2023-09-30

国債デフォルトという選択

米国債は6月、政府債務の上限をめぐって債務不履行(デフォルト)の危機に立たされた。日本経済新聞は「最悪の事態を招いていれば各国が保有する米国債は暴落し、ドルの信用も失墜する瀬戸際だった」と振り返る


危機は去ったわけではない。債務上限の効力を一時停止した時限立法の効果は2025年1月に切れる。24年秋の大統領選後に発足する米国の新政権は再び、政府債務問題の解決を迫られることになる。

ところで、ここであえて問いたい。国債のデフォルトとは、どんな犠牲を払っても絶対に避けなければならない事態なのだろうか。

あらためて国債のデフォルトとは、政府が国債の利息の支払いを遅延・停止したり、元本の返済ができなくなったり、契約条件を変更したりすることを指す。

「自国通貨建ての国債はデフォルトしない」という主張をよく目にする。「いくらでもお金を刷ることができるから」というのが理由だ。しかし、生産力を上回るペースでお金の量を増やせば物価が上昇する。ハイパーインフレとまではいかなくとも、物価高が市民の我慢の限界に達すれば、それ以上お金を刷り続けるのは政治的に困難になる。

そこで現実味を帯びるのが、デフォルトという選択肢だ。実際に選択するうえで、考えるべきポイントが二つある。

一つは、倫理に反しないかどうかだ。もしこれが民間の個人や法人間の契約なら、借金の利子を払わなかったり、踏み倒したりすることは当然、倫理に反する。もしA氏からお金を借りたB氏が返済しなければ、A氏の正当な財産を奪うことになる。

しかし、政府の場合は違う。政府が国債を売って市民A氏から借りたお金を返すのは、実際には政府自身ではない。政府に税を支払う別の市民C氏だ。ところがC氏は、その返済について同意を求められたことは一度もない。それどころか政府とA氏との契約は、C氏から同意なしに財産を奪うという前提で結ばれたものだ。このように他人の間で勝手に結ばれた契約に、C氏が何らかの義務を負うとは考えにくい。

したがって、国債の元利払いに充てる税の支払いをC氏が拒否し、その結果、国債がデフォルトに陥ったからといって、C氏が倫理的に責められる筋合いはない。

道路や学校など政府の各種「行政サービス」をC氏が利用していても、国債の元利払いへの協力を強制される理由にはならない。一方的に押しつけられた、必ずしも質の良くない「サービス」に対し、政府の言い値どおりの対価を払う合理的な根拠がないからだ。

国債デフォルトを選択するうえで考えるべきもう一つのポイントは、経済的な影響だ。時価ベースの国債発行残高は3月末時点で1080兆円で、このうち日銀が53.3%にあたる576兆円を保有する。次いで保険・年金が21.9%、銀行などの預金取扱機関が8.9%、海外が7.2%となっている。

日銀は事実上、政府の子会社であり、日銀が保有する半分強の国債はデフォルトによって単純に帳消しすることができる。すべて帳消しにした場合、日銀は保有する国債の価値がゼロとなり、政府が救済しない限り、破綻するだろう。

保険・年金、銀行などの国債保有額は日銀に比べれば小さいものの、デフォルトで価値がなくなれば、金融システムに及ぼす衝撃は大きい。金融機関の連鎖倒産もありうる。個人の保有する保険・年金や預金にも損失が生じるだろう。

しかし、こうした厳しい影響の一方で、デフォルトには明るい面もある。まず、少なくとも当面の間、市民が再び国債に投資するような愚かなことはしなくなるだろうから、政府は借金に頼れなくなり、無駄遣いが減る。日銀が再建されても、以前のような財政ファイナンス(財政赤字の穴埋め)が認められるとは考えにくい。福祉政策や公共事業など粗悪な「行政サービス」は、質が高くて低価格な民間サービスに置き換わるだろう。

また、国債の元利払いがなくなることで納税者の負担が減り、貯蓄を増やしやすくなる。これは資本の充実と生産性の向上につながり、所得回復を後押しする。保険・年金や預金を通じて強制的に購入させられた国債でこうむった損害は、国有財産の売却や民営化株の交付で賠償すればいい。一方、国家を破産に追いやった政府や日銀の歴代幹部は当然、それなりの責任を問われる。

過激すぎてついていけないと思っただろうか。もしかすると今の延長線上で、国民から税金やインフレ税を取り立てながら、破綻を先延ばしできるかもしれない。だが、税収以上に乱費する政府の無責任な姿勢が改まらない限り、いずれデフォルトは避けられない。それならば、少しでも早いほうが痛みは比較的小さくて済む。

<参考資料>
  • The Economics and Ethics of Government Default, Part I | Mises Wire [LINK]
  • The Economics and Ethics of Government Default, Part II | Mises Wire [LINK]

2023-09-27

国債は倫理に反する

国債という制度の問題点は、日銀が財政ファイナンス(財政赤字の穴埋め)を行っている事実がわかりにくくなること以外にも、まだある。それは、倫理に反するということだ。


そもそも国債とは、国(政府)が発行する債券(投資家から資金を借り入れるために発行する有価証券)で、国が資金調達する手段の一つだ。投資家は国債を購入することで、国が設定した金利を半年に1回受け取れる。そして満期になると、投資した元本が償還される。

債券には国債以外にも様々な種類があり、企業が資金調達を目的として発行する債券を社債と呼ぶ。

さて、国債と社債には大きな違いが一つある。企業は社債の元利払い(元本と利息の支払い)に、売り上げの一部を充てる。売り上げは企業が製品・サービスを提供し、顧客に自発的に購入してもらうことによって稼いだものだ。

一方、政府は国債の元利払いに、税金(インフレ税を含む)の一部を充てる。税金は、企業が自発的な取引を通じて得たお金と違い、政府の権力を利用して市民から一方的に奪ったものだ。

