2015-10-31

ファング『ヤバい統計学』

CCCメディアハウス
発売日 : 2011-02-18

統計学の限界を知る


統計学は有用な学問だが、限界もある。本書は統計学の有用性を述べるだけでなく、類書が避けて通りがちな限界についても率直に述べた、誠実な本である。

統計学は、物事の相関関係を調べる学問である。相関関係とは、一方が増加すると他方が増加または減少する数量的な関係を指す。

相関関係と混同されやすいものに、因果関係がある。因果関係とは、原因と結果の論理的なつながりを指す。二つの現象に相関関係があるからといって、因果関係があるとは限らない。夏服を着る人の多くが汗をかいているからといって、夏服が汗の原因だとはいえない。

統計から相関関係を知ることはできても、因果関係を知ることはできない。因果関係は数量的な関係ではなく、論理的な関係だからだ。

著者は包み隠さずこう書く。「統計学者も認めているように、知識や経験に基づく推測だけを表すという意味で、統計モデルは常に『間違っている』」

だから統計学に詳しい研究者ほど、その限界に鋭い感覚をもつ。著者によれば、たとえば疫学者である。病菌原因を突き止めるため、統計だけに頼らず、微生物学者や農業部門の調査官、患者など、統計以外のさまざまなところに裏づけとなる証拠を求める。「原因解明が最大かつ究極の目標であり、それ以外の成果は意味がない。彼らの判断ミスは、経済と消費者の信頼に破滅的なダメージを与えるからだ」。これが学問の厳しさというものだろう。

さてそれに引き換え、本書では触れていないが、同じく統計を多用する経済学者の場合はどうだろう。たとえば安倍晋三首相の経済ブレーンで内閣官房参与を務め、アベノミクスの理論的な柱となってきたエール大名誉教授の浜田宏一は、2013年のインタビューでこう述べた。「1960年から72年までの高度経済成長の時期、日本は毎年、ヒト桁のインフレを続けていました。いま経済成長が著しい中国でも、年に3〜4%のインフレが起こっています。経済成長に伴って適度のインフレが起こるのは、極めて正常な現象なのです」

インフレの時代に経済成長が続いたというのは、相関関係にすぎない。だからインフレが経済成長の原因だとは限らないし、金融緩和でインフレを起こせば経済が良くなるともいえない。もしそう主張したいのなら、疫学者のように、統計以外に裏づけを示し、因果関係を証明しなければならない。しかし浜田はこのインタビューでもそれ以外の場所でも、他のリフレ派エコノミスト同様、インフレと経済成長について満足のゆく因果関係を示していない

浜田によれば「極めて正常」だったはずの中国経済はこのところ減速が明らかとなり、不動産バブルの背後で地方政府が債務危機に直面している。アベノミクスが統計学の限界をわきまえないお粗末な「経済理論」の上に成り立ち、実行されているとすれば、日本経済の先行きも楽観はできない。

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2015-10-24

森本あんり『反知性主義』

反権力の思想


最近よく聞かれるようになった「反知性主義」という言葉は、わかりにくい。字面だけ見れば、知性をむやみに敵視・蔑視する無知蒙昧な考えを指すように思えるし、事実、評論やエッセイのたぐいではそのような意味で使われる場合がほとんどである。

私自身、この有益な本を読むまでは、そう思い込んでいた。しかしそのような誤解が生まれるのは、後述するように、読者の側だけの落ち度ではないと思う。

著者によれば、反知性主義とは、最近の大学生が本を読まなくなったとか、テレビが下劣なお笑い番組ばかりであるとか、政治家たちに知性が見られないとか、そういうことではない。もともと現代米国社会を分析するため研究者の間で使われてきた用語で、「知性と権力の固定的な結びつきに対する反感」を指すという。

そうだとすれば、あえて反知性主義という言葉を使う必要はなく、「反権力主義」でよいのではないだろうか。知性そのものを敵視するわけではなく、知性が権力と結びつくことを問題視するのだから。

著者が列挙する、反知性主義が米国の政治制度や輿論に影響を及ぼす具体例は、いずれもすこぶる興味深い。しかしそれらは、「反知性」よりも「反権力」をキーワードにするほうが理解しやすい。

たとえば、政教分離である。政教分離というと、日本では政治から宗教を追い出して非宗教的な社会を作ることであるかのように解釈されるが、そうではない。真の信仰の自由は「国家が特定の教会や教派を公のものと定めている間は、けっして得ることができない」という考えに基づく。

