2015-12-31

資本主義の原動力

# グローバル化の最大の障壁は、グローバル人材の不足ではなく、経営人材の不足との指摘。商社に限らず、資本主義の原動力は未来に賭ける企業家精神。
--楠木建「商社3.0なんてものはない」
https://newspicks.com/news/1323455/

ツイッターより転載。誤字等は修正。

2015-12-30

移転より廃止を

# 移転より前に、廃止を考えてはどうでしょうか。
--文化庁の京都移転有力に=「一部機能」軸に検討−政府
https://newspicks.com/news/1323174/

# 日本語がおかしいですね。まるで小規模なものは営利目的ではないみたい。
--民泊を段階的解禁へ=小規模は来年、営利は18年までに−政府
https://newspicks.com/news/1323102/

# 安定を得るためには、不安定を覚悟しなければいけないということ。
--【山崎元】安定した収入を得られる人材価値を身に付けよう
https://newspicks.com/news/1322413/

ツイッターより転載。誤字等は修正。

2015-12-29

規制とマナー

# 非喫煙者ですが、喫煙規制には反対です。喫煙は他の多くの事柄と同じく、マナーの問題です。政府が関与すべきではありません。お上に何でも決めてもらう根性は、もう捨てましょう。
--受動喫煙防止、法制化へ=罰則規定は先送り
https://newspicks.com/news/1321832/

# 過去の戦争で女性の尊厳を傷つけたことが反省すべき行為ならば、現在の戦争で女性の生命を奪うことはそれ以上に許されないはずです。日本政府がさらに一方踏み出し、中東での空爆に反対を表明することを期待します。
--日韓外相会談 慰安婦問題で合意
https://newspicks.com/news/1320456/

# 加入逃れはけしからんと雇い主に保険料を支払わせれば、コスト高のため雇われない人が増えるでしょう。法律守って幸せ守れず。
--厚生年金の加入漏れ、全国に200万人 厚労省推計
https://newspicks.com/news/1321074/

ツイッターより転載。誤字等は修正。

2015-12-28

日銀が国債を買うから大丈夫?

# 長い記事ですが、ようするに日銀がお金を刷って国債を買うから大丈夫、といういつもの話。インフレにならなければ悪いことなはい、と。しかしバブル崩壊前夜の80年代も、物価は上がらなかったのです。
--「日本の借金1000兆円」はやっぱりウソでした~それどころか…なんと2016年、財政再建は実質完了してしまう!
https://newspicks.com/news/1319594/

# 政治的正しさ(PC)はいらない。マナーというものがあるから。政府から強制してもらう必要もない。親というものがいるから。ミーゼス研究所のジェフ・デイスト。
--PC Is About Control, Not Etiquette
https://mises.org/library/pc-about-control-not-etiquette-0

# かつて教会は、複雑な生物は全能の神がデザインしたと信じた。今の政府は、複雑な社会は賢明な自分たちがデザインしなければならないと信じている。進化生物学者マット・リドレーの新著をジョージ・ウィルがレビュー。
--The foolish ‘theism’ of government enthusiasts
https://www.washingtonpost.com/opinions/the-foolish-theism-of-government-enthusiasts/2015/12/25/5c623b4c-aa64-11e5-bff5-905b92f5f94b_story.html

# マイナンバーは怖くない、便利だって人だけ使えばいいんじゃないですか。なんでそう思わない人まで巻き込むのでしょう。
--「マイナンバー」って何のために始まるの? 担当補佐官の楠正憲氏にメリットを聞いてみた
https://newspicks.com/news/1320417/

# 五輪やるためにカネが必要。終わった後の反動を避けるためにカネが必要。結局いつもカネが必要。
--東京五輪、実質成長率毎年0.2─0.3%押し上げ=日銀リポート
https://newspicks.com/news/1320182/

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2015-12-27

差別禁止が招くもの

# 国内に研究開発拠点があればGDPを押し上げ。ただし経済の実体には何も変化なし。GDPって、しょせんその程度のものです。
--来年のGDP、15兆円アップ?…計算方法見直しにつき
https://newspicks.com/news/1318714/

# 差別の禁止を法律で強制すれば、不当な優遇だという不満や恨みが多数者の間に強まり、目に見えない陰湿な差別がむしろ広がるでしょう。政治家はいつも近視眼的です。
--性的少数者の差別禁止で法案=民主、与党と共同提出目指す
https://newspicks.com/news/1318701/

# 財政が少し苦しくなるだけでこういう事態を招くような制度設計しかできない政府に、消費増税で財源を増やしてやったからといって、有効に使われるとは思えません。
--介護事業者の倒産 過去最多に
https://newspicks.com/news/1318968/

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2015-12-26

高橋源一郎・SEALDs『民主主義ってなんだ?』


矛盾を直視する勇気を


「民主主義ってなんだ?」。これは共著者の学生団体SEALDs(シールズ)が安全保障関連法に反対して国会前で抗議した際、ラップに乗せて繰り返したことで有名になった問いかけであり、本書の題名でもある。しかし本書には最後まで、この問いに対する答えはない。それはこの学生たちの意義ある運動の将来に、暗い影を落としかねない。

民主主義の定義は、本来シンプルである。オックスフォード英英辞典によれば、民主主義(democracy)とは "a system of government in which all the people of a country can vote to elect their representatives"(全国民が投票で代表を選ぶことのできる政体)。他の英英辞典もほとんど同じだ。政府の一形態にすぎないとあっさり述べている。

一方、日本語の辞書では少し違う。デイリーコンサイス国語辞典によると、民主主義とはまず、「主権は国民にあるという思想。デモクラシー」である。政府の形態ではなく、思想とされている。しかし、これは別にいい。問題は、その後にこう付け加えられていることである。「自由・平等を尊重する思想」

大辞林でも、「人民が権力を所有し行使するという政治原理」という説明の後に、「現代では、人間の自由や平等を尊重する立場をも示す」と記されている。

つまり、民主主義とは自由や平等という価値も含む思想とされている。しかし、それはおかしい。平等はともかく、自由と民主主義は、水と油のように相容れないものだからである。

民主主義とは、英英辞典の定義によれば、権力を行使する政府の決め方だし、国語辞典の定義(の前半)によれば、権力(主権)は国民にあるという考えである。一方、自由とは、個人の権利が権力の干渉・介入を受けないことである。言い換えれば、民主主義とは権力を正当化する制度ないし思想であるのに対し、自由とは権力そのものを排除する思想に基づく。どうみても両立は難しい。

ところがSEALDsという団体名は、Students Emergency Action for Liberal Democracy - s(自由と民主主義のための学生緊急行動)の略だという。両立しない自由と民主主義を同時に掲げてしまっている。同じく党名で自由と民主主義をうたう自民党よりも、自分たちのほうがそれらの真の意味を知っているという気概を込めたらしい。しかしもしそうなら、このような矛盾した名前は付けるべきではない。

彼らも矛盾にうすうす気づいてはいる。中心メンバーの奥田愛基は「極端なこというと、八割の国民が『人殺しOKにしましょう』とか言ってもダメなものはダメなわけですよね」と発言する。そのとおりだ。民主主義の手続きをどれだけきちんと踏もうと、「ダメなものはダメ」である。

それでは、ダメと判断する基準は何なのか。残念ながら、奥田はそれ以上踏み込まない。「まあ、できるだけ民主的で、できるだけ自由で平等な社会が良いので、できることをやるしかない」とお茶を濁してしまう。そればかりか、「〔フランス革命で恐怖政治を断行した〕ロベスピエールみたいに殺しにいっちゃうかもしれない〔略〕でもまだまだ使える可能性があるっていうか」と、民主主義の危険性を認識していながら、それを無責任に擁護する。