インフレ税については説明が必要だろう。政府は日銀を通じて円を発行する特権を持っているから、円を大量に発行して国債の元利払いに充てればよい。ただし、お金を大量に発行すれば、他の条件が同じなら物価は上昇する。これは市民の保有するお金の価値が、実質目減りすることを意味する。同じ額のお金で買える物が少なくなってしまうからだ。市民からみれば、インフレ(通貨価値の希薄化)によって、税金を取られたのと実質同じことになる。だからインフレ税と呼ぶ。

インフレ税は、政府が円を発行する特権を持っているからこそ可能になる。市民の側がどれだけ拒絶しようと、日銀が円を発行すれば、いやおうなしに実質課税されてしまう。政府が無理やり税金を取り立てるのと変わりない。いや、それより悪質だ。普通の税金は刑務所に入る覚悟をすれば支払いを拒否できるが、インフレ税は日銀が円を発行しただけで課される。

要するに、社債は自発的に集まったお金で元利払いを行うのに対し、国債は強制的に取り上げたお金で行う。これは大きな違いだ。考えてもみてほしい。もしある企業が、従業員の給与から問答無用で取り立てたお金を社債の元利払いに充てたら、囂々たる非難を浴びるばかりか、違法行為で訴えられるだろう。

ところが国債の場合、市民から強制的に取り立てたお金を元利払いに充てるのはもちろん合法だし、世間で「ブラックだ」と非難を浴びることもない。

国債が合法だからといって、倫理的に正しい「ホワイト」だとは限らない。かりに今現在の日本国民が、民主主義で決まったことには従うといって、国債の発行に同意したとしても、元利払いの義務を遠い将来の日本人に背負わせるのは、無理がある。

国債の期間は2年、5年、10年、20年、30年、40年など様々だ。2年、5年など比較的短いものはともかく、10年、20年、30年、40年も先となると、今選挙権を持たないどころか、生まれてさえいない人にまで、元利払いの義務を押しつけることになりかねない。まして最近話題の永久国債は、永遠の未来(そのときまで日本が存続していればだが)の日本国民に利払いの負担を課す。これらは、民主主義の原則である「代表なければ課税なし」に反するだけでなく、身に覚えのない借金を押しつけるという倫理上の問題をはらむ。

経済学者ミーゼスは、借り換えを繰り返して事実上の永久国債となっている長期国債を含め、「いつまでも金を貸し借りし、永久にわたる契約を結び、未来永劫にわたる約定をするとは、何と思い上がった厚かましさではないか」と批判する。そのうえで「早晩、これらの負債は、何らかの方法ですべて清算されることは明らかであるが、それが契約どおりの元利払いでないことは確かである」と述べる(『ヒューマン・アクション』)。

「契約どおりの元利払い」以外の方法とは、政府が通貨の濫造でお金の価値を下げ、借金を事実上、一部または全部踏み倒すということだ。国債とはとことん、反倫理的な制度である。

<参考資料>
  • The 100-Year Bond is Unethical | Mises Wire [LINK]
  • What Mises Would Say About Austria's New 70-year Bond | Mises Wire [LINK]
  • Ludwig von Mises, Human Action: A Treatise on Economics, Ludwig von Mises Institute, [1949] 2009.(ミーゼス『ヒューマン・アクション』村田稔雄訳、春秋社、2008年)

2023-09-24

赤字国債を廃止せよ!

国債と借入金、政府短期証券を合計した「国の借金」が2023年6月末時点で1276兆円に達し、過去最大を更新した。新型コロナウイルス対策や物価高対応の財政支出を賄うための債務の膨張が続く。


「国の借金」という言葉を使うと、「国の借金は負担ではない。なぜなら国民自身が貸しているからだ。政府の負債は国民の資産だ」と反発する人がいる。おめでたい話だ。もし受け取る利子や元本の価値が減らないのなら、優良資産を保有していると喜んでいいかもしれない。しかし実際には、日銀が国債残高のほぼ半分を買い入れるために新たな円を発行しているから、円の価値が薄まり、円で受け取る国債の利子や元本の価値も薄まる。とても優良資産とはいえない。

日本経済新聞が伝えるように、2022年度の税収は71兆円と3年連続で過去最高を更新した。ところが新型コロナ対策や物価高対策など歳出の拡大が税収の伸びを上回り、借金が膨らむ構図が定着している。税収不足を埋め合わせるために発行する国債を「赤字国債」という。

じつは赤字国債は、法律で発行を禁止されている。第二次世界大戦時の野放図な国債発行が軍備拡張と戦後の激しいインフレを招いたとの反省から、戦後、政府が安易に国債を増発しないよう、財政法第4条第1項で国債発行を原則禁止し、同項但書でインフラ整備の財源にあてる「建設国債」の発行のみを認める。つまり財政法上、国債は原則発行を認められておらず、とりわけ赤字国債は厳しく禁止されている。

もちろんこれは建前にすぎず、実際には石油ショックによる景気低迷で税収が大幅に落ち込んだ1975年以降、特例法の制定によって、赤字国債はほぼ毎年発行されてきた。赤字国債は特例国債とも呼ばれるが、今では「恒例国債」といいたくなるくらい、発行が当たり前になっている。財政規律は失われたも同然だ。

このまま国債残高の野放図な膨張と事実上の日銀引き受けが続けば、遠くない将来、限界を迎えるだろう。対策として、野党の国民民主党は、日銀保有国債の一部を償還期限のない永久国債にするよう提案している。これにより、政府債務の一部を帳消しにできるという。

しかし、かりに一時的に債務が帳消しになったように見えても、関東学院大学教授の島澤諭氏が指摘するように、歳出・歳入構造に変化がなければ、いずれまた政府債務が積み上がるのは確実であり、根本的な解決策にはなりえない。「結局、財政健全化に奇策はなく、歳出削減によるスリム化で最適な政府規模を実現」(島澤氏)するしかない。

