2024-05-26

南北戦争の真の目的

米バージニア州の州都リッチモンドで、公園に建てられた南北戦争の南軍司令官ロバート・リー将軍の銅像が撤去された。リー将軍の銅像は、奴隷制度や人種差別の象徴だとして長年批判にさらされてきた。黒人の男性が白人の警官に首を押さえつけられて死亡した事件をきっかけに、人種差別への抗議運動が広がったことを受け、州知事が撤去を表明していた。

The Real Lincoln: A New Look at Abraham Lincoln, His Agenda, and an Unnecessary War (English Edition) 

米国では南部を中心に、奴隷制存続を主張した南部連合(アメリカ連合国)にゆかりのある人物の銅像や記念碑が数多く設置されているが、抗議運動の中で、各地で倒されたり自治体によって撤去されたりする動きが相次いだ。

南北戦争(1861〜65年)に関しては、人種差別をめぐる善対悪の単純な図式にあてはめた報道が目立つ。しかし実際の背景はもっと複雑であり、ニュースでは触れられない意外な事実が少なくない。

まず、戦争の目的である。南北戦争は初めから奴隷解放のための戦争だったと思うかもしれないが、そうではない。戦争が始まってから少なくとも一年半の間、奴隷制は戦争の争点ではなかった。

開戦前にさかのぼって経緯をたどってみよう。1860年11月の大統領選挙で、奴隷制の拡大反対を唱える共和党からエイブラハム・リンカーンが当選すると、これを機に南部ではサウスカロライナ、テキサス、ルイジアナ、ミシシッピ、アラバマ、ジョージア、フロリダの7州が相次いで連邦から脱退し、翌61年2月、アメリカ連合国を結成した。3月4日にリンカーンが第16代大統領に就任したときには、合衆国はすでに分裂状態になっていた。

ところがリンカーンは同日の大統領就任演説で、奴隷制を批判しなかった。むしろ「奴隷制度が敷かれている州におけるこの制度に、直接にも間接にも干渉する意図はない」と述べた。同年7月4日に特別議会へ与えた教書でも、南部の行動を「連邦破壊の試み」だとして非難するばかりで、奴隷制の是非などはまったく語っていない。

リンカーンは個人としても、奴隷制や人種差別に反対ではなかった。1858年、イリノイ州選出の上院議員候補として出馬し、民主党の現職議員スティーブン・ダグラスと論戦を交わした際、こう述べた。「私は白人と黒人のいかなる社会的・政治的平等の実現にも賛成しないし、賛成したこともない。黒人が選挙権や裁判権を与えられたり、公職に就いたり、白人と結婚したりすることに賛成でないし、賛成したこともない」

リンカーンはこれに先立つ1834〜42年、イリノイ州議会の議員を務めているが、この間、州の黒人差別立法に反対したことはない。黒人への選挙権付与に反対し、黒人に裁判で証言を認めさせようとする請願に署名することを拒んだ。

リンカーンは黒人植民を強く支持してもいた。黒人植民とは、奴隷から解放され、自由な身分となった黒人を米国外の地に移住させることだ。1816年に創設されたアメリカ植民協会は、黒人植民によって合衆国を白人の共和国にすることを目指した。リンカーンが政治の師と仰いだ大物政治家ヘンリー・クレイは同協会の創立メンバーで会長も務めた。リンカーン自身、黒人をアフリカのリベリアや中米のハイチに移住させる案を抱いていた。

当時の米国で人種平等や奴隷解放を唱えたのはごく一部の運動家だけで、奴隷や黒人への蔑視と嫌悪は、南部に限らず、北部でもごく一般的な感情だった。リンカーンもそうした普通の白人の感情を共有していた。もし黒人差別を理由にリー将軍の像を撤去するのなら、ワシントンの記念堂にあるリンカーンの大理石像も問題にしなければならないだろう。

