世界経済の歴史をたどると、ひとつの法則があることに気づく。市場経済に対する規制や課税の少ない「小さな政府」の国は繁栄するということだ。
古代ローマ帝国がそうだし、
アッバース朝やオスマン帝国などのイスラム帝国もそうだった。
中国史上、最後を飾る王朝となった清もその最盛期、小さな政府によって空前の繁栄を享受した。その賢明な統治は、満洲族の建てた征服王朝であるという強い自覚から生まれたものだった。
満洲(満州)は文殊菩薩(マンジュシュリ)が語源とされ、それまでの女真に代わって民族名とされた。のちに彼らの原住地である中国東北部を指す地域名としても用いられるようになる。
16世紀に明との貿易による利益で台頭した満洲人の後金は清へ発展し、17世紀には明に代わって中国を支配するとともに、モンゴルを押さえてチベット仏教世界の盟主となった。北京を都とし、康熙・雍正・乾隆の3代の皇帝の時代に最盛期を迎える。
清はきわめて大きな版図と、多様な人々を抱える帝国だった。満洲人に漢人、モンゴル人もいればチベット人もいて、東トルキスタンのムスリム(イスラム教徒)も加わった。それを清朝の皇帝がすべて統治するという形だった。
その際、清朝は各地域に特定の統治原理を押しつけず、その土地の習俗・慣例に即して統治した。こうした方法を漢語で「因俗而治(俗に因〔よ〕りて治む)」と言う。現状をあるがままに追認し、不都合のない限り、統制も干渉も加えようとしなかった。
満洲人は、人口で漢人やモンゴルなどに劣る自らの非力な立場をよくわきまえていた。その自覚が各地の自治を尊重する「因俗而治」の統治を選ばせた。結果として「多元化した東アジア全域に君臨しうる資質を生み出したばかりか、清朝そのものに三百年の長命を与えた」と京都府立大学教授の岡本隆司氏は指摘する(『「中国」の形成』)。
清帝国は周辺国との関係でも、明朝時代のありようを踏襲しつつ、より円滑になるよう配慮した。前代の明朝は、「北虜南倭」と呼ばれる遊牧民や倭寇(後期倭寇)の侵入に悩まされた。これは、どれほど禁止しても遊牧民や倭寇との貿易が旺盛だったことを意味する。
そこで清朝は貿易を禁圧することなく、現実を追認し、むしろ促進できるように制度を整える。民間商船の出航と外国商船の来航を認めて各貿易港の税関に管理させる「互市貿易」である。1757年以降は広州を入港地に指定し、公行(コホン=特許承認の組合)を通じて貿易させた。
貿易の拡大は、清の経済を繁栄に導く。東南アジアとの貿易も活発だったが、最もインパクトが大きかったのは西洋との貿易である。
互市貿易のスタートとほぼ同時期、主として広州に来て貿易を営み始めたのが、英国など西洋諸国の貿易商人である。当初その量は小さかったが、18世紀も後半に入ると、西洋からの商人がおびただしく中国を訪れ、急速に購買を増やしていく。
西洋商人が買い付ける商品は生糸や陶磁器など中国の特産品であり、とりわけ脚光を浴びたのは茶だった。欧米では産業革命を始動していた英国を中心に、喫茶の習慣が定着しつつあった。茶は当時、世界でほぼ中国にしかできない。そのため中国茶の輸入は右肩上がりで伸びていった。
統治の安定と経済の発展の下で人口が急増し、18世紀半ばには漢人だけで3億人と前世紀の3倍に達した。その背景には荒れ地、産地でも栽培できるとうもろこし、さつまいもなどアメリカ大陸原産作物の普及があった。人口増とともに海外への移住が増加し、東南アジア各地で華僑社会が形成された。
一方で政府は、財政の無駄削減と税負担の軽減に努めた。中国歴代最高の名君の一人といわれる康熙帝は、宮廷費用の節約を図り、これを明代の十分の一に切り詰めた。巡幸の費用も宮廷の内帑金(ないどきん)で賄った。帝は大規模な遠征軍をたびたび出したが、その軍事費のための増税は行わず、しばしば減税を命じた(増井経夫『大清帝国』)。
とくに注目されるのは、即位五十周年を記念して施行された「永不加賦(えいふかふ)の制」である。国家の安定と国庫の充実を自負し、前年の壮丁男子の人口2462万を定数とし、それ以降増加したものは永久に人頭税をかけないこととした。これによって人頭税が消滅し、課税が土地に一本化される。それまで税を逃れるために隠れていた人々が表に出てきたことも、人口急増の一因とみられる。
人口の大幅増にもかかわらず、財政の規模は小さいままだった。1766年(乾隆31年)の歳出は3460万両と小規模で、半分以上を軍事費が占める。しかも歳入は4500万両余りなので、収支はかなりの黒字だった。前出の岡本氏は「驚くべき『小さな政府(チープ・ガバメント)』」だと述べる(『近代中国史』)
きわめて小さな政府でも支障がなかったのは、行政がもともと民間の社会・経済にあまり関わっていなかったからだ。医療、介護、救貧など現代では行政の業務とされる事柄の多くは、民間が緩やかな組織を独自に結んで営んでいた。
財政の抑制で役人や軍人の給与は安く、それをカバーするため汚職が横行したと、小さな政府のマイナス面を指摘する声もある。しかし庶民からしてみれば、役人や軍人に払う賄賂が税金より安くつくのであれば、そのほうが得だ。
経済繁栄のあだ花である、成金趣味に眉をひそめる向きもある。中国一の奢侈の都といわれた揚州では、バブル時代の日本を思わせるさまざまな贅沢三昧が伝えられる。
揚州では冠婚葬祭、家屋、飲食、衣服、乗り物などに数十万の金を費やすことが珍しくなかった。ある人は一万の大金を一時に使い果たしてしまいたいと考え、その金で全部金箔を買い込み、塔の上から風に飛ばした。ある人は高さ五、六尺もある銅の溲瓶(しびん)をつくり、夜中尿意を催すとわざわざ上って用を足したという(岡田英弘他『紫禁城の栄光』)。
たしかに、良い趣味とは言えない。しかしその一方で、自ら高尚な学問や芸術を楽しむとともに、学者や芸術家のパトロンとして文化に大きな役割を果たした者も少なくなかった。古典の解釈を実証的に行う考証学は、揚州の富豪たちの大きな財力によって発達した学問で、江戸時代の日本にも影響を与えた。
けれども繁栄の背後には、衰退の影も忍び寄っていた。欧米から大量に流れ込んだ銀が中国全土で物価騰貴を引き起こし、食糧暴動が頻発するに至る。社会不安の高まりを背景に世界の終末を唱える白蓮教徒の反乱が起こり、土地税の減免を求める土地所有者の運動も激しくなる。清朝は多額の費用を使って鎮圧にあたり、それが財政を圧迫した。
過去に繁栄を誇った国々の例に漏れず、清帝国もやがて衰え、最後は滅亡した。それでも民間の自由を尊重することでもたらされたその栄光は、歴史に長く刻まれるだろう。
<参考文献>
岡本隆司『「中国」の形成 現代への展望』(シリーズ 中国の歴史)岩波新書
岡本隆司『近代中国史』ちくま新書
増井経夫『大清帝国』講談社学術文庫
岡田英弘・神田信夫・松村潤『紫禁城の栄光―明・清全史』講談社学術文庫
岸本美緒・宮嶋博史『明清と李朝の時代』(世界の歴史)中公文庫
(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)