議論をリードする役目の高橋源一郎も「二千五百年前から最近まで、まともな思想家はたいてい民主主義を否定していた」と重要な指摘をしながら、「結局、民主主義が最強最良じゃないか」とたいした根拠も示さず話をまとめてしまう。

高橋は初めのほうで、「大切なのは、言葉を定義しておくということ」と強調し、民主主義を運動のテーマとするSEALDsのメンバーに対し「民主主義についての定義を大事にしてほしいし、ある程度準備しておく必要がある」ともっともな呼びかけをする。しかし最後まで、メンバーの口から民主主義の定義が聞かれることはない。

あとがきでメンバーたちは、民主主義の定義は難しいという意味のことを述べる。「簡単には言葉にならないもの」(牛田悦正)、「容易に言語化できるものではない」(芝田万奈)といった調子である。

民主主義を団体名に掲げていながら困ったものだという気もするが、無理もない。専門家の作った国語辞典でさえ、民主主義が自由と両立可能という、矛盾した定義をしているのだから。英英辞典の記述は明確だが、欧米でも民主主義と自由の関係は必ずしもよく理解されていない。若いメンバーたちが民主主義の定義に悩み、ためらうのは、むしろ彼らの知的誠実の表れと考えよう。

しかし、もし本気でこの社会を変えたいのであれば、民主主義の定義という宿題をいつまでも先延ばししてはいけない。社会を変えるのは結局のところ思想の力であり、思想が力を持つためには論理的に筋が通っていなければならないからだ。

民主主義とは権力の肯定である。しかし、戦争にしろ貧困にしろ、社会のさまざまな問題は、権力で解決することは決してできない。権力の干渉を受けない、多数の個人の自発的な協力だけがそれを可能にする。民主主義を定義することで自由との矛盾を直視し、後者を選ぶ勇気を持たないかぎり、社会を良い方向に変えることはできない。

民主主義の問題点にも一応触れてあるので、本の評価は、期待を込めて高めにする。

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サンタはグローバルビジネス

# サンタクロース事業は広大なソーシャルネットワークと強力なブランドを築いたグローバルビジネス。商品の配送は親たちにほとんどゼロコストでアウトソーシング。お金儲けに人一倍うるさい投資家スクルージが絶賛……という楽しいコラム。FT紙より。
--'Dear Santa' - An Activist Hedge Fund Manager Addresses St. Nick's "One Long Party"
http://www.zerohedge.com/news/2015-12-25/dear-santa-activist-hedge-fund-manager-addresses-st-nicks-one-long-party

# お金儲けに人一倍うるさい投資家スクルージとは、この人。
--自由主義通信: ディケンズ『クリスマス・キャロル』
http://libertypressjp.blogspot.jp/2015/12/blog-post_13.html

# 米金融システムを脅かす巨額の債券発行残高。2008年の80兆ドルから現在100兆ドル。これをもとにしたデリバティブは555兆ドル。
--During the Next Crisis, Central Banking Itself Will Fail
http://www.zerohedge.com/news/2015-12-24/during-next-crisis-central-banking-itself-will-fail

# 今ごろ気づいたの?「論理的には、量的緩和とはもっぱら企業およびその株主である富裕層に対する補助金であるという結論に至る」
--量的緩和は「期待外れ」に終わるのか
http://jp.reuters.com/article/column-qe-idJPKBN0U80BE20151225

# 戦後、米国人の労働時間は減り、余暇が増大。社会主義者の大統領候補サンダース氏の長時間労働批判は的外れ。資本主義は労働者を助ける。
--Good News, Bernie Sanders: Average Workweeks Are Getting Shorter
http://fee.org/anythingpeaceful/good-news-bernie-sanders-average-workweeks-are-getting-shorter/

# 持ち帰りの客の気が変わり、店内で食べても税軽減。気が変わったという客で満席になり、正直に「店内で食べます」といった客は座れない事態も。税がまねくドタバタ。
--軽減税率、ギャグみたいなトンデモないトラブル多発!
http://biz-journal.jp/2015/12/post_12997.html

# 塩、固めた茶葉、動物の革、巨石、チーズ……世界の不思議なお金たち。でも一番不思議なのは、何の裏付けもない紙切れ。
--The World's Strangest Currencies
http://www.zerohedge.com/news/2015-12-23/worlds-strangest-currencies

# 金投資へのよくある批判。「金は利息が付かない」。でもお札だって貸し出さずにタンスにしまっていたら利息は付きません。一方、金も貸し出せば利息に当たる寄託料がもらえます。
--Why 'The Regime' Hates Gold
http://www.zerohedge.com/news/2015-12-24/why-regime-hates-gold

# 「金を資産防衞の選擇肢から排除するのは愚かなことである」拙稿より。
--金保有批判の愚 - ラディカルな経済学(旧館)
http://d.hatena.ne.jp/KnightLiberty/20130420/p1

# 米ケンタッキー州のベビン新知事、最低賃金引き下げの快挙。「賃金率は政府が決めるのでなく労働市場の需要で決まるべきだ」「最低賃金は雇用創出を妨げる。とくに未熟な労働者が初心者向けの仕事を探すのに不利」
--Kentucky Lowers The Minimum Wage
http://www.economicpolicyjournal.com/2015/12/kentucky-governor-state-should-have-no.html

# 重税を嫌って日本を去る企業は許せないと怒る人たちは、社会主義が嫌で逃げる市民は許せないと怒る独裁者とあまり変わりません。
--ソフトバンク、英移転を一時検討 節税・投資にメリット
https://newspicks.com/news/1317985/

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2015-12-19

水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』


資本主義は死なない


資本主義の死期が近づいている――。これが本書の根幹をなす主張である。果たして、資本主義は本当に死ぬのだろうか。

著者は、資本主義を「『周辺』つまり、いわゆるフロンティアを広げることによって『中心』が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステム」(「はじめに」)と定義する。しかし、この定義はマルクス主義の影響を強く受けている。内容もあいまいでわかりにくい。

もっと一般的な定義をみてみよう。コウビルド英英辞典では、資本主義(capitalism)を次のように定義する。"Capitalism is an economic and political system in which property, business, and industry are owned by individuals and not by the state." すなわち、「財産・企業・産業が政府ではなく、個人によって所有される経済・政治制度」である。イデオロギー臭がなく、明瞭だ。これら二つの定義を念頭に、著者の主張を検証してみよう。

著者によれば、資本主義の死が近づいているのは、もはや地球上のどこにもフロンティア(開拓領域)が残されていないからである。たしかに、著者の定義のように、資本主義がフロンティアを広げることによってしか存続できないとすれば、フロンティアの消失(それが事実かどうかは別として)は、資本主義の消滅につながるだろう。

だが、より一般的な定義に従えば、フロンティアが消失したからといって、資本主義が死ぬことはない。フロンティアの有無にかかわらず、財産・企業・産業が個人によって所有(私有)されている限り、それは資本主義だからである。

著者は、資本主義の死の兆候として、主要国で金利がゼロ近くに低下している事実を挙げる。経済の仕組み上、金利は利潤率とほぼ同じだから、これは利潤を得られる投資機会がもはやなくなったことを意味するという(第一章)。