リンカーンと北部諸州にとって、戦争の本来の目的は奴隷解放ではなく、連邦の維持にあった。

先に連邦を離脱した7州に続き、1861年4〜5月にかけて、バージニア、ノースカロライナ、テネシー、アーカンソーの4州が新たに南部連合に加わり、首都はバージニアのリッチモンドに置かれた。一方、南北の間に位置し「境界州」と呼ばれるミズーリ、ケンタッキー、メリーランド、デラウェアの4州は、奴隷州でありながら南部連合には加わらず、連邦にとどまった。

これに対しリンカーンはいかなる州も勝手に連邦を離脱することはできないとして、断固連邦を維持する決意を示した。1862年8月、ニューヨーク・トリビューン紙の編集長ホレス・グレーリーに対し、明確にこう述べている。「この戦争における私の至上の目的は、連邦を救うことにあります。奴隷制度を救うことにも、滅ぼすことにもありません。もし奴隷は一人も自由にせず連邦を救うことができるものならば、私はそうするでしょう。そしてもしすべての奴隷を自由にすることによって連邦が救えるのならば、私はそうするでしょう。またもし一部の奴隷を自由にし、他はそのままにしておくことによって連邦が救えるものならば、そうもするでしょう」

リンカーンは、合衆国憲法にのっとって正当に選出された自分の権威が、相次ぐ離脱によて否定されるのは耐えがたかった。また、共和党や北部世論にとっても、連邦体制は一種の神聖さを帯びた理念であり、実体でもあった。

だからといって、連邦離脱は許さないというリンカーン側の言い分には疑問が残る。南部連合側の主張によれば、離脱の法的根拠は合衆国憲法修正第10条にある。同条では「この憲法が合衆国に委任していない権限または州に対して禁止していない権限は、各々の州または国民に留保される」と定めている。合衆国憲法に連邦離脱に関する規定はなく、なおかつ州は連邦政府に対し離脱を禁止するいかなる権限も委任していない。したがって、離脱は州の権利として留保されているはずだという。

これは決して無理な主張ではない。事実、リンカーンの前任者ジェームズ・ブキャナン大統領が最初の南部7州の離脱を黙って認めた背景には、この法解釈があった。ブキャナンは南部諸州に離脱の権利があるとまでは考えなかったものの、連邦政府に離脱を禁止する権限があるとも思わなかった。

しかしリンカーンは、離脱に対し強硬姿勢で臨んだ。1861年4月、南部連合はサウスカロライナ州の中心都市チャールストン、つまり自国のど真ん中に残された連邦政府のサムター砦に砲撃を加え、陥落させた。死傷者はなかったが、リンカーンは反乱のレッテルを貼り、7万5000人の兵を差し向けた。ここに南北戦争の幕が切って落とされた。当初、南北双方とも自らの勝利のうちに短期間で終わると楽観していた戦争は、丸四年続くことになる。

戦争が長引くにつれ、リンカーンは焦りを覚えた。このままでは英国やフランスの干渉を招き、南部連合の独立の承認という耐えがたい条件を飲まされることになる。戦局を好転させる窮余の一策として脳裏に浮かんだのが、奴隷解放の宣言だった。

実行すれば、奴隷解放を求める内外の声に応え、「人道のための戦争」として世界の世論を味方につけることができる。同時に、南部の奴隷たちは大挙して大農園を脱出し、北軍のもとに押し寄せるだろう。それは南部社会・経済の根幹を破壊し、南軍の戦争遂行能力に打撃を与えるだけでなく、脱走奴隷を北軍の兵士や労働者として使役すれば、連邦政府側の戦力が高まる。

こうして1862年9月22日、リンカーンは「奴隷解放予備宣言」を発し、翌63年1月1日、正式な「奴隷解放宣言」を発した。ただし、解放の対象となったのは反乱状態にある州や地域の奴隷だけであり、連邦軍がすでに支配していた地域や境界州の奴隷は対象外だった。境界州の奴隷主たちを刺激しないための配慮だった。リンカーンの奴隷解放が人道上の目的ではなく、政治・軍事上の手段でしかなかったことを物語る事実だ。北軍に逃げ込んだ黒人奴隷は自由にはならず、野営地で過酷な労働を強いられるか、奴隷主に送り返された。

