシャ人が、アケメネス家の指導下で勢力を拡大した。彼らはメディアから独立を果たすと、さらにリュディアや新バビロニアを次々と破って併合し、エジプトをも征服して大帝国へと成長した。

なかでもアケメネス朝第3代のダレイオス1世は、東はインダス川から西は小アジアに至る空前の版図を支配し、帝国の最盛期を現出した。彼は帝国全土を約20の行政区に分け、各区に総督(サトラップ)を派遣して統治させた。同時に、「王の目」や「王の耳」と呼ばれる巡察使を各地に派遣し、総督の監視と地方情勢の調査を徹底させた。また、帝都スサと小アジアのサルデスを結ぶ「王の道」と呼ばれる幹線道路を整備し、中央集権的な政治体制の盤石化に努めた。

アケメネス朝は先のアッシリアとは対照的に、征服した諸民族の伝統や信仰に対して寛容な政策を基本とした。特にアラム人やフェニキア人の商業活動を保護したため、帝国全土で広域交易が活発化した。のちにギリシャ遠征(ペルシャ戦争)には失敗したものの、アケメネス朝の政治・文化様式は地中海沿岸の諸地域に多大な影響を及ぼし続けた。歴史学者の本村凌二氏は、諸民族の個性を尊重したアケメネス朝について「五百年後のパクス・ロマーナ(ローマの平和)に先立つパクス・ペルシアーナ(ペルシアの平和)の出現であった」と指摘している(『沈黙する神々の帝国』)。

アケメネス朝で精神的支柱となったのは、火を崇拝するゾロアスター教(拝火教)だった。世界を最高神である善神アフラ・マズダと悪神アーリマンとの闘争の場と捉える二元論的な世界観を持ち、最後の審判や天国・地獄といった観念を提示した。これらの思想は、後のユダヤ教、キリスト教、イスラム教の教理形成にも深い影響を与えたとされる。ゾロアスター教の教えは後世、南北朝時代の中国にも伝来し、漢字で「祆教(けんきょう)」と表記された。

アケメネス朝は、マケドニアのアレクサンドロス大王による東方遠征を受け滅亡した。アレクサンドロス大王の急逝後、その帝国は部将たちによって分裂し、西アジアの大半はセレウコス朝が支配した。前3世紀半ばになると、各地で自立の動きが強まった。アム川上流ではギリシャ人たちがバクトリア王国を建国し、一方でイラン高原東北部の遊牧民を率いたアルサケスはパルティア王国を建国した。パルティアは着実に領土を拡大し、前2世紀後半にはセレウコス朝からメソポタミア地方を奪取するに至った。

パルティアは宿敵となったローマ帝国としばしば国境を接して交戦した。また、東西を結ぶ交易路(シルクロード)の中継地をおさえることで莫大な富を得て繁栄し、中国(漢)からは「安息(アルサケスの音訳)」の名で記録された。建国初期にはヘレニズム文化の影響を強く受けていたが、前1世紀頃からはアラム文字で表記されるペルシャ語が公用語として普及し、次第にイラン的伝統が復興していった。

紀元3世紀、イラン高原南部のペルシャ人がアルダシール1世に率いられて決起し、パルティアを滅ぼしてササン朝を創始した。第2代のシャープール1世は、西方のローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜にするという大戦果を収め、東方では同じイラン系のクシャーナ朝を圧迫してインダス川西岸まで支配を広げた。国内では中央集権体制を再構築するとともに、ゾロアスター教を国教に定め、国家統一に努めた。

5世紀に入ると、中央アジアの遊牧民エフタルの侵入に悩まされる時期もあったが、6世紀の英主ホスロー1世の時代に、トルコ系の突厥と結んでエフタルを撃滅した。さらに西方では東ローマ帝国のユスティニアヌス1世と互角に渡り合い、帝国の全盛期を築いた。しかし、ホスロー1世の死後は後継者争いで国力が疲弊し、7世紀にニハーヴァンドの戦いで新興のイスラム軍(正統カリフ時代)に大敗。その後まもなく帝国は終焉を迎えた。

アケメネス朝の栄光再興を掲げたササン朝では、ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』が編纂され、イラン文化の粋が集められた。美術・工芸の分野では独自の美意識を確立した。精緻な加工が施されたガラス器、銀器、陶器、そして華麗な毛織物は「ペルシャの至宝」として東西へ輸出された。これらの意匠や技術はシルクロードを経由して、はるか東方の飛鳥・奈良時代の日本にも伝来し、正倉院の宝物などにその格調高い影響を色濃く残している。 

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