だが今のように赤字国債を事実上、出し放題の状態では、とても歳出削減などおぼつかない。財政法の原則どおり、建設国債を含めすべての国債発行を禁止したいところだが、少なくとも赤字国債はきっぱり廃止すべきだ。国債の新規発行額のうち赤字国債は約8割を占めるから、国債発行の大半がなくなる。

赤字国債をなくすのは無理だというなら、いっそのこと、こうしてはどうだろうか。財政法を根本から見直し、税収の不足分は日銀が円を発行し、直接政府に渡すようにするのだ。日銀が国債を買い取るワンクッションを省くだけだから、お金のやり取りは今と実質変わらない。けれども、このやり方にはメリットがある。日銀が財政ファイナンス(財政赤字の穴埋め)を行っているという不都合な事実が、誰の目にも明らかになることだ。

国債という制度のよくない点の一つは、日銀が政府の打ち出の小槌として奉仕する姿がわかりにくくなり、カモフラージュされてしまうことだ。税不足をせっせと穴埋めする日銀の役割が誰にでもわかるようになれば、その行為によって円の価値が薄まり、物価高を招く事実を理解しやすくなる。それは日銀を縮小・廃止し、インフレ税(通貨価値の希薄化)という不透明な税をなくす第一歩になるだろう。

<参考資料>
  • What Mises Would Say About Austria's New 70-year Bond | Mises Wire [LINK]

2023-09-21

「安定化」政策がもたらす不安定

日銀の高田創審議委員は9月6日、山口県下関市で講演し、2%の物価安定目標の達成に向け「『芽』がようやく見えてきた状況だ」と述べた。毎日新聞によれば、同委員は、最近の物価上昇率は2%を上回っているものの、持続的・安定的な実現には「まだ距離がある」と説明。大規模な金融緩和策を「粘り強く続ける必要がある」と強調したという。


日銀が黒田東彦前総裁の下、常軌を逸した「異次元の金融緩和」を始めた際、物価上昇に歯止めがかからなくなることを心配する声に対し、異次元緩和を支持する人々は「2%の目標に達したらやめればいいだけ」とあざ笑った。しかし今や消費者物価上昇率は今年7月まで11カ月連続で3%を上回り、2%の目標を大きく超えているにもかかわらず、高田委員の発言が示すように、日銀は言を左右にして金融緩和をやめようとしない。

日銀は「物価安定」を錦の御旗として掲げる。だが、そもそも物価に限らず、「安定」は経済の本質に反する。無理に「安定化」しようとすれば、かえって混乱を引き起こす。

経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは「安定化計画の目的である安定の確立は、空疎で矛盾した考え方である」(『ヒューマン・アクション』)と厳しく批判する。

経済の主体である人間は生まれつき、行動によって生活条件を改善しようとする強い衝動をもつ。しかも人間自身が時々刻々変化し、その価値評価、意思、行為もともに変化する。「行為の領域には、永遠なものは何もなく、変化があるのみである」とミーゼスは指摘する。

言い換えれば、健全に発展し、活発な経済には安定したものなどない。消費者の好み、技術、天然資源、その他多くの変数が常に変化しており、企業は将来の市場状況を予測して今日の生産を手配する使命を負っている。技術が変化して生産が拡大し、その結果、物価が下落すれば、つまりデフレになれば、それを無理に食い止める必要はない。デフレが経済成長を妨げるというのは嘘だ。

2%という「マイルド」な物価上昇率であっても、物価下落の圧力に逆らってそれを達成・維持するためには、多額の資金注入を必要とする。これまで日銀が「異次元の金融緩和」で行ってきたとおりだ。中央銀行の資金供給量を示すマネタリーベースは、異次元緩和の始まった2013年4月には約150兆円だったが、2023年4月には約676兆円と約4.5倍に膨張している。

しかし物価安定を目指すマネーの注入は、かえって経済に様々なひずみや不安定をもたらす。その一つが不動産など資産価格の高騰だ。

米カリフォルニア州で車中生活者が増加している。AFP通信によると、同州には富裕層が多いが、全米のホームレスの約3分の1も同州に集中している。ロサンゼルス郡だけでホームレスは7万5000人以上に上る。詳細な数字は不明だが、ロサンゼルスや近隣の町では、キャンピングカーやトレーラーハウス、乗用車を生活の場とする人の数がどんどん増えているという。

原因は、カネ余りを背景とした住宅費の高騰だ。ロサンゼルスの6月の平均家賃は2950ドル(約43万円)に達した。カリフォルニア州に限らない。米国では2021年に700万人以上が、収入の半分以上を住宅費に費やした。2007年に比べ、25%も増えた。

米国の中央銀行、連邦準備理事会(FRB)は、物価高の減速をめざして金融引き締めを続けているものの、家賃などの住居費は減速ペースが鈍い。

日本でも低金利を支えに首都圏などでマンション価格の上昇が止まらず、バブル期を超える高値となっている。それにもかかわらず、すでに利上げした米国に比べ、日銀の動きは鈍い。どこかでやむなく利上げに踏み切れば、経済に及ぼす衝撃や混乱は計りしれない。政府・中央銀行による「安定化」政策は結局、大きな不安定をもたらすのだ。

<参考資料>

  • Ludwig von Mises, Human Action: A Treatise on Economics, Ludwig von Mises Institute, [1949] 2009.(ミーゼス『ヒューマン・アクション』村田稔雄訳、春秋社、2008年)
  • What Is the Right Inflation Target for Central Banks? | Mises Wire [LINK]

2023-09-18

政府の3つの財源

2024年度予算編成に向けた各省庁の概算要求が出そろった。一般会計の総額は114兆円規模と過去最大を更新する。新型コロナウイルス騒動に伴う家計や企業への多額の支援が一巡したにもかかわらず、要求総額の増加は止まらない。タガが外れたとはこのことだ。