しかし、この主張はいくつかの点でおかしい。まず、利回りがどんなに低水準でも、ゼロより大きい限り、利潤は増える。名目上の伸びはわずかかもしれないが、デフレで物価が下がれば実質価値は大きくなる。つまり投資機会はなくならない。

次に、利潤が平均すればわずかなものだとしても、個々には黒字の企業と赤字の企業がある。赤字続きの企業は淘汰されるだろうが、消費者の支持を集めた企業は、これまでと変わらず高い利益成長を遂げるだろう。

そして、一番重要なことだが、そもそも昨今の低金利は、資本主義を特徴づける自由な市場取引ではなく、政府・中央銀行の人為的な金融緩和政策がもたらしたものである。著者は文中で金融緩和政策に触れているにもかかわらず、低金利をあたかも自然な経済現象のように述べるのは、理解に苦しむ。

著者はまた、1980年代半ばから米国で金融業への利益集中が進んだのは、資本主義が原因だという。しかしこれも、米国の中央銀行である連邦準備銀行がマネーをあふれさせて人為的な株式ブームを起こし、金融機関を潤したことによる。

著者は、「むきだしの資本主義」は巨大なバブルの生成と崩壊をもたらすと述べる(第五章)。しかし上述のように、バブルを起こすのは自由な取引ではない。景気対策やバラマキ政策のためにマネーを氾濫させる政府・中央銀行である。

ようするに、本書で資本主義の問題点として列挙されたさまざまな経済現象は、政府がその元凶なのである。それに気づかない著者は、対応策として「少なくともG20が連帯して、巨大企業に対抗する必要があります」などと、さらなる政府の介入を主張する。

もし著者の提案どおり、各国政府がこれまで以上に経済への介入を強め、財産・企業・産業の所有権を個人から奪い続ければ、たしかに資本主義ではなくなっていく。ただし、それは著者の主張とは違い、歴史的な必然ではなく、政府権力の意図によってそうなるのである。

しかしそれでも、資本主義は死なないと断言できる。資本主義によって生み出される富がなければ、社会は貧窮化し、政府自身も存続できないからである。旧ソ連・東欧における社会主義の崩壊はそれを証明したし、日米欧におけるケインズ流の政府介入もバブルと重税で経済を疲弊させ、同様の道筋をたどりつつある。

本書には、公共事業やリフレ政策に対する批判など正しい指摘もある。しかし、資本主義が死ぬ運命にあるという根本の主張は、誤りである。

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2015-12-13

ディケンズ『クリスマス・キャロル』


守銭奴は悪くない


クリスマスの季節が近づくと、この小説が映画化・舞台化されるなどして、よく話題になる。残念なのは、主人公の商人スクルージが社会にとって迷惑でしかない、カネの亡者として描かれていることである。たしかにスクルージはカネの亡者かもしれないが、見えない形で、社会に恩恵をもたらしている。

まず、スクルージが長年商売を続けられているということは、多くの取引相手を満足させていることを意味する。取引相手はスクルージの性格を嫌っているかもしれないが、それでも取引を続けるのは、商売相手として信頼できるからである。スクルージは取引相手を満足させることで、間接的に取引相手の顧客も満足させ、社会全体の満足向上に貢献している。

また、スクルージは稼いだカネを貯め込んでいることから、守銭奴と非難されるが、カネを貯め込む人は社会に貢献している。銀行に預け、あるいは株式や社債を買えば、カネは企業の投資に使われ、生産力を高め、社会を物質的に豊かにする。

もし金融機関を信用せず、稼いだカネをすべてタンス預金にしたらどうだろう。この場合も社会に貢献する。世間に出回るカネの量が減り、物価が安くなるからである。

今の世の中では、物価が下がること(デフレ)は悪いことで、物価安をありがたがるのは無知の証拠だという迷信が広められている。しかし実際には、物価安は個人にとっても社会全体にとっても、良いことである。

そしてスクルージは、なんといっても、争いを好まない平和的な人物である。暴力は振るわないし、他人の物を奪うこともない。頭にきて「死ねばいい」と口走ってしまうことはあっても、行動に移しはしない。死者から物を奪い手柄を誇る盗人には、怒りを燃やす正義感もある。

社会に平和的な人物が一人でも増えれば、社会はそれだけ平和になる。スクルージはその意味でも、社会に貢献している。

社会をより平和にするために、スクルージにあえて一つ注文をつければ、自分の価値観を他人に押しつけないよう気をつけてほしい。クリスマスのお祝いをいう甥に向かって、スクルージは「めでたい理由がどこにある? 年が年中、素寒貧のくせにして」と毒づく。しかしカネがなければめでたくないというのは、スクルージの価値観にすぎない。甥が反論するとおり、カネがなくても幸せという価値観もありうるし、あっていい。

しかしこれも、スクルージだけを責めるのは酷だろう。スクルージの周囲の人々も、クリスマスは祝わなくてはならない、という自分たちの価値観をスクルージに押しつけているからである。「価値観の多様化」は平等でなければならない。

おそらく作者ディケンズの意図とは裏腹に、この小説を読んでいくと、スクルージが悪い人間ではないことがわかる。訳者があとがきで「人が何と言おうと誹ろうと、スクルージは断じて悪人ではない」と書いているとおりである。

しかしそれは、ディケンズが正直で優れた作家だったあかしでもあるだろう。商人というものの姿を、不自然なウソを交えず活き活きと描いた結果、それは暴力を振るわず、略奪もせず、争いを好まない人物にしかならなかったのである。政治家ではこうはなるまい。

スクルージに対する誤解を解いたうえで、平和を祈るクリスマスにふさわしい作品として読み継がれていってほしい。

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2015-12-05

佐伯啓思『自由とは何か』



混乱と迷走の果てに


かつてリベラリズムとは字義どおり、個人の生活に対する政府の介入を拒否し、小さな政府を求める自由主義(古典的自由主義、リバタリアニズム)を意味した。ところが現在この言葉は、政府の介入と大きな政府を求める、まったく逆の考え(社会民主主義)にほとんど乗っ取られようとしている。

相反する概念に同じ言葉を用いるのは、どう考えても無理である。このことに無自覚な議論は必ず混乱し、迷走する。本書はその典型といえる。

混乱が端的に表れているのは、第五章である。著者はリベラリズムを四つのタイプ(市場中心主義、能力主義、福祉主義、是正主義)に分ける。このうち市場中心主義は、政府の介入を最も強く拒否する立場であり、古典的自由主義、リバタリアニズムを意味する。

著者はハイエクに基づき、市場中心主義の特徴とは、市場が「運という偶然性によって左右されることを認めた」ところにあると述べる。この指摘は正しい。

ところが著者はしばらく後で、リベラリズムは「個人の属性から偶然性を排除することが自由につながる」と主張すると書く。これは前に述べたことと明らかに矛盾する。一方でリベラリズムの一種である市場中心主義は偶然を認めると述べ、他方でリベラリズムは偶然を排除すると書いているのだから。

人生から偶然を排除するという考えは、生まれや育ちによる不平等を政府の介入によってなくそうとする現代流のリベラリズム(社会民主主義)には当てはまっても、古典的自由主義、リバタリアニズムには当てはまらない。それは著者自身がハイエクに基づき書いたとおりである。

しかし著者はいつの間にかハイエクの議論を忘れ、リベラリズムをひとからげにして、偶然性を排除する浅はかな考えだと批判する。そして「ある種の偶然性を引き受けることこそが自由につながる」のだと得々と述べる。しかし、繰り返しになるが、それはリベラリズムの一種である市場中心主義(古典的自由主義、リバタリアニズム)も述べていることではないか。