また、三権分立である。権力を立法・司法・行政に分断して互いを監視させるこの制度の背景には、「地上の権力をすべて人間の罪のゆえにしかたなく存在する必要悪と考え、常にそれに対する見張りと警戒を怠らない」という精神があるという。

とくに興味深いのは、米国特有の反進化論の風潮である。日本人はよく、世界一の先進国である米国で、進化論を否定し、学校で教えることに反対する人が多いことに驚き、嘲笑する。しかし著者によれば、「彼らの反対は、進化論という科学そのものに向けられているのではなく、そのような科学を政府という権力が一般家庭に押しつけてくることに向けられている」。政府公認の教科書に載る知識はつねに正しいと信じる人々に比べれば、むしろ健全だろう。

反知性主義を社会の健全さを示す指標ととらえ、「日本にも……真の反知性主義の担い手が続々と現れて、既存の秩序とは違う新しい価値の世界を切り拓いてくれるようになることを願っている」という著者の主張には、反知性主義という言葉のわかりにくさは別として、賛成である。

残念なのは、副題と帯の惹句である。副題は「アメリカが生んだ『熱病』の正体」、惹句は「いま世界でもっとも危険なイデオロギーの根源」。これでは誰も、反知性主義に本文で述べられたような肯定的な意味があるとは思うまい。出版社の意向なのかもしれないが、本の趣旨とまるきり矛盾するというのはひどい。

もし著者なり出版社なりが、反権力という本質をストレートに訴えたのでは読者に受けないと考えたのであれば、それ自体が日本の知的状況の危うさを示している。

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2015-10-17

橋爪大三郎・佐藤優『あぶない一神教』


杜撰な資本主義論


もし資本主義を、国家(政府)のコントロールの効かない自由放任経済と定義するならば、国家と経済が一体化した経済体制を資本主義と呼ぶのはおかしい。ところが日本の言論人の間では、このおかしな議論をよく目にする。

佐藤優(元外務省主任分析官)は、橋爪大三郎(社会学者)との対談本である本書で、そのおかしな議論を展開する。

佐藤は「資本主義というものは、本質的に放っておけば暴走します」と述べる。すなわち資本主義の本質は、国家のコントロールを振りほどいて勝手に「暴走」するところにあるというわけである。

ところがその直後、佐藤は資本主義が「暴走」した例として、経済学者・中谷巌の体験談を持ち出す。

中谷は新自由主義(自由放任主義)の旗振り役として知られていたが、あるとき、資本主義の総本山であるはずの米国では国家や政治エリートと結びついた超富裕層がインサイダー取引をやっていて、健全な市場はほとんど残されていないことに気づいた。きわめて不公平な状況で、嫌気がさしたと中谷は話したという。

このエピソードを受け、佐藤は「暴走する資本主義をどうコントロールするのか。そもそもコントロールは可能なのか。そこが何よりも難しい」と述べる。

しかし、これはおかしい。もし資本主義が国家の手を離れた自由放任経済だとすれば、超富裕層が国家と「結びついた」経済体制を資本主義と呼ぶのは矛盾である。

経済が国家と癒着したそのような経済体制は、ルイジ・ジンガレスの言葉を借りれば「クローニー(縁故)資本主義」であり、トーマス・ソーウェルにならって「ファシズム」と呼んでもよい。いずれにせよ、自由放任的な資本主義とはまったく異質なものである。

まったく異質なものを同じ資本主義という言葉で表すような杜撰な議論から、なんであれ有益な知見が得られるとは思えない。

佐藤はこの後、「国家と資本主義は絶対に分離しないといけない」という橋爪の主張に同意し、安倍晋三首相が語る「瑞穂の国の資本主義」は経済の国家統制につながる危険性をはらむと述べる。それ自体はよい。

ところが佐藤は同じく今年出版した『世界史の極意』(NHK出版新書)では、国家が市場経済に積極介入するファシズムを再評価し、日本の政策に取り入れよと提言している。本音はやはりこちらなのだろう。

宗教について多少耳新しい知識が得られるとしても、論理的に杜撰で、他著と矛盾したことを平気で述べるような本を、高く評価することはできない。

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2015-10-10

ラ・ボエシ『自発的隷従論』

拒税革命の可能性


革命という言葉から普通の人が思い浮かべるのは、多くの犠牲者と流血を伴う暴力革命だろう。しかし、政府の不当な支配を覆すのに暴力はいらない。国民がもはや政府を支えないと決意しさえすればよい。なぜなら権力の支配は、究極的には国民の同意によって成り立つものだからである。