日本経済新聞が指摘するように、新型コロナへの対応が始まった20年度から22年度にかけて一般会計の税収は増え続けたものの、政府はそれを上回る数十兆円規模の補正予算を編成してきた。支出と税収の差は大きく開いたままで、穴を埋める財源は主に国債だ。税の穴埋めに発行する国債を赤字国債といい、建前上は禁止されている。

ところで、そもそも政府にはどのような財源があるのだろう。民間の企業や家庭とは異なり、政府は支出をまかなうために魅力あるサービスを市場で売り、それを自発的に買ってもらうわけではない。財源の多くは強制的な課税によって得ている。

しかし、政府の財源はそれだけではない。課税(T)に加え、国債などの借り入れ(D)、貨幣(お金)の発行(M)——の計3種類がある。政府支出(G)はこれら3つの資金源の合計に等しい。数式にすれば、こうだ。

G=T+D+M

課税は最も単純な政府資金源である。政府は所得、取引、財産所有、財産売却、死亡など思いつく限りの対象から税金をむしり取る。税収を使い果たしたら政府の支出も止まるのであれば話は終わりだが、そうはならない。

日本や米国の政府は税収よりも支出が多い。支出が税収を上回ることを財政赤字という。つまり、財政赤字とは政府支出と税収の差、G-Tのことである。上の式を変形して、財政赤字を次のように表すことができる。

G-T=D+M

この新しい式は、政府の赤字は税以外の収入源、つまり借り入れとお金の発行によってまかなわなければならないことを示している。

もし借り入れとお金の発行を無限に大きくできるのであれば、財政赤字がどんなに大きくなろうと心配はない。いくらでも税収以上に使える。机上の理論ではそう思えるかもしれない。しかし、現実には無理だ。

まず国債発行による借り入れだが、国債は投資家に自発的に買ってもらわなければならないから、他の金融商品に負けない条件を示さなければならない。最も重要な条件は金利だ。国債は安全性の高さという強みがあるし、外債のような為替リスクもないが、それでも金利が低すぎれば買ってもらえなくなる。世間で金利が上昇すれば、それに合わせて金利を引き上げざるをえない。国債の信用度が落ち、格付けが下がると、さらに高い金利を求められる。

国債の金利引き上げが続くと、利払いがかさんで、発行額を増やしても手元に残るお金は次第に少なくなり、極端なケースではゼロになる。そこまでいかなくても、財源として借り入れに頼るのは次第に難しくなる。

そこで最後の手段、お金の発行の登場だ。実際には、中央銀行が生み出したお金で、国債を事実上買い取る。「中央銀行はお金を無限に生み出せるので、無限の財源になる」と信じている人がいるが、これも経済の現実を無視した空論にすぎない。お金の増発は永遠には続けられない。

中央銀行が世の中にあるお金の量を増やせば、その分、お金の価値は薄まる。生産活動が活発なら、その影響は目に見えないが、お金の増えるペースが生産活動を上回ると、物価高という形で見えるようになる。物価上昇が収入の増加ペースを上回ると、人々の生活が苦しくなる。

それだけではない。お金の価値が失われるから、貯蓄の価値がなくなり、人々はお金が価値を失う前に物を買おうとし、将来への投資が減る。これは生産力の低下につながり、社会を貧しくする。「日本は先進国だから大丈夫」という人がいるけれども、生産力が衰えれば、先進国ではいられない。

結局いつかは、課税、借り入れ、お金の発行のどれにも頼れなくなるときが来る。そうなると、嫌でも支出を減らさざるをえない。そのときが遅ければ遅いほど、立ち直るための痛みは大きくなる。

<参考資料>
  • What Happens If the Government Outspends Its Ability to Pay? - Foundation for Economic Education [LINK]

2023-09-15

自由民権と小国主義

近代日本の対外政策は明治維新後まもなく、「大国主義」に舵を切る。大国主義とは「国際関係において、経済力・軍事力に勝っている国がその力を背景として小国に対してとる高圧的な態度」(goo国語辞書)のことだ。この路線は日清・日露戦争を経て第二次世界大戦で壊滅的な敗北を喫するまで、ほぼ一貫して続くことになる。

新・人と歴史 拡大版 45 中江兆民と植木枝盛

そうしたなかで、明治政府の大国主義を批判し、軍事的な対外膨張を戒める「小国主義」を唱える人々がいた。その中心となったのは、自由民権運動の論客たちである。自由民権運動とは明治前期の1870〜80年代、政府に対し民主的改革を要求した政治運動だ。

そもそも日本では幕末の開国当時から、軍事による対外進出を目指す発想が存在した。その一例は長州出身の思想家、吉田松陰である。松陰は書簡で、欧米の先進列強に対しては当面「信義」を守っておき、その間に軍備を整え、周辺の東アジア諸地域を抑え込んでいわば実力のほどを示し、やがて欧米諸国と対等の関係に入るという青写真を描いた。

維新直後の1871(明治4)年から73(明治6)年にかけて欧米を視察した岩倉使節団(岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら)は、欧州で英国・フランス・ロシア・プロイセン(ドイツ)・オーストリアの大国だけでなく、ベルギー・オランダ・スウェーデン・スイスといった小国も訪れ、関心を示している。しかし結局、使節団を最も強くひきつけたのは、小国から大国への道を歩んだプロイセンだった(百瀬宏『小国』)。

岩倉使節団の帰国後、明治政府は1874(明治7)年、近代日本国家による最初の海外派兵である台湾出兵を行う(征台の役)。また翌1875(明治8)年、軍艦を江華島に派遣して朝鮮側を挑発し、交戦して砲台を破壊した(江華島事件)。翌年、朝鮮を独立国として承認し、領事裁判権・関税免除特権などを盛り込んだ日朝修好条規を結ぶ。これは日本が欧米から強いられた不平等条約を朝鮮に強制するものだった。