この章は、リベラリズムを主題とする本書の理論的な中核ともいえる。そこで明らかな矛盾に基づく議論を展開するとは、お粗末としか言いようがない。

本書は古典的自由主義、リバタリアニズムに関する知識不足も目立つ。たとえば著者は第一章で、米国がイラクに自由をもたらすという名目でイラク戦争に踏み切ったことについて、「自由を、強制されずに自らの意思で何事かをなす状態と理解しておけば、アメリカによって強制された自由とはいったい何であろうか」と批判する。そしてこれは自由のディレンマ(矛盾)だと強調する。

たしかに、自由を強制するのは矛盾である。しかしリバタリアニズムの論客として有名なロン・ポール元下院議員は、一貫してイラク戦争をはじめとする米政府の海外軍事介入を批判している。19世紀英国の政治家で自由貿易論者として名高い古典的自由主義者リチャード・コブデンも、自国の海外軍事介入に反対したことで知られる。ここでも著者は、自分の議論に都合の悪い古典的自由主義、リバタリアニズムを無視している。

さて著者によれば、自由とは何かを達成するための手段にすぎないのに、リベラリズムはそれを目的と化してしまった。これはニヒリズム(虚無主義。客観的な価値をいっさい認めず、あらゆる宗教的・道徳的・政治的権威を否定する立場)にほかならないという(第六章)。

これも古典的自由主義、リバタリアニズムに関しては誤りである。古典的自由主義、リバタリアニズムには、正当な理由なく他人の生命・身体・財産を侵害してはならないという明確な道徳基準(非侵害公理)がある。

皮肉なことに、ニヒリズムに陥っているのは著者自身である。保守主義者の著者は、明確な道徳基準を持ち合わせていないからである。

著者が道徳基準の代用品として頼るのは、「共同の善」である。しかしこの「共同の善」とやらは、人間一般に普遍的な善ではない。特定の共同体、特定の国家における「善」にすぎない。

これが明確な道徳基準になりえないことは明らかである。ある共同体・国家の内部に「共同の善」なるものがかりにあったとして、それが他の共同体・国家における「共同の善」と対立した場合、どちらが正しいかを判断する基準は存在しないからである。

そのことは著者自身こう認める。「イスラム過激派のテロリズムを本当の意味で断罪することはできない。……オウム真理教についても同じである。それが絶対的に『誤っている』と言うことは難しい」

驚くべき発言である。罪もない人々を殺傷するテロリズムを誤りといえないとは、これ以上のニヒリズムがあるだろうか。

挙句の果てに著者は、ハイデガーを引き合いに出し、「人間は死に向かって自由である。死こそが人間の自由の根本条件である」などと言い出す。ついていけない。死を根本条件とする自由とは、もはや普通の意味における自由とはいえない。

そう思っていると著者自身、「こうなると、本書の議論は通常いうところの『自由』からは大きく離れてしまっているのではなかろうか。確かにそうだ」と認める。これには思わず苦笑した。自由について学びたいと思って本書を手に取った読者は、困惑するばかりだろう。

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2015-11-28

池上彰『世界を変えた10冊の本』



マルクス擁護の誤り


マルクスを擁護する言論人は、ソ連や東欧の社会主義は失敗したけれども、資本主義に対するマルクスの洞察は鋭く、正しかったと主張する。

本書の著者も、マルクスの主著『資本論』を紹介した章で、マルクスをそのように高く評価する。「資本主義の欠陥を知った上で、その問題点を、どう乗り越えればいいのか。資本主義の欠陥を知る上では『資本論』が役立ちます」

しかし、それは本当だろうか。資本主義に対するマルクスの理解は、本当に正しいのだろうか。皮肉なことに、著者自身によるわかりやすい解説を読むだけで、マルクスの考えのおかしさがわかる。

資本主義の基本は取引、つまり物と物を交換することである。マルクスによれば、物と物を交換できるのは、物と物の「交換価値」が同じ場合だという。著者の解説ではこうなっている。「鉛筆一〇本と消しゴム五個とが交換でき、シャープペンシル一本とも交換でき、さらにカップ麺一個と交換できる。A商品x量=B商品y量=C商品z量……というように、さまざまな商品が、それぞれの量に応じて、他の商品とイコールで結ばれていきます。比率が異なることで、いずれも同じ交換価値があるからです」

思わずうなずいてしまうかもしれない。しかし、ちょっと考えてほしい。もし二つの物の価値が同じなら、どうしてわざわざ交換する必要があるのだろうか。

一番わかりやすいのは、二人が同じ商品を持っている場合である。たとえば、あなたと私が同じブランド、同じ味のカップ麺を一個ずつ持っているとしよう。同じ商品だから、マルクスの考えによれば、価値は同じである。しかし、あなたも私も、それをわざわざ交換しようとは思わない。時間と手間ばかりかかって、何の得もないからだ。

人が物を交換するのは、マルクスの主張とは異なり、自分の物と相手の物の価値が同じときではない。自分の物よりも相手の物の価値が高いと思ったときである。

たとえば、私がシャープペンシル一本を持ち、あなたがカップ麺一個を持っているとしよう。私が「シャープペンシルよりもカップ麺の価値が高い」と思い、あなたが「カップ麺よりもシャープペンシルの価値が高い」と思ったとき、二人は持ち物を交換し、互いに満足する。

ここからわかるように、物の価値が高いか低いかは、人の見方によって変わる。ある人はカップ麺の価値はシャープペンシルよりも高いと考え、別の人は低いと考える。言い換えれば、物の価値とは主観的なのだ。物自体に客観的な価値があるという、マルクスの考えは間違っている。

マルクスやそれ以前の時代には、物の価値は客観的なものであるという「客観価値説」が信じられていた。しかし19世紀後半、メンガーらによって「主観価値説」が唱えられ、これが近代経済学の基礎となっている。

物が交換されるのは価値が同じだからというマルクスの誤った主張は、『資本論』の冒頭で述べられ、それ以降の記述の前提となっている。前提が誤っている以上、本全体で述べられた理論が正しいものになるはずはない。

たとえば、上で述べたように、交換は売り手と買い手が互いに得をすると考えたときに行われる。だとすれば、労働サービスを売る労働者が、それを買う資本家から一方的に「搾取」されているという主張は正しくない。

マルクスの考えをわかりやすく解説しただけの著者を批判するのは、酷と感じるかもしれない。しかし著者は自分の意見を述べた部分でマルクスの資本主義理解を高く評価しているから、批判は免れない。

本書は他にも、ミルトン・フリードマンの主張を「強者の論理」と呼んだり、ダーウィンの章で自由放任主義を「弱肉強食」と同一視したり、俗説を無批判に受け入れた記述が目立つ。ジャーナリストとしての著者には好感を持つ部分もあるが、本書については高い評価はできない。

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2015-11-22

井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』



壮大なダブルスタンダード


リベラルの基本的な価値は自由ではなく正義である、だからリベラルが二重基準(ダブルスタンダード)を使ったら、正義に反し、リベラルの主張そのものが自壊してしまう、と著者は強調する。ところが著者自身、主張の根幹にかかわる部分で二重基準の過ちを犯している。

二重基準とは、著者の言葉を借りれば、「ある状況で、自分の他者に対する要求を正当化するために、ある基準をもってくる。しかし、別の状況で同じ基準を適用すると自分に不利な結論が正当化されてしまう場合、今度は別の基準を援用して、自分に有利な結論をみちびこうとする」こと。一言でいえば、「基準のご都合主義的な使い分け」である。