17世紀フランスの思想家、ラ・ボエシはまだ20歳にも満たない青年時代に本書を著し、権力の支配は国民の自発的な協力によって初めて可能になるという洞察を明らかにした。それがいかに横暴な圧政であってもである。

この主張には違和感を覚えるかもしれない。絶大な権力を握る独裁者であれば、暴力と恐怖によって一方的に支配すればよく、国民の同意などいらないではないか。

そうではないとラ・ボエシは論じる。独裁者はたった1人である。2人の者が1人を恐れることはあろうし、10人集まってもありうる。だが、100万もの人間が1人の権力者におとなしく隷従する場合、それは臆病からではありえない。国民の側が隷従に同意しているからである、と。

人間は本来自由を好むはずなのに、なぜやすやすと隷従に甘んじるのか。それは習慣のせいだとラ・ボエシは喝破する。生まれながらにして首に軛(くびき)をつけられている人々は、自分たちはずっと隷従してきたし、父祖たちもまたそのように生きてきたと言う。彼らはみずから、自分たちに暴虐を働く者の支配を基礎づけているのである。

しかしひとたび習慣の惰性から人々が目覚めれば、圧政を覆すのは難しくない。なぜなら権力者の支配は、国民の側の同意がなければ永続しえないからである。

ラ・ボエシは書く。権力者には立ち向かう必要はなく、うち負かす必要もない。「なにかを奪う必要などない、ただなにも与えなければよい」。そうすれば、「そいつがいまに、土台を奪われた巨像のごとく、みずからの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろう」

「ただなにも与えなければよい」というラ・ボエシの提案は、現代の先進国でいえば、税の支払い拒否にあたるだろう。国民が不当な課税という隷従に同意せず、一斉に納税を拒めば、政府は全納税者を投獄するわけにもいかず、「土台を奪われた巨像のごとく」崩れ落ちるしかない。

トルストイやガンジーの非暴力主義にも影響を及ぼしたとされるラ・ボエシは450年以上も前に、平和裏に実現しうる「拒税革命」の可能性を示唆したのである。

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2015-10-04

佐々木俊尚『21世紀の自由論』


机上のリアリズム


著者は本書の冒頭で問いかける。「生存は保証されていないが、自由」と「自由ではないが、生存は保証されている」のどちらを選択するか、と。そしてその問いに対し、後者を選ぶ。しかしその考えは誤っている。なぜなら自由ではない社会で、生存を保証するための富を生み出すことはできないからである。

流動化する現代の社会では、あらかじめ目的地を定めることはできず、「自動車のように機動力を生かし、迅速に状況を判断しながら、自分の生存をかけてリアルタイムの戦略を立てていく」ことが求められると著者は言う。

しかし、状況を判断するには適切な情報が要る。富を作り出す経済活動にとって、最も重要な情報は価格である。だが財やサービスの売買が自由でなければ、取引は成立せず、したがって価格を知ることはできない。

ソ連に代表される旧社会主義国では、工場や機械といった生産手段の私有が禁じられ、市場で売買もできなかった。だからそれらの価格を誰も知ることができなかった。価格がわからなければ、効率よい配置も生産もできない。その結果、社会主義経済は破綻した。

著者は、情報通信テクノロジーによって支えられる、新しい共同体のあり方を提言する。だがテクノロジーの発展には、経済活動の自由が欠かせない。著者も指摘するように、かつて蒸気機関やガソリンエンジンといった新たなテクノロジーの登場は、社会のあり方を大きく変えた。しかし、これらの技術が産業に結実して大きく発展できたのは、政府による規制が当然になった現代とは異なり、企業活動にはるかに大きな自由が認められていたからである。

「自由を求める人もこの社会にはいるだろう。しかしそれは少数派だ」「大多数は、自由よりも安逸な隷従を求めるのではないだろうか」と著者は言う。そうかもしれない。しかしもしそうだとしても、学問の進歩を切り拓く優れた研究者や、産業の発展を促す天才的な企業家といった少数の人々の自由を禁じれば、テクノロジーは発展しないし、多数の人々に分け与える富も生み出せない。そして誰が優れた研究者や企業家であるか事前にわからない以上、すべての研究者や企業家に自由を認めるしかない。

経済の自由がなければ、持続的に富を生み出すことはできず、大多数の人々の生存を支えることはできない。著者はしきりに「リアリズム」の重要性を強調するが、それは経済の現実に対する理解を欠いた、机上のリアリズムでしかない。

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