明治政府側がこのように、小国から大国への道を歩もうとするなかで、小国の存在理由を積極的に肯定し、日本の将来像をそこに定めようとする「小国主義」の論陣を張ったのが、自由民権運動の論客たちである。

たとえば、「郵便報知新聞」は1881(明治14)年の社説で、スイス、デンマークなどの弱小国が独立を保っているのは「権理」によるものだと述べた。「権理は国の強弱によって進退あるもの」ではないので、腕力国家の横暴に対しては、毅然として「ただ権理によりて外国に応対し争議する」ことが正しいと、道義立国、平和外交を主張している(色川大吉『自由民権』)。

自由民権の論客の中で、小国主義の主張でとりわけ精彩を放ったのが、植木枝盛、中江兆民の二人だ。

植木枝盛(1858〜92)は土佐国(高知県)で中級藩士の家に生まれた。上京して同郷の板垣退助の家に住み込む一方、読書や講演で知識を旺盛に吸収する。新聞への投書が言論規制に触れて投獄され、民権派の自覚を固めた。帰郷して政治結社の立志社に入り、民権運動のリーダーとなっていく。

1881(明治14)年、政府が国会開設を公約すると、民権派を中心に在野でも独自の憲法草案をつくるものが出てきた。なかでも枝盛の起草した「日本国国憲案」は、政府が憲法に違反して人民の自由・権利を抑圧したときは、これを倒して新しい政府を樹立することができるという抵抗権を盛り込むなど、急進的な自由主義で知られる。

枝盛の論文「無上政府論」は、小国主義の理念が明確にうかがえる。枝盛はそこで、現在の国連に似た「万国共義政府」の創設を唱える。この共義政府が設置され、国連憲章を思わせる「無上憲法」が定められれば、各国は外患の憂いが少なくなり、かりに国家間のトラブルが起こっても、共義政府の保護を受けることができる。

その結果、枝盛によれば、世界の国は皆、国を自由に小さく分けることができるようになる。そして、国土が小さくなればなるほど人々はお互いに接近して相互理解が進み、直接民主制も実施しやすくなる。また、国際紛争を共義政府によって解決するようになれば、各国の軍備が減り、それだけ人民の福祉を増進することができる。人間の品格も良くなり、「これまた大きな利益ではないか」と枝盛は説いた(田中彰『小国主義』)。

一方、中江兆民(1847〜1901)は本名を篤助(のち篤介)といい、約10歳下の植木枝盛と同じく土佐国出身で、下級武士の子である。長崎・江戸でフランス学を学び、岩倉使節団の留学生に加わった。フランスへ留学した兆民は、主としてパリとリヨンでルソーをはじめとする哲学や史学・文学を研鑽した。帰国後、元老院の書記官となるが、1977(明治10)年初めに辞し、以後は在野のジャーナリストとして健筆を振るった。

1882(明治15)年、兆民は「自由新聞」に論説「外交を論ず」を発表し、日本外交の基本的態度はいかにあるべきかを説いた。

まず兆民は、当時政府が目指そうとしていた「富国強兵」は、絶対に矛盾するという。経済を重んずれば多くの兵を蓄えることはできないし、もっぱら武を崇(とうと)ぼうとすれば多くの財貨を増やすことはできないからだ。なお別の論説で兆民は、徴兵による常備軍の廃止と民兵制の導入を唱えている。

次に兆民は、欧州の弱肉強食の国際情勢は「他国の弱なるを冀(ねご)ふて己が国の強なるを求むる」からだと論じる。そのうえで、小国が自信をもって独立を保つには、「信義」「道義」の上に立って、大国といえども畏れず、小国たりとも侮らないようにするしかないと説く。

歴史学者の松永昌三氏によれば、兆民は「日本の進むべき道は、軍事力に依拠して他民族を抑圧するがごとき『大国』への道ではなく、人民の自由権利の増進と生活の向上を求めて、各国人民が連帯し協力しあう『小国』への道であるとし、小国独自の発展を探求すべきだと説いた」のである(『中江兆民と植木枝盛』)。

残念ながら、枝盛や兆民の小国主義は主流の思想とはならず、近代日本は「軍事力に依拠して他民族を抑圧するがごとき『大国』への道」を進んでいく。

現在、国際情勢において大国の身勝手な行動が目立ち、世界を混乱に陥れている。小国主義の理念があらためて評価される日は遠くないだろう。

<参考文献>
  • 百瀬宏『小国:歴史にみる理念と現実』岩波現代文庫
  • 色川大吉『自由民権』岩波新書
  • 田中彰『小国主義―日本の近代を読みなおす』岩波新書
  • 松永昌三『中江兆民と植木枝盛:日本民主主義の原型』清水書院

2023-09-12

原発、官民癒着が諸悪の根源

本来の資本主義が政府の介入を許さない、自由放任の経済体制だとすれば、日本の原子力産業は資本主義ではない。政府と企業が利権で結びついた「縁故主義」の典型である。「官民癒着」と言い換えることもできる。原発の問題の大半は、この官民癒着に発している。


NHKニュースデスクの山崎淑行氏は、情報量豊かな共著『エネルギー危機と原発回帰』で、「原子力業界の特異な成り立ち」を指摘する。すなわち「国策民営」という体制だ。核燃料サイクルの政策は国策であり、電力会社をはじめ原発の事業に関わる民間企業、自治体なども「すべてはこれに沿って動いている」。

国策民営は国の力によって、普通の民間企業にはない特権が認められる。たとえば「総括原価方式」だ。今でこそ電力市場の自由化が進み、事情が変わっている部分もあるが、原材料費や人件費などのコストを必ず電気料金で吸収できるような方法が認められてきた。売電エリアが電力会社ごとに決まっている、いわゆる地域独占的な市場も特徴だ。