さて著者は、「強盗の脅迫と、法は、どこが違うのか」という法哲学の基本的な問いについて、「主権者命令説」を紹介する。それによれば、強盗が「金を出せ。出さないと撃つぞ」というのと、国家が「税金を払え。払わないと刑務所にぶちこむぞ」というのは、どこも違わない。違うとすれば、国家というのは、その領域内最大・最強の暴力団であり、山口組やオウム真理教より強い、それだけの違いにすぎない。

だがこの説は間違っているとして、著者は以下のように論じる。第一に、法と強盗の脅迫の区別は「正義要求」の有無にある。強盗の脅迫は、単に金を出せと要求しているだけで、それが正義に合致していることを承認しろなどと要求したりしない。しかし、法は、悪法ですら、みずからが正義にかなっているということの承認を、服従する人たちに求めている。

第二に、法が正義適合性の承認を人々に求める以上は、服従する人たちが、その法の正義適合性を争う権利が、最低限保障されていなければならない。不利益な処分に対する不服申し立ての機会の保障、裁判を受ける権利の保障、政権交代による法改正を可能にする民主政、違憲審査制、市民的不服従や良心的拒否に対する人道的処遇などである。「最後まで全部やれば、いちばん手厚く保護しているんだけど、そこまでいかなくても、不利益処分を受ける者に対して、最低限、不服申し立ての機会を提供する」ことが必要だと著者はいう。

けれども、これらの議論はおかしい。第一に、みずからが正義にかなっているという主張は国家の専売特許であるかのように著者はいうが、そんなことはない。ドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは、強欲な金貸しの老婆を殺せば借金に苦しむ人々が救われるし、その金を奪えば貧しい自分の将来も開けるという考えによって、殺人を正当化した。

フランス革命やロシア革命で多数の富裕層・中間層が殺されたのは、ラスコーリニコフと同様の正義による。現代の先進国政府は、裕福であることを理由にあからさまな殺人こそやらないものの、同じように、金持ちから金を取り上げて正しい目的に役立てるのは当然という思想に基づき、課税によって富裕層・中間層から財産を収奪している。自分は正義であると主張する点において、ラスコーリニコフと何も変わらない。

第二に、国家が法は正義と主張する以上、それが本当かどうかを争う権利を国民に「最低限」保障しなければならないと著者はいう。そして、裁判を受ける権利や違憲審査制、良心的拒否に対する人道的処遇まではいかなくても、不服申し立ての機会さえあれば、それが「最低限」の保障になるという。

しかし、この「最低限」の線引きはまったく恣意的である。なぜ、不服申し立ての機会だけで十分なのか。いうまでもなく、不服申し立ては認められるとは限らない。

オウム真理教が多くの市民を「ポア」と称して殺害した際、殺す前に不服申し立ての機会さえ与えていればよかったとは、著者はいわないはずである。

そうだとすればなぜ、国家の場合に限って、不服申し立ての機会を与えるだけで、個人の財産のみならず、生命までも自由にすることが許されるのか(著者は、国が戦力を保有する場合には徴兵制でなければならないと主張している。ただし、なぜかこの場合だけは良心的兵役拒否を認めよという。良心的課税拒否は認めなくても許されるのに)。

まとめよう。著者は、「民間」の犯罪者が個人の財産・生命を奪うことは許されないとする一方で、国家には許されると主張する。しかし自分の正義を主張する点で、「民間」の犯罪者と国家に違いはない。だから国家だけを特別扱いするのは二重基準である。また、個人の財産・生命の侵害に際し、「民間」の犯罪者には認められないような甘いハードルをクリアするだけで、国家は免罪される。これも二重基準である。「基準のご都合主義的な使い分け」に他ならない。

著者がここまで躍起になって国家を擁護するのは、たとえ悪法であっても国家が法を強制しなければ、「アナーキー状態になる」という心配からである。正しくいえば無秩序状態のことだろう。だがハイエクが述べるように、そもそも法とは国家の設計からではなく、民間の慣習から生まれ、発展したものである。違反者に対する制裁も民間で行われ、機能していた。国家による法の独占こそ、むしろ社会に無秩序をもたらしている。

本書の根幹をなす主張は、正義の実現のために国家の役割を肯定し、国家を擁護することである。ところがその主張は、著者自身がリベラリズムと正義に反すると非難する二重基準によって成立している。つまり本書そのものが壮大なダブルスタンダードであり、リベラリズムの根本的な矛盾をさらけ出しているのだ。

愛国心を強制してはならないなど評価すべき発言はあるものの、主張の大筋が論理的に破綻した本を高く評価することはできない。

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タイトル変更

ブログのタイトルを「リバタリアン通信」から「自由主義通信」に変更しました。

リバタリアンという言葉を知らない人にはとっつきにくいと思い、ひとまずこうしてみます。

2015-11-14

ランド・ポール『国家を喰らう官僚たち』


議会に権力を取り戻せ?


著者は今回の米大統領選に出馬中の若手上院議員(共和党所属)である。徹底した自由主義者として知られるロン・ポール元下院議員の息子でもある。本書は、米国での政府による個人の権利侵害を詳細に暴き、批判したところが評価できるが、解決の処方箋にやや問題がある。

著者は規制官庁によるさまざまな権利侵害を告発する。そこで述べられた多くの事実はたしかに、許しがたいものである。

たとえばアイダホ州のある夫婦は、家を建てようとした土地が保護対象の湿地に当たると環境保護庁(EPA)から一方的に断定され、家の建築を停止しすでに完成していた部分をすべて撤去したうえに、湿地の環境と適合する樹木と灌木を植えるよう命令された。多額の費用をかけてこれらの作業をした後も、夫婦は自分の土地を使っていいかどうかEPAが決定を下すまで何年も待たされる。もし命令に従わず、拒否した場合は、一日ごとに罰金が科されてその総額が資産価値を上回ってしまうという。

著者は「官僚の形式主義に抵触した罪で投獄されるような国は、誇るべきアメリカではない」と憤り、官僚の責任を糾弾する。もちろん、規制を直接運用する官僚の責任は大きい。だがともすれば官僚批判は、「政治家に任せれば大丈夫」という誤った考えにつながりやすい。案の定、本書はその誤りに陥ってしまっている。

著者は政治家の責任に言及し、次のように書く。「本書はその意味で、議会の権力放棄の物語である。議会は憲法による正当な権力を、暴走する規制官庁の官僚機構に譲り渡し、権力の乱用を許してしまっているからだ」。つまり、政治家、とくに議会の落ち度は権力を放棄したことにあり、官僚から権力を取り戻せば問題は解決するというわけである。

しかし権力を議会の手に取り戻したとしても、問題は解決しない。なぜなら第一に、政治的動機で動く議会は、官僚と同じく、経済合理性に基づいた判断ができないからである。著者は「規制というものは合理的で経済的妥当性がなければならない」というが、そのような規制は議会にも不可能である。

第二に、暴走する官僚から権力を取り戻した議会自身が、暴走しないという保証はどこにもないからである。権力の持ち主を変えるだけでは、問題の本質は変わらない。権力そのものを弱めなければならない。著者が小さな政府を目指すことは評価できるが、「官僚は悪玉、議会は善玉」という単純な構図を強調すれば、その目標は遠のきかねない。議会は政府の一部だからである。