奴隷解放が目的であれば、戦争に訴える必要はなかった。18世紀後半から19世紀にかけて、奴隷制は英国、フランス、スペインの植民地を含め多くの国・地域でなくなったが、米国と違い、いずれも平和裡に廃止された。奴隷は労働者の賃労働に比べ割高で、経済的に不採算になっていたからだ。

南北戦争では近代的兵器が初めて使用され、両軍合わせ約60万人が戦死した。これは第二次世界大戦の約40万人、ベトナム戦争の約5万人などを上回り、米国史上最大の犠牲者数である。戦争末期、北軍の将軍ウィリアム・シャーマンが決行した焦土作戦では道路や鉄道、橋、工場などが破壊され、家畜が殺戮された。当時でも戦争犯罪にあたる非道な行為だ。

南北戦争は英語でCivil War(内戦)と呼ばれるが、正確には内戦ではない。内戦とは国内における権力の奪取をめぐる戦争だが、南部諸州は権力を奪おうとしたのではなく、独立を望んだだけだ。リンカーン政権が黙って離脱を認めていたら、戦争で甚大な犠牲者を出すことはなかったし、奴隷制も平和に廃止されていたかもしれない。南北戦争を善対悪の図式でとらえるだけでは、その真の教訓を学ぶことはできない。

<参考文献>
  • 小川寛大『南北戦争-アメリカを二つに裂いた内戦』中央公論新社、二〇二〇年
  • 貴堂嘉之『南北戦争の時代 19世紀』岩波新書、二〇一九年
  • 紀平英作編『アメリカ史 上』山川出版社、二〇一九年
  • Thomas E. Woods Jr., The Politically Incorrect Guide to American History, Regnery Publishing, 2004
  • Thomas J. Dilorenzo, The Real Lincoln: A New Look at Abraham Lincoln, His Agenda, and an Unnecessary War, Crown Forum, 2003

2024-05-19

「鉄血宰相」負の遺産

今から約150年前の1871年といえば、日本では発足まもない明治政府が廃藩置県を断行した年だ。その年の1月、フランスのベルサイユ宮殿でドイツ帝国創立式典が執り行われた。プロイセン国王ヴィルヘルム一世がドイツ皇帝に即位し、ここに国民国家としてのドイツ帝国が誕生した。

ビスマルク - ドイツ帝国を築いた政治外交術 (中公新書 2304)

ドイツ帝国の初代首相となったのはオットー・フォン・ビスマルクである。「鉄血宰相」として有名なビスマルクはその後、約二十年間にわたりドイツ帝国の舵取りを行うことになる。大政治家として知られるが、彼が残した「負の遺産」は小さくない。

ビスマルクはユンカーと呼ばれる地主貴族層の出身で、学生時代は決闘や喧嘩を好んだという。プロイセン王国の保守派の代議士、外交官を経て1862年、国王ヴィルヘルム一世が軍備拡張のため議会と衝突した際に首相に任じられる。このとき議会で「問題は、演説や多数決ではなく、ただ鉄と血によってのみ解決される」と有名な演説をした。鉄は武器を、血は兵士を意味する。

ドイツではこれに先立ち、工業地帯のラインラントを有するプロイセンが1834年にドイツ関税同盟を結成するなど、経済面で統一が進んでいた。ところが首相となったビスマルクは軍事力によって強引に統一を目指す。デンマークやオーストリアとの相次ぐ戦争で勝利し、1867年には、半世紀前のウィーン会議によって発足したドイツ連邦に代えて、プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を成立させた。

一方、南ドイツ諸邦では、強大な隣国の誕生を恐れるフランスの煽動もあり、反プロイセン感情が根強かった。そこでビスマルクは、フランス皇帝ナポレオン三世を挑発し普仏戦争を起こさせた。外敵の出現で北ドイツ連邦と南ドイツ諸邦は協同してドイツ軍を結成し、ナポレオン三世を捕虜にしたうえでパリを包囲した。ベルサイユ宮殿でドイツ帝国創立式典が執り行われたのは、このときだ。