さらに重要な特徴は、関係先が膨大なことであり、そこには民間企業だけでなく、政府、与党、野党、自治体といった政治関係者のほか、経済産業省、文部科学省、原子力規制庁、環境省、内閣府など官庁も含まれる。

山崎氏は「多数のプレーヤーが関わっているということは、逆に言うと責任の所在をあいまいにしやすい環境」と述べる。この指摘は必ずしも正確ではない。自動車や電機といった普通の民間産業も下請けなど多数のプレーヤーが関わっているが、無責任体制に陥ってはいない。もしそうなれば、厳しい競争でたちまち落伍してしまうだろう。

原子力産業で責任の所在があいまいになりやすいのは、多数のプレーヤーが関わっているからではなく、政府が関わっているからだ。政治家や官僚は職務上、よほどの落ち度がない限り、いやあったとしても、民間企業のようにその結果が収入減やリストラ、経営責任などの形で身に降りかかることがない。東京電力をはじめとする電力会社も政府から特権を与えられ、ほとんど役所と化している。

福島原発事故を検証した民間の独立検証委員会(民間事故調)は2012年の報告書で、国策民営の問題点に触れ、「安全性向上に対する国の責任が不明瞭となり、実際に事故が起こった際の責任の所在があいまいになり、事故への対応が混乱するといった状況がみられた」と指摘している。

福島第一原発の廃炉に向けた今回の処理水問題がこじれた背景にも、国策民営の無責任体制がある。原子力規制委員会の田中俊一委員長(当時)は2017年、海洋放出をめぐり、「東電の主体性が見えない」と同社を批判した。しかし評論家の池田信夫氏によれば、「今の東電は、原子力損害賠償・廃炉等支援機構から出資を受ける政府の子会社のようなもの」であり、「半国営」の東電の主体性は、すでに失われている。東電の経営と廃炉を切り離し、廃炉について意思決定を行い責任を負う「主体」を明確にすることが必要だと、池田氏は主張する

経営主体と責任の明確化は必要だ。しかしその方法として、池田氏や他の論者の唱えるような、東電の一部または全部を国有化するやり方はよくない。国有化とは税金による尻ぬぐいであり、モラルハザード(自律の喪失)を生み、将来の事故再発を誘発しかねない。

なすべきことは国有化ではない。その逆に、電力産業と政府を完全に切り離し、諸悪の根源である官民癒着を断つことだ。東電は国の支援を失い、経営破綻が避けられないだろう。破綻した東電は、純粋な民間企業となった他の電力会社が買収するかもしれないし、規制撤廃により異業種が参入するかもしれない。

損害賠償や廃炉のコストは、国と東電で責任を按分したうえで、国の責任分については増税ではなく、国有資産の売却でまなかわせよう。もちろん電力業界への天下りは禁止だ。

廃炉は、東電の今の計画のようにデブリ(溶融燃料)をわざわざ取り出せば8兆円かかるとされるが、チェルノブイリ原発のように原子炉建屋全体をコンクリート製の構造物「石棺」で封じ込める方法なら、それでも小さな額ではないが、1兆円くらいで済む

原発は、事故時に自然停止と自然冷却が自律的に作動する、安全性の高い次世代原発が登場している。完全民営化でイノベーションが加速すれば、賠償や廃炉のコストをまかなう以上に稼ぐチャンスが広がるだろう。

使用済み核燃料棒以外の「核のごみ」は放射線量が小さく、実用化も可能だ。ジャーナリストの吉野実氏によれば、除染土の中のセシウムは植物に取り込まれる可能性がきわめて低いとのデータが積み上がりつつあり、ミニトマトなど農作物を栽培できる(『「廃炉」という幻想』)。元電力中央研究所名誉特別顧問の服部禎男氏は「放射性廃棄物を薄めて道路に敷き詰め、軽い放射線が出るようにすれば、みんなが健康になるでしょう。まさにラドン温泉の発想です」(『遺言』)と提案する。

道に核のごみを敷き詰めるとはとんでもない暴論に聞こえるかもしれないが、人々が放射線に対する過剰な恐怖心から解かれれば、冷静に検討できるだろう。原発の官民癒着を断ち、自由なイノベーションを可能にすることは、そのための第一歩だ。

<参考資料>
  • 水野倫之・山崎淑行『徹底解説 エネルギー危機と原発回帰』NHK出版新書、2023年
  • 福島原発事故独立検証委員会『調査・検証報告書』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2012年
  • 吉野実『「廃炉」という幻想 福島第一原発、本当の物語』光文社新書、2022年
  • 服部禎男『遺言 私が見た原子力と放射能の真実』かざひの文庫、2017年

2023-09-09

恐怖の政治利用とそのツケ

放射線に対する過剰な恐怖心は、どこから生じたのだろう。目に見えないものを恐れる人間の本能が基底にあるのは間違いないが、それをあおったのは、反原発の野党勢力、メディア、そして政府自身である。

Low dose radiation has lethal side effects

東京電力福島第一原子力発電所が処理水の海洋放出を始めた8月24日、社民党党首の福島みずほ参院議員は「#汚染水を海に流すな」というタグを付け、「政府と東電は福島原発事故を引き起こし大量の放射性物質を拡散し、今度は故意に放射性物質を放出しようとしている」とツイートした。

政府・東電に福島原発事故の責任があるのは確かだし、事故によって大量の放射性物質が拡散されたのも事実だ。しかし、そのように大量の放射性物質が拡散されたにもかかわらず、前回述べたように、原発事故による直接の死者は確認されていない。福島県民に被曝の影響によるがんの増加は報告されておらず、今後も放射線による健康影響が確認される可能性は低いとみられている。