邦訳は、こうした原著の短所に輪をかけてしまっている。原著のタイトルは『政府のいじめ(Government Bullies)』なのに、邦訳はわざわざ「官僚」という言葉を使っている。また、原著では各部の最終章がいずれも「どうすれば問題を解決できるか(How Can We Solve the Problem?)」と題されているが、邦訳では「官僚機構の暴走を止めるには」。これでは日本の読者はますます、「悪いのは官僚」「政治家に任せれば大丈夫」という誤った考えを抱いてしまうだろう。

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2015-11-07

山岸俊男『「日本人」という、うそ』



「正しいいじめ」はある


いじめに関する議論があらためて盛んになっている。10月27日には文部科学省が、岩手県で中学2年の男子生徒がいじめを苦に自殺したとみられる問題を受け各都道府県の教育委員会が2014年度のいじめについて再調査した結果、当初の集計より約3万件増えたと発表。11月1日には、名古屋市で中学1年の男子生徒がいじめを受けたと書かれた遺書を残し自殺した。

メディアでみられる論調の多くは、いじめはとにかく悪い、なくさなければならないという内容である。しかし、それは正しいだろうか。社会心理学者の著者は、いじめをする心には「マイナスの側面だけでなく、プラスの側面もある」と異を唱える。

著者はまず、不良のグループが暴力で脅して金を持ってこさせるようなケースは、恐喝・暴行というれっきとした犯罪だとして、いじめなどという曖昧な言葉で呼ぶことに反対する。一方、特定のクラスメートを仲間はずれにしたり無視したりする、「しかと」にあたるケースは、被害者の心を傷つけるものではあっても、犯罪とはいえないと述べる。

そのうえで、「しかと」のような「排除」は、恐喝や暴力と違い、「上からの権力に頼らないで、自分たちで自発的に集団や社会を維持していくために欠かすことができない行動原理」とみなしうると指摘する。

著者はこう説明する。大人の集団で、周囲に迷惑をかけても平気な人物がいたら、警察に代表される公権力に頼るか、自分たちで困った人物を排除するように努力するか、どちらかの方法しかない。だがすべてのトラブルの解決を警察に頼り切ることには大きな問題がある。日常の小さな紛争にまで公権力が介入するようになっては、行動の自由もない警察国家・監視国家が生まれる危険性があるし、そのような警察国家を維持するには大変なコストを必要とする。

だから権力に頼ることなく、自分たちで社会の秩序を維持するのが一番いい解決法である。そのためには、暴力によらない排除、つまりいじめによるしかない。

子供の集団でも同じである。もちろん、子供である以上、理不尽ないじめ、度を超したいじめが起こる余地はつねにある。しかしだからといって、上からの監視や教育によっていじめをなくそうとするべきではない。それは教室内をミニ警察国家にし、「自分たちで自発的に社会秩序を作っていくという、人間にとって一番重要な心の働きを取り去ってしまう」からである。

以上の分析を踏まえ、著者は学校教育に対し次のように提言する。まず子供たちに、自発的な秩序を作るための「正しいいじめ」と、恣意的・理不尽な理由による「正しくないいじめ」の区別をつけさせる。そしてもし、「正しくないいじめ」が行なわれているのであれば、それは止めるべきであるし、場合によってはそのようないじめをしている仲間には制裁を加えるべきだということも、教える。「今の日本の学校では、こうしたことがきちんと行なわれていないために……いじめ行動がエスカレートしてしまっている」のである。

2008年に刊行された単行本を改題・文庫化したものだが、偶然にもきわめてタイムリーな再登場となった。いじめ問題を感情的な議論に流されず考えるうえで必読の一冊である。

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2015-10-31

ファング『ヤバい統計学』

CCCメディアハウス
発売日 : 2011-02-18

統計学の限界を知る


統計学は有用な学問だが、限界もある。本書は統計学の有用性を述べるだけでなく、類書が避けて通りがちな限界についても率直に述べた、誠実な本である。

統計学は、物事の相関関係を調べる学問である。相関関係とは、一方が増加すると他方が増加または減少する数量的な関係を指す。

相関関係と混同されやすいものに、因果関係がある。因果関係とは、原因と結果の論理的なつながりを指す。二つの現象に相関関係があるからといって、因果関係があるとは限らない。夏服を着る人の多くが汗をかいているからといって、夏服が汗の原因だとはいえない。

統計から相関関係を知ることはできても、因果関係を知ることはできない。因果関係は数量的な関係ではなく、論理的な関係だからだ。

著者は包み隠さずこう書く。「統計学者も認めているように、知識や経験に基づく推測だけを表すという意味で、統計モデルは常に『間違っている』」

だから統計学に詳しい研究者ほど、その限界に鋭い感覚をもつ。著者によれば、たとえば疫学者である。病菌原因を突き止めるため、統計だけに頼らず、微生物学者や農業部門の調査官、患者など、統計以外のさまざまなところに裏づけとなる証拠を求める。「原因解明が最大かつ究極の目標であり、それ以外の成果は意味がない。彼らの判断ミスは、経済と消費者の信頼に破滅的なダメージを与えるからだ」。これが学問の厳しさというものだろう。

さてそれに引き換え、本書では触れていないが、同じく統計を多用する経済学者の場合はどうだろう。たとえば安倍晋三首相の経済ブレーンで内閣官房参与を務め、アベノミクスの理論的な柱となってきたエール大名誉教授の浜田宏一は、2013年のインタビューでこう述べた。「1960年から72年までの高度経済成長の時期、日本は毎年、ヒト桁のインフレを続けていました。いま経済成長が著しい中国でも、年に3〜4%のインフレが起こっています。経済成長に伴って適度のインフレが起こるのは、極めて正常な現象なのです」

インフレの時代に経済成長が続いたというのは、相関関係にすぎない。だからインフレが経済成長の原因だとは限らないし、金融緩和でインフレを起こせば経済が良くなるともいえない。もしそう主張したいのなら、疫学者のように、統計以外に裏づけを示し、因果関係を証明しなければならない。しかし浜田はこのインタビューでもそれ以外の場所でも、他のリフレ派エコノミスト同様、インフレと経済成長について満足のゆく因果関係を示していない

浜田によれば「極めて正常」だったはずの中国経済はこのところ減速が明らかとなり、不動産バブルの背後で地方政府が債務危機に直面している。アベノミクスが統計学の限界をわきまえないお粗末な「経済理論」の上に成り立ち、実行されているとすれば、日本経済の先行きも楽観はできない。

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2015-10-24

森本あんり『反知性主義』

反権力の思想


最近よく聞かれるようになった「反知性主義」という言葉は、わかりにくい。字面だけ見れば、知性をむやみに敵視・蔑視する無知蒙昧な考えを指すように思えるし、事実、評論やエッセイのたぐいではそのような意味で使われる場合がほとんどである。

私自身、この有益な本を読むまでは、そう思い込んでいた。しかしそのような誤解が生まれるのは、後述するように、読者の側だけの落ち度ではないと思う。

著者によれば、反知性主義とは、最近の大学生が本を読まなくなったとか、テレビが下劣なお笑い番組ばかりであるとか、政治家たちに知性が見られないとか、そういうことではない。もともと現代米国社会を分析するため研究者の間で使われてきた用語で、「知性と権力の固定的な結びつきに対する反感」を指すという。

そうだとすれば、あえて反知性主義という言葉を使う必要はなく、「反権力主義」でよいのではないだろうか。知性そのものを敵視するわけではなく、知性が権力と結びつくことを問題視するのだから。