ドイツ帝国は連邦制をとり、プロイセン王が皇帝位を世襲した。男性普通選挙制の帝国議会には、予算審議権があるのみで力はなかった。

イギリスで始まった産業革命が波及し、十九世紀後半のドイツでは鉄鋼、鉄道、自動車、兵器、化学といった産業が急速に発達した。これらの産業で働く労働者の数が激増し、労働条件の向上を求める声が高まる。

こうしたなか、ドイツ出身の思想家カール・マルクスらによって確立された社会主義思想が労働運動に対し影響力を強める。フェルディナント・ラサールが全ドイツ労働者協会を、アウグスト・ベーベルらが社会民主労働者党をそれぞれ結成し、1875年に合併してドイツ社会主義労働者党(現在のドイツ社会民主党の前身)となった。この党が労働運動をリードし、ビスマルクは脅威を感じるようになる。

ビスマルクは社会主義勢力のこれ以上の台頭を防ごうと、出版法や結社法を総動員して規制を試みるが、1877年の帝国議会選挙では逆に社会主義労働者党に五十万票近くが集まり、十二名に議席を許してしまう。

1878年5月11日、ブリキ職人マックス・ヘーデルによる皇帝暗殺未遂事件が起こり、これを受けて社会主義者を取り締まる法律を帝国議会に提出したが、法の前の平等を損ねる内容だったため、圧倒的多数で否決された。ところが6月2日にまたしても皇帝暗殺未遂事件が起こり、八十一歳のヴィルヘルム一世が重傷を負うと、ビスマルクはこの法案を可決しようと帝国議会の解散に打って出る。

二度目の暗殺未遂事件の犯人は大学出のカール・ノビリングで社会主義勢力とは直接関係がなかったにもかかわらず、政府は社会主義の恐怖を煽動した。それもあって同年の帝国議会選挙では保守勢力が議席を伸ばした。その結果、ようやく法案は可決される。「社会主義者鎮圧法」である。

この法律によって、社会主義系の組織は疑わしいものも含めて解散させられ、集会や印刷物も禁止された。当初は二年の時限立法のはずだったが、四回にわたって延長されて1890年まで効力を持ち続け、約千五百名が禁固刑に処され、約九百名がその地域から追放処分にされた。

ところがこのような厳しい取り締まりにもかかわらず、結果はビスマルクの思惑とは裏腹となった。社会主義者鎮圧法では、選挙に参加する権利と議員としての免責権が保障されており、抑圧されながらも社会主義労働者党は活動を続けた。その結果、1880年代にはむしろ議席を着実に伸ばしていった(飯田洋介『ビスマルク』)。

そこでビスマルクは次の一手を打つ。社会保障制度の導入である。社会主義抑圧という「ムチ」が利かないのであれば、労働者に「アメ」をしゃぶらせようというわけだ。

ビスマルクは1883年に疾病保険、84年に労働災害保険、89年に障害・老齢保険(年金保険)と一連の社会保険を世界で初めて立法化した。これらを「ビスマルク社会保険三部作」とも称し、社会保険はその後、急速に近隣諸国に広まった。日本ではしばらく遅れて、同じように労働争議の激化や米騒動などの社会問題が深刻化した1922年、ドイツにならって最初の社会保険である健康保険法が制定された。

これらビスマルクの社会保険は、当初加入義務が一定の部門に限られ、失業を含めカバーされていないリスクがあった。また労災保険については、ビスマルクは現在各国でよく見られるような、国家が社会保険に直接関与する形を考えていたが、連邦制のドイツ帝国では中央集権的な国家の介入には抵抗があったうえ、自由主義勢力から「国家社会主義」と批判されたことなどから、国家が直接関与しない形に譲歩した。それでも全体として、国営の社会保障に踏み出した意義は大きいとされる。