1986年4月に旧ソ連で起きたチェルノブイリ原発の事故は、発生して5日間も国内で隠され、ヨウ素剤を飲むなどの被曝対策に重大な遅れが出た。一方、福島の事故では、政府が緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の情報を当初知らせなかったなどの問題はあったが、国民は事故の経過を注視でき、食品の放射能監視体制も早い段階から整備された(児玉一八『身近にあふれる「放射線」が3時間でわかる本』)。

この事実は、原発事故で放射性物質が飛んできても、正しい情報に基づき適切に対処すれば、健康被害を最小限に抑えられる可能性があることを示している。それにもかかわらず、福島原発事故が「大量の放射性物質を拡散」した点だけを強調し、今また海洋放出で「故意に放射性物質を放出しようとしている」と政府を非難する福島党首のレトリックは、放射性物質に対する一般市民の恐怖心を過剰にあおるものだ。

野党は政府を批判するのが仕事だし、的を射た批判であれば有権者のリテラシー向上に役立つ。しかし十分な科学的根拠もなく、放射性物質や原発そのものに対する恐怖心をやみくもにあおれば、人々を惑わせ、不合理な行動に駆り立てるだけだ。被災者に対する差別やいじめにもつながりかねない。

メディアは不安をさらにあおった。朝日新聞出版の雑誌「アエラ」は、福島原発事故発生直後の2011年3月19日発売号の表紙に、「放射能がくる」の特集タイトルとともに防護マスクの写真を大きく掲載し、批判を浴びた。東京新聞は同年6月16日付の紙面で、「子に体調異変じわり」の見出しで、福島県内で大量の鼻血や下痢、倦怠感など子供の健康被害を不安視する声が上がっていると報じたが、記事自身が認めるように、体調不良と放射線の関係にはわからないことが多い。そうだとすれば、見出しや記事のトーンはバランスを欠いている。

中国政府や韓国市民らが処理水放出を強く批判するのも、歴史認識問題などを背景とした日本政府への根強い不信に加え、原発への恐怖心をあおる日本メディアの報道が少なからず影響していると思われる。

一方、科学的合理性の疑わしい判断を行なってきた点では、政府も罪を免れない。前回述べたように、避難指示解除要件として低すぎる疑いのある被曝線量を設定することで、避難住民の帰還を妨げ、ストレスによる震災関連死を多数招いている。原発事故そのものの健康被害よりも深刻な人権侵害だ。しかも政府を批判するべき野党やメディア自身が放射性物質に対する過剰な恐怖心を振りまき、いわば政府と共犯になって、住民が平穏な日常に戻ることを妨げている。

思い出すのは、新型コロナウイルスの流行に対する過剰な反応だ。インフルエンザなどと同様に適切に対処すれば治る風邪の一種におびえ、政府や自治体が外出・営業自粛を事実上強制し、学校を閉鎖し、自殺の増加を招いた。安全性チェックの不十分なワクチンの接種を推奨し、接種直後だけでも副作用とみられる死亡者が相次ぎ、推進派の日本医師会ですら「副反応強く出た人は慎重に」と呼びかける事態に至った。野党もメディアも政府の暴走に歯止めをかけるどころか、むしろあおり立てた。原発とほとんど同じ構図だ。

人間は恐怖に弱い。だから政府を含む政治勢力は恐怖心を安易に利用し、それが及ぼす悪影響を無視する。政府は、原発処理水が安全だということを人々がわかってくれないと嘆くが、それはこれまで政府自身が都合次第で恐怖心をあおり、人々の合理的な判断力を奪ってきたツケなのである。(この項つづく

<参考資料>
  • 児玉一八『身近にあふれる「放射線」が3時間でわかる本』明日香出版社、2020年

2023-09-06

ゼロリスク思考が招く悲劇

東日本大震災は発生から12年を迎えた2023年3月11日の時点で、確認された死者と行方不明者が2万2212人に上る。大半が地震と津波の犠牲者だ。一方で、英BBCが伝えるように、原発事故による直接の死者は確認されていない。東京電力福島第一原発で水素爆発が起こった際には少なくとも16人が負傷したが、死者は出なかった。
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また、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)は2021年3月に発表した報告で、これまで福島県民に被曝の影響によるがんの増加は報告されておらず、今後も放射線による健康影響が確認される可能性は低いと評価した。

これに対し、確認された死者には3789人の「震災関連死」が含まれる。震災関連死とは、震災と原発事故に伴う長引く避難生活やたび重なる引っ越し、大きな生活環境の変化などで、病気が悪化したり体調を崩したりして死亡したケースを指す。

原発事故をめぐり、東電の旧経営陣3人が業務上過失致死傷の罪で起訴された裁判でも、問われたのは事故そのものによる死亡ではなく、福島県の入院患者など44人が避難の過程で死亡したことへの責任だった。

これらの事実をみる限り、福島第一原発事故の影響のうち、より深刻なのは、爆発や被曝による直接の被害よりも、避難生活に伴う震災関連死だといえる。そして長引く避難生活の背景には、放射線に関する過剰な安全の要求がある。

事故を受け、政府は原発隣接地域での居住を制限。原発から放射性物質の放出が増すにつれ、制限区域を拡大した。その結果、一時は15万人以上が避難生活を強いられた。今でも福島県民を中心に3万人以上が避難生活を送り、多くの人が震災時に居住していた場所へ戻れない状態が続いている。

政府が定めた避難指示解除要件の一つに「被曝線量が年間20ミリシーベルト以下に低下」がある。「20ミリシーベルト」の根拠とされたのが国際放射線防護委員会(ICRP)による勧告だ。

ICRPは、福島民報が伝えるように、福島第一原発事故のような原子力災害が発生した際、「緊急事態時」には被曝の限度を年間100ミリシーベルトから同20ミリシーベルトの範囲でなるべく低い線量にするように求め、事故収束後の「復旧時」は年間20ミリシーベルトから徐々に平常時の被曝の限度1ミリシーベルトに戻すよう勧告している。