著者が列挙する、反知性主義が米国の政治制度や輿論に影響を及ぼす具体例は、いずれもすこぶる興味深い。しかしそれらは、「反知性」よりも「反権力」をキーワードにするほうが理解しやすい。

たとえば、政教分離である。政教分離というと、日本では政治から宗教を追い出して非宗教的な社会を作ることであるかのように解釈されるが、そうではない。真の信仰の自由は「国家が特定の教会や教派を公のものと定めている間は、けっして得ることができない」という考えに基づく。

また、三権分立である。権力を立法・司法・行政に分断して互いを監視させるこの制度の背景には、「地上の権力をすべて人間の罪のゆえにしかたなく存在する必要悪と考え、常にそれに対する見張りと警戒を怠らない」という精神があるという。

とくに興味深いのは、米国特有の反進化論の風潮である。日本人はよく、世界一の先進国である米国で、進化論を否定し、学校で教えることに反対する人が多いことに驚き、嘲笑する。しかし著者によれば、「彼らの反対は、進化論という科学そのものに向けられているのではなく、そのような科学を政府という権力が一般家庭に押しつけてくることに向けられている」。政府公認の教科書に載る知識はつねに正しいと信じる人々に比べれば、むしろ健全だろう。

反知性主義を社会の健全さを示す指標ととらえ、「日本にも……真の反知性主義の担い手が続々と現れて、既存の秩序とは違う新しい価値の世界を切り拓いてくれるようになることを願っている」という著者の主張には、反知性主義という言葉のわかりにくさは別として、賛成である。

残念なのは、副題と帯の惹句である。副題は「アメリカが生んだ『熱病』の正体」、惹句は「いま世界でもっとも危険なイデオロギーの根源」。これでは誰も、反知性主義に本文で述べられたような肯定的な意味があるとは思うまい。出版社の意向なのかもしれないが、本の趣旨とまるきり矛盾するというのはひどい。

もし著者なり出版社なりが、反権力という本質をストレートに訴えたのでは読者に受けないと考えたのであれば、それ自体が日本の知的状況の危うさを示している。

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2015-10-17

橋爪大三郎・佐藤優『あぶない一神教』


杜撰な資本主義論


もし資本主義を、国家(政府)のコントロールの効かない自由放任経済と定義するならば、国家と経済が一体化した経済体制を資本主義と呼ぶのはおかしい。ところが日本の言論人の間では、このおかしな議論をよく目にする。

佐藤優(元外務省主任分析官)は、橋爪大三郎(社会学者)との対談本である本書で、そのおかしな議論を展開する。

佐藤は「資本主義というものは、本質的に放っておけば暴走します」と述べる。すなわち資本主義の本質は、国家のコントロールを振りほどいて勝手に「暴走」するところにあるというわけである。

ところがその直後、佐藤は資本主義が「暴走」した例として、経済学者・中谷巌の体験談を持ち出す。

中谷は新自由主義(自由放任主義)の旗振り役として知られていたが、あるとき、資本主義の総本山であるはずの米国では国家や政治エリートと結びついた超富裕層がインサイダー取引をやっていて、健全な市場はほとんど残されていないことに気づいた。きわめて不公平な状況で、嫌気がさしたと中谷は話したという。

このエピソードを受け、佐藤は「暴走する資本主義をどうコントロールするのか。そもそもコントロールは可能なのか。そこが何よりも難しい」と述べる。

しかし、これはおかしい。もし資本主義が国家の手を離れた自由放任経済だとすれば、超富裕層が国家と「結びついた」経済体制を資本主義と呼ぶのは矛盾である。

経済が国家と癒着したそのような経済体制は、ルイジ・ジンガレスの言葉を借りれば「クローニー(縁故)資本主義」であり、トーマス・ソーウェルにならって「ファシズム」と呼んでもよい。いずれにせよ、自由放任的な資本主義とはまったく異質なものである。

まったく異質なものを同じ資本主義という言葉で表すような杜撰な議論から、なんであれ有益な知見が得られるとは思えない。

佐藤はこの後、「国家と資本主義は絶対に分離しないといけない」という橋爪の主張に同意し、安倍晋三首相が語る「瑞穂の国の資本主義」は経済の国家統制につながる危険性をはらむと述べる。それ自体はよい。

ところが佐藤は同じく今年出版した『世界史の極意』(NHK出版新書)では、国家が市場経済に積極介入するファシズムを再評価し、日本の政策に取り入れよと提言している。本音はやはりこちらなのだろう。

宗教について多少耳新しい知識が得られるとしても、論理的に杜撰で、他著と矛盾したことを平気で述べるような本を、高く評価することはできない。

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2015-10-10

ラ・ボエシ『自発的隷従論』

拒税革命の可能性


革命という言葉から普通の人が思い浮かべるのは、多くの犠牲者と流血を伴う暴力革命だろう。しかし、政府の不当な支配を覆すのに暴力はいらない。国民がもはや政府を支えないと決意しさえすればよい。なぜなら権力の支配は、究極的には国民の同意によって成り立つものだからである。

17世紀フランスの思想家、ラ・ボエシはまだ20歳にも満たない青年時代に本書を著し、権力の支配は国民の自発的な協力によって初めて可能になるという洞察を明らかにした。それがいかに横暴な圧政であってもである。

この主張には違和感を覚えるかもしれない。絶大な権力を握る独裁者であれば、暴力と恐怖によって一方的に支配すればよく、国民の同意などいらないではないか。

そうではないとラ・ボエシは論じる。独裁者はたった1人である。2人の者が1人を恐れることはあろうし、10人集まってもありうる。だが、100万もの人間が1人の権力者におとなしく隷従する場合、それは臆病からではありえない。国民の側が隷従に同意しているからである、と。

人間は本来自由を好むはずなのに、なぜやすやすと隷従に甘んじるのか。それは習慣のせいだとラ・ボエシは喝破する。生まれながらにして首に軛(くびき)をつけられている人々は、自分たちはずっと隷従してきたし、父祖たちもまたそのように生きてきたと言う。彼らはみずから、自分たちに暴虐を働く者の支配を基礎づけているのである。

しかしひとたび習慣の惰性から人々が目覚めれば、圧政を覆すのは難しくない。なぜなら権力者の支配は、国民の側の同意がなければ永続しえないからである。

ラ・ボエシは書く。権力者には立ち向かう必要はなく、うち負かす必要もない。「なにかを奪う必要などない、ただなにも与えなければよい」。そうすれば、「そいつがいまに、土台を奪われた巨像のごとく、みずからの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろう」

「ただなにも与えなければよい」というラ・ボエシの提案は、現代の先進国でいえば、税の支払い拒否にあたるだろう。国民が不当な課税という隷従に同意せず、一斉に納税を拒めば、政府は全納税者を投獄するわけにもいかず、「土台を奪われた巨像のごとく」崩れ落ちるしかない。

トルストイやガンジーの非暴力主義にも影響を及ぼしたとされるラ・ボエシは450年以上も前に、平和裏に実現しうる「拒税革命」の可能性を示唆したのである。

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2015-10-04

佐々木俊尚『21世紀の自由論』


机上のリアリズム


著者は本書の冒頭で問いかける。「生存は保証されていないが、自由」と「自由ではないが、生存は保証されている」のどちらを選択するか、と。そしてその問いに対し、後者を選ぶ。しかしその考えは誤っている。なぜなら自由ではない社会で、生存を保証するための富を生み出すことはできないからである。

流動化する現代の社会では、あらかじめ目的地を定めることはできず、「自動車のように機動力を生かし、迅速に状況を判断しながら、自分の生存をかけてリアルタイムの戦略を立てていく」ことが求められると著者は言う。

しかし、状況を判断するには適切な情報が要る。富を作り出す経済活動にとって、最も重要な情報は価格である。だが財やサービスの売買が自由でなければ、取引は成立せず、したがって価格を知ることはできない。

ソ連に代表される旧社会主義国では、工場や機械といった生産手段の私有が禁じられ、市場で売買もできなかった。だからそれらの価格を誰も知ることができなかった。価格がわからなければ、効率よい配置も生産もできない。その結果、社会主義経済は破綻した。

著者は、情報通信テクノロジーによって支えられる、新しい共同体のあり方を提言する。だがテクノロジーの発展には、経済活動の自由が欠かせない。著者も指摘するように、かつて蒸気機関やガソリンエンジンといった新たなテクノロジーの登場は、社会のあり方を大きく変えた。しかし、これらの技術が産業に結実して大きく発展できたのは、政府による規制が当然になった現代とは異なり、企業活動にはるかに大きな自由が認められていたからである。

「自由を求める人もこの社会にはいるだろう。しかしそれは少数派だ」「大多数は、自由よりも安逸な隷従を求めるのではないだろうか」と著者は言う。そうかもしれない。しかしもしそうだとしても、学問の進歩を切り拓く優れた研究者や、産業の発展を促す天才的な企業家といった少数の人々の自由を禁じれば、テクノロジーは発展しないし、多数の人々に分け与える富も生み出せない。そして誰が優れた研究者や企業家であるか事前にわからない以上、すべての研究者や企業家に自由を認めるしかない。

経済の自由がなければ、持続的に富を生み出すことはできず、大多数の人々の生存を支えることはできない。著者はしきりに「リアリズム」の重要性を強調するが、それは経済の現実に対する理解を欠いた、机上のリアリズムでしかない。

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2015-08-02

近藤ようこ『仮想恋愛』



なぜ「不健全」なメディアを規制してはならないか


三十年来愛読しているマンガ家、近藤ようこの初期作品集。まだ作者を知る以前に発表された、今回初めて読む作品ばかりが収められている。出版されたことに感謝したい。

収録された作品はいずれも、当時二十四歳の若者らしく、娯楽性よりも文学性が前面に出た、やや観念的なものである。それでもわかりにくい話は少なく、作者の特徴である涼やかで美しい描線を早くも楽しむことができる。女性教師が主人公の「籠りの冬」は、のちの「遠くにありて」を連想させる。

意外なことに、1980年代前半にこれらの作品が掲載されたのは、実験的なマンガを載せることで知られた雑誌「ガロ」などではなく、「漫画エロス」「マンガ奇想天外」といったエロ劇画誌だった。

作者はあとがきで、「原稿料の出ない雑誌に描く余裕は私にはなかったのです」と当時を振り返っている。「少ないページ数、安い原稿料の仕事が月に一、二本しかなかったのに、よく生活できていたものです」

エロ劇画誌などの「不健全」なメディアは、青少年に悪影響を及ぼすとして条例などでしばしば規制される。しかし「不健全」なメディアは、駆け出しの若い作家がたとえわずかでも生活の糧を得る貴重な場でもある。

作者が昨年出版した『五色の舟』(津原泰水原作)は、第18回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞を受賞した。もし「不健全」なエロ劇画誌がなかったら、作者はもしかするとマンガ家になることすらできず、政府から栄えある賞を受けることもなかっただろう。「不健全」なメディアを規制すれば、「健全」な文化も育つことはできないのである。

発売記念サイン会(8月16日)
アマゾンレビューに転載】

2015-07-26

財政破綻は悪か

日本がこのままでは財政破綻するとの見方に対し、政府はカネをいくらでも刷ることができるから、破綻はありえないとの反論がある。しかしそのような方法で破綻を避けても、政府とその関係者に都合が良いばかりで、一般国民には害悪をもたらす。一刻も早く破綻を宣言するのが最善の道である。

経済評論家の渡邉哲也は『この残酷な世界で日本経済だけがなぜ復活できるのか』(徳間書店)で「自国通貨建ての債務では国は破綻しない」と書く。国家には原則として通貨発行権、すなわちカネを刷る権限があるからだという。日本の場合は、日銀が円紙幣を無尽蔵に刷り、それを国債の償還に充てることができる。

これは形式的には正しい。カネを大量に刷ればやがて物価高を招き、政府が返す一万円は借りたときの一万円に比べ価値が薄まるから、実質的には借金を一部踏み倒すのと同じである。それでも形の上では債務不履行したことにならない。カネを刷り続ける限り、及ぼす影響はともかく、少なくとも財政破綻することはない。現にこれまでもそうしてきた。

さてそれでは、この手段で財政破綻を避け続けることは、一般国民にとって望ましいだろうか。とてもそうは言えない。今述べたとおり、政府がカネを刷れば刷るほど、国民が保有している現金の価値は薄まる。実質的に税金を取られるのと同じである。しかも通常の税と異なり、国会での審議もなく、税率はロシアンルーレットのように不透明かつ不平等である。

カネの量を増やすと、バブル景気をもたらす副作用もある。これは安倍政権が掲げる「アベノミクス」そのものであり、経済が一時好転したように見せかける効果はあっても、企業の生産力が強くなるわけではないから長続きせず、むしろ反動で不況が襲う。

渡邉はユーロ加盟国の金融危機に言及し、「共通通貨のため自国通貨建てでありながら自国でお金を刷れないという構造にあることが最大の問題」と書く。しかしもし自由にカネを刷れたなら、問題を当面先送りできても、将来危機が深刻になるだけである。ギリシャやスペインがカネを刷れずに緊縮財政を強いられていることは、長い目で見れば国民にとってむしろ幸いなのである。




残念ながら、日本円にはユーロのような歯止めがない。財政が破綻すれば政治家や官僚は責任を免れないから、政府は増税の一方で、さらに盛大にカネを刷り続けることだろう。これは国民の財産を侵し、経済を疲弊させる。

正しい選択は、潔く財政破綻を宣言し、国債の元利払いを一切やめることである。むろん金融や経済への影響は小さくなかろうが、清算を先延ばしすればツケは大きくなるばかりである。

(2013年9月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2015-07-25

近藤ようこ『遠くにありて』



きれいごとでない地方論


最近はNHKの里山資本主義をはじめ、地方の生活をやたらと美化した地方論が目立つ。しかしこのすばらしいマンガはそんなきれいごととは対照的に、イヤな部分も含めて、地方生活の真実を描く。

「俗悪で非文化的な」市街地。よそ者を受け入れない排他性。個人生活への干渉。大学を卒業してUターンしたものの、東京で編集者になりたいという夢を捨てきれない朝生は、故郷への嫌悪感といらだちを募らせる。

「わたしの未来…どうなるんだろう。こうやって時間を食いつぶしているうちに、自分の中で夢が死んでいくような気がする……自分だけがとり残されて干からびていくような気がする…」

しかしそれから三年半。悩みながらも地元で教師として日々働き、暮らすうちに、しだいに生きがいと地方のよさを見いだしていく。テレビ番組で語られるような派手な成功体験ではないし、また悩むことがあるかもしれない。でも悩むことも人生の一部だ。

「まわり道して、わたしは帰る。そして、新しい