しかし制定の経緯が示すように、ビスマルクが社会保障を導入したのは、労働者の利便を向上させるためというよりも、あくまで政治上の立場を有利にすることが第一の目的だった。1890年代、知人に対し「私が考えたのは労働者階級の買収だ。つまり労働者を味方につけ、政府は彼らのために存在し、彼らの幸福に関心を持つ社会組織だと思わせるのだ」と本音を語っている。

労働者にセーフティーネット(安全網)を提供するには、必ずしも政府が介入する必要はなかった。一部の大企業はビスマルク以前にすでに企業独自の福祉制度があった。たとえば鉄鋼や軍需産業で有名なクルップ社は、疾病者に対する疾病金庫、年金金庫などを独自に用意していた。また、工場労働者たちが労働組合などを通じて相互扶助を行う仕組みも作られていた(橘木俊詔『福祉と格差の思想史』)。

国家の介入を正当化する根拠として、民間の小規模な助け合いだけでは給付水準が限られるという見方がある。しかしそれは民間のネットワークを広げることにより、対応できるはずだ。政府の官僚機構は民間のような柔軟性を欠き、細やかなサービスが得意ではない。

国家であれば民間以上の給付水準を実現できるといっても、財源は民間から徴収する保険料や税金だから、当然限りがある。それにもかかわらず、給付水準は政治的な配慮によって引き上げられやすい。その結果が今、日本をはじめ先進各国が直面する社会保障費の膨張だ。

ビスマルクが推し進めた政治的な地域統合は、今の欧州連合(EU)につながる考えだが、それも英国の離脱などにより是非が問われている。中世のハンザ同盟は政治的なつながりなしに繁栄を享受した。鉄血宰相の功罪を冷静に検証するべきときだろう。

<参考文献>
  • 飯田洋介『ビスマルク - ドイツ帝国を築いた政治外交術』中公新書
  • 橘木俊詔『福祉と格差の思想史』ミネルヴァ書房

2024-05-12

イギリス帝国主義への道

イギリスでは十九世紀前半、自由主義思想が隆盛し、リチャード・コブデン、ジョン・ブライトらマンチェスター派の政治家は自由貿易、平和主義、自由放任を唱えた。1846年の穀物法廃止は、その輝かしい成果と言える。

新・人と歴史 拡大版 29 最高の議会人 グラッドストン

ところが十九世紀半ばから、自由主義に逆行する動きが目立ち始める。武力で植民地を維持・獲得しようとする帝国主義である。

自由主義を唱えるマンチェスター派は植民地について、自治権を与えて本国からの自立を促すよう主張していた。しかし現実の植民地政策はまったく逆の方向に展開した。

十九世紀半ば、イギリスの帝国主義をまず先導したのは外相、首相を歴任したパーマストン子爵である。彼はロシア帝国の南下政策を阻止するとして1854〜56年にクリミア戦争に参戦し、フランス、サルディニア(のちのイタリア王国)と協力して戦争を勝利に導き、国民的英雄になった。1856年には中国でフランスとともに第二次アヘン戦争(アロー戦争)を起こす。

同時にパーマストンは「イギリスの通商業者、製造業者のために新たな市場を確保するのは政府の仕事である」との確信を抱いて、帝国主義政策を世界各地で積極的に推進した。

次いで帝国主義政策の中心人物となったのは、保守党政治家のベンジャミン・ディズレーリである。1804年、ユダヤ系の文筆家の長男として生まれ、親とともにキリスト教(イギリス国教会)に改宗。1868年と1874〜80年の二度にわたり首相を務めた。外交政策では、本国からインドに至る「エンパイア・ルート」を、他の欧州列強の海外進出から防衛することを重視した。

ディズレーリは軍備を拡張し、露土(ロシア・トルコ)戦争に介入、同じくロシアの南下政策に対抗した第二次アフガン戦争を引き起こした。また、キプロスを占領し、南アフリカのトランスバール共和国を侵略した。

1875年にはエジプトのスエズ運河株を買収する。スエズ運河はフランス資本で作られ、株の多くをフランスが握っていた。破産しかけたエジプト副王が保有株(全株式の四四%の十七万六千六百株)をフランス資本家に売却するという情報をつかんだディズレーリは、議会に無断でユダヤ系金融資本ロスチャイルドから四百万ポンドを急ぎ借り受け、先手を打って株を買い取る。これによりイギリス政府がスエズ運河の最大株主となった。

ディズレーリはビクトリア女王に、「陛下、これでスエズ運河は陛下のものです。フランスに作戦勝ちしました」と報告したという。もっとも、本当に勝ちと言えるかは微妙だ。スエズ運河買収後、イギリスは約八十年にわたりエジプトを直接・間接に支配するが、その間、戦争と軍事費膨張、政治的動揺に見舞われることになる。

ディズレーリがスエズ運河を買収した狙いは、英本国とインドの往来をより安全にすることだった。そのインドでは十九世紀半ばまでに、イギリスは東インド会社を通じ、英語を公用語とし、官僚制度による近代的な行政・司法制度を導入した。一方で「野蛮な風習」を排斥するとして啓蒙主義的変革を進め、伝統の破壊として多くのインド人の反発を招いた。

1857年、北インドで東インド会社のインド人傭兵(シパーヒー、英語名セポイ)の反乱が起こった。シパーヒーはデリーを占拠し、ムガル皇帝を盟主として擁立。反乱は北インド全域に広がった。インド大反乱である。しかしイギリスは反乱を鎮圧。ムガル皇帝を廃し、東インド会社を解散させ、旧会社領をイギリス政府の直轄領に移行させた。

1876年、ディズレーリ首相はビクトリア女王にインド皇帝の新たな称号を贈る国王称号法を制定。翌77年1月にビクトリア女王のインド皇帝宣言が行われ、政府直轄領と五百程度の藩王国で構成するインド帝国を成立させた。

現地のデリーでは、インド総督リットンが旧ムガル帝国の儀式にのっとって大謁見式(ダールバール)を開催した。イギリスの君主制とインドが直結され、帝国の一体性と偉大さが強調された。

政府が推し進める帝国主義政策に対し、反対する声はあった。穀物法廃止で活躍したコブデンは議会に対し、クリミア戦争に介入しないよう訴えた。世界中を見回り、目に入るあらゆる悪事を正す「欧州のドン・キホーテ」になるのはイギリスの仕事ではないと主張した。しかし帝国の拡大を支持する声が強く、コブデンは反戦の主張のせいで一時議席を失った。

ディズレーリの政敵である自由党のウィリアム・グラッドストンも1879年の遊説で、武力による拡張主義外交をこう批判した。「我々が未開人と呼ぶ人々の権利を忘れるな。彼らの粗末な家の幸福も、雪に埋もれたアフガニスタンの丘陵の村に住む人々の生命の尊厳も、万能の神の目においては、諸君の生命の尊厳とまったく同じく、侵すべからざるものであることを忘れるな」

帝国主義に対する警告は的中した。政府が進めていた第二次アフガン戦争は頓挫した。南アフリカではズールー王国との戦争で八百人のイギリス兵が戦死した。さらに他の欧州列強との対抗上、地中海で海軍の配備を増強した。

ディズレーリは軍事費を賄うため増税に踏み切ったが、財政は赤字に陥った。これは前任首相のグラッドストンが減税し、しかも財政黒字を保ったのと対照的だ。

ディズレーリは、冒険主義的な外交を批判して平和主義を訴えるグラッドストンに1880年の総選挙で敗れる。グラッドストンは1894年まで首相を務めるが、帝国主義の流れは止められなかった。グラッドストンの退任後、イギリス政府はジョゼフ・チェンバレン植民相の下で海外膨張を推し進めていく。

歴史学者の間では、十九世紀の中葉、1850〜1870年代前半のイギリスの海外膨張を「自由貿易帝国主義」と呼ぶ。必要ならば軍事力による領土併合によって、自由貿易を各地に強制したからだという。

しかしこの主張は論理的に無理がある。そもそも言葉の定義上、「自由」を「強制」することはできない。もし国家が貿易を強制したのなら、それはもはや自由貿易ではなく、国営貿易とでも呼ぶべきだろう。逆に、イギリスと植民地時代のアメリカの貿易のように、貿易が自由な意思で行われているのであれば、それ自体に悪い点はない。悪いのは植民地にした帝国主義政策であって、その結果起こった貿易ではない。したがって、あえて「自由貿易帝国主義」などという言葉を使わず、単に「帝国主義」と呼べばいい。

経済学者シュンペーターは「帝国主義はその性格において原始的である。その特質は大昔からあらゆる社会で重要な役割を演じ、今まで生き延びてきた。つまり帝国主義とは現在ではなく、過去の生活状況の産物だ」と述べている。帝国主義は自由貿易とは相容れない政治行動だった。

近代文明の精華といえる自由貿易で豊かさを享受したイギリスは、前近代的で野蛮な帝国主義によって徐々にその土台を侵され、疲弊していった。戦前の軍国主義への反省を踏まえ、貿易立国として生きる日本にとって重要な教訓である。

<参考文献>

  • 秋田茂『イギリス帝国の歴史 アジアから考える』中公新書
  • 君塚直隆『物語 イギリスの歴史(下) 清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで』中公新書
  • 尾鍋輝彦『最高の議会人・グラッドストン』清水新書
  • Jim Powell, The Triumph of Liberty: A 2,000 Year History Told Through the Lives of Freedom's Greatest Champions, Free Press
  • Jim Powell, Wilson's War: How Woodrow Wilson's Great Blunder Led to Hitler, Lenin, Stalin, and World War II, Crown Forum

2024-05-05

「覇権による平和」の代償

日本国憲法が5月3日に施行77年を迎えた。毎日新聞は同日の社説で、イスラエル軍による抵抗組織ハマスへの攻撃によりパレスチナ自治区ガザ地区で女性や子供を含む3万4000人以上が死亡したことなどに触れ、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する」(憲法前文)という「日本国憲法の平和主義の理念が今、国際社会の現実によって脅かされている」と嘆いた。しかし、「日本国憲法の平和主義の理念」が国際社会の現実によって脅かされるのは、今に始まったことではない。
戦後史をたどれば、日本が深く関わっただけでも重大な国際紛争は少なくとも5回あった。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争だ。

憲法施行の3年後に勃発した朝鮮戦争では、朝鮮半島に近い日本は、兵站を支える補給基地のほか戦闘機、爆撃機、艦艇の出撃基地としてフル稼働し、結果として経済復興のきっかけをつかんだ。ベトナム戦争では、朝鮮戦争で果たした補給・出撃基地としての役割がさらに拡大強化された。米軍による北ベトナム攻撃(北爆)の主力は、沖縄から出撃するB29爆撃機だった。湾岸戦争では、米国が主力となった多国籍軍を戦費負担で支えた。米国の「テロとの戦争」の皮切りであるアフガン戦争では、艦艇への洋上補給作業に海上自衛隊があたり、続くイラク戦争では、陸上・航空自衛隊が復興支援の名の下にイラクへ渡った。

これらの戦争によって現地の市民は多数死傷し、「恐怖と欠乏」にさらされた。つまり、「平和主義の理念」は憲法施行以来、ほぼ一貫して脅かされてきたといっていい。けれども、毎日はそうは書かない。書いてしまったら、憲法施行以来、世界では戦争がやまず、その中には日本が深く関わったものもあるというのに、誇らしげに「平和主義の理念」を掲げることの偽善があらわになってしまうからだろう。

メディア関係者を含む多くの日本人は、戦後日本が平和でよかったとしばしば口にする。左派は憲法9条のおかげだといい、右派は日米同盟のおかげだという違いこそあれ、戦後日本が平和で、それはいいことだったという認識に変わりはない。けれども、視野を日本の外に広げれば、すでに述べたように、多くの人々が戦争で生命や財産を奪われ、恐怖と欠乏に苦しんできた現実がある。そしてそれらの戦争で、日本は直接戦闘にこそ参加しなかったが、さまざまな形で協力した。その協力は、一部違憲だと裁判所から指摘されたものの、おおむね「平和主義」の枠内だとされてきた。これを偽善と呼ばないのは難しい。

それでも「平和主義」がどうにか破綻せずに済んできたのは、なぜだろうか。韓国の日本研究者、権赫泰(クォン・ヒョクテ)氏は「憲法の「平和主義」は冷戦体制下での米国の対アジア戦略の産物」だと指摘し、次のように説明する。「米国は、日本とアジアを米国を頂点とする分業関係のネットワークのもとに位置づけた。韓国には戦闘基地の役割が、日本には兵站基地の役割が与えられた。日本が「平和」を維持できたのは、在日米軍の70%以上を沖縄に駐屯させ、韓国が戦闘基地、すなわち軍事的バンパーとしての役割を担い、周辺地域が軍事的リスクを負担したからだ」(鄭栄桓訳『平和なき「平和主義」』)

韓国は、朝鮮戦争では自国が戦場となり、ベトナム戦争では米国の要請を受けて、約5万人、のべ31万人余りに及ぶ実戦部隊を派兵した。その規模は、オーストラリアやニュージーランドを含む東南アジア条約機構(SEATO)諸国全体の派兵数の約4倍にも及ぶ数だった。今日では、韓国軍のベトナム住民に対する残虐行為が明らかにされ、枯葉剤による後遺症が深刻な問題となっている。韓国軍のこうした行為は批判されなければならないが、韓国が日本の分まで戦闘の役割を押しつけられた結果であることを忘れてはならないだろう。

権氏が指摘するように、日本の「平和」の犠牲になった点では、沖縄も同じだ。沖縄の人々が長年、米軍基地の過剰な存在に苦しんでいるにもかかわらず、日米同盟が必要だという多くの日本人は、基地を自分の町で引き受けるとは決していわないし、メディアもそうした主張はしない。これが日本の平和主義の醜い現実であり、日米同盟の醜い現実でもある。

権氏の「分業ネットワーク」論に通じる鋭い洞察がある。リバタリアン思想家のハンス・ヘルマン・ホッペ氏は、第二次世界大戦後、世界で西欧諸国や日本と韓国などが互いに戦争をしなかったのは、一部の論者がいうようにこの国々が民主主義国だからではなく、米軍の駐留が示すように「実質上、アメリカ帝国の一部になった」からだと述べる。覇権主義的で帝国主義的な大国である米国が、その「植民地部分」を互いに戦争させず、米国自身も衛星諸国に対して戦争を仕掛ける必要がなかったからにすぎないという。それはソ連の覇権支配時代、衛星国である東欧の共産主義諸国が互いに戦争をしなかったのと変わらない。日本の保守派はソ連に支配された旧東欧諸国を憐れむが、覇権国の事実上の植民地として「平和」を許されている点で、今の日本も違いはない。

「覇権による平和」ともいうべきこの体制には問題がある。一国が「平和」を享受する代償として、国内では沖縄のように、国外では韓国や「テロとの戦争」で戦場にされた国々のように、誰かが暴力の犠牲になる点だ。憲法前文に謳われた「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する」という真の平和は、誰かを犠牲にして手に入れるものであってはならないはずだ。

諸国の非難にもかかわらず米国のイスラエル支援によってガザで奪われつつある膨大な人命は、覇権国の支配がもたらす代償の大きさをまざまざと見せつける。もし日本が憲法の理念に忠実に、世界に真の平和を実現する役に立ちたいのであれば、覇権による偽りの平和を否定しなければならない。もちろん憲法に自衛隊や国の自衛権を明記しろといいたいわけではない。それは覇権下における分業体制の微修正であり、延長でしかない。

毎日は「市民の行動する力」に望みをかける。それに異論はない。たやすくはないにせよ、市民の力を背景に、覇権国の暴走に外交の場で何度もノーを突きつけるところから、真の平和追求は始まるだろう。