ところが、このICRPの基準自体に、異議が唱えられている。

放射線で体に障害が起こるのは、体を作っている細胞が傷つけられるからだ。しかし体には、傷ついた細胞を数時間で修復する機能があることがわかってきた。研究の進展を受け、UNSCEARは1994年の報告書で、ICRP勧告のリスク推定値は誇張されていた可能性があると指摘した(舘野之男『放射線と健康』)。

そもそも人間の細胞が数時間で修復するのであれば、ICRPや日本政府の基準のように、年間にどれくらい放射線を浴びたかを気にするのは意味がない。気にしなければならないのは、1時間にどれくらい浴びたかということだ。

これについて1998年、フランスの医学研究者モーリス・チュビアーナ氏は、自然放射線の10万倍にあたる毎時10ミリシーベルトまでなら、どんなに細胞を傷つけても完全に修復させてしまうとの研究結果を発表した。福島第一原発事故では一時的な被曝で最大でも毎時1ミリシーベルト程度だった(服部禎男『「放射能は怖い」のウソ』)。

福島県内の放射線量は現在、震災直後に比べ大幅に減少し、世界の主要都市や国内の都市と同程度まで低減している。その一方で、多数の人々が長引く避難生活で震災関連死に追い込まれるのは、政府、メディア、住民自身の行き過ぎた安全志向が招いた悲劇だとしかいいようがない。(この項つづく

<参考資料>
  • 舘野之男『放射線と健康』岩波新書、2001年
  • 服部禎男『「放射能は怖い」のウソ いちばん簡単な放射線とDNAの話』かざひの文庫、2014年

2023-09-03

原発、処理水より危険なもの

8月24日に始まった、東京電力福島第一原子力発電所の処理水の海洋放出が議論を呼んでいる。私は当初、原発利権にまみれた政府・東電の言うことなど信用できないと思い、よく調べもせずに、処理水は危険をはらむという趣旨の発言をソーシャルメディアのX(旧ツイッター)で行った。
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しかしその後、事実を確かめるうちに、遅ればせながら、話はそう単純ではないとわかった。曲がりなりにもジャーナリストを名乗る者としてお恥ずかしい限りだ。ここで認識を改め、そのうえで別の観点から日本の原発に対する問題意識を述べておきたい。

放出反対派によれば、メルトダウン(炉心融解)を起こした福島第一原発から放出される処理水は、通常に運転する原発のものとはまったく異なる。処理する前の汚染水が、デブリと呼ばれる溶け固まった核燃料に触れているからだという。

たとえば、社会学者の宮台真司氏はラジオ番組で、「日本の汚染水はデブリに触れているんですね。トリチウム以外に様々な核種が含まれているので、まったく同列に論じることはできない」と述べる

しかし、これはおかしい。日本経済新聞の記事にあるように、東電は多核種除去設備(ALPS)などを使い、汚染水に含まれる放射性物質を国の規制基準以下にまで取り除いている。こうした処理を施した後の水を政府・東電は「処理水」と呼ぶ(反対派の多くが処理後の水も「汚染水」と呼ぶのは、議論を混乱させる)。

ただし処理水には、現在の技術では除去できないトリチウムが残る。そこで東電は処理水を大量の海水で薄め、トリチウムの濃度を国の安全基準の40分の1未満に下げて海に放出する。トリチウム以外の核種の濃度はさらに薄まることになる(日経の別の記事で「汚染水から大半の放射性物質を取り除いた水を処理水という」とあるのは、あたかも大半の放射性物質がゼロになるかのような誤解を与える。「国の規制基準以下にまで取り除いた」とするべきだろう)。

これに対し反対派は、「濃度を薄めただけ。投棄される放射性物質の総量は変わらない」と批判する。この言い分には無理がある。国内の化学工場で発生するカドミウムや水銀などの有害物質も、一定の濃度以下なら排水で投棄が許容されている。総量をゼロにしろといわれたら、工場がストップしてしまうだろう。しかも放射性物質は化学物質と違い、時間とともに放射能を失い毒性が弱まる。

ここを突かれると反対派は、「生物濃縮」を問題にする。映画評論家の町山智浩氏は、水俣病を例に出し、「有害物質は安全な濃さまで薄めると、短期的には影響はないが、魚は食物連鎖などで長い間かけて有害物質を生体濃縮する、さらに人はそれを長い間ずっと食べ続けることで影響が出る」とツイートした。

生物濃縮が起こりうるのは事実だ。東京大学大気海洋研究所の永田俊教授は「放射性セシウム(半減期30年)では、小型魚において、餌に対して2倍程度の濃縮が起こるという報告がある」と述べる。ただ一方で、「大型魚や海産哺乳類など食物連鎖の上位の生物で濃縮が起こるかどうかはよく分かっていない」という。

生物濃縮がどのように起こるか、あるいは起こらないかについて、研究が進めばそれに越したことはない。しかし食用による人体への害を防ぐには、獲れた魚を検査すれば、それで済む。

放射線は目に見えないので怖く感じるけれども、検出器を使えば非常に高い感度でとらえることができる。微量の化学薬品の検出に日々苦労している食品検査の専門家にいわせれば、放射線ほど検出しやすく、よく「みえる」ものはないという(鳥居寛之他『放射線を科学的に理解する』)。

原発の安全神話という嘘をついてきた政府・東電による処理や検査は信用できないという意見はあるだろう。それはもっともだが、処理水そのものの安全性とは別の問題だ。放射線に関する過剰な安全の要求は、海洋放出よりも深刻な危険をもたらしかねない。いや、すでにもたらしている。(この項つづく

<参考資料>
  • 鳥居寛之他『放射線を科学的に理解する——基礎からわかる東大教養の講義』丸善出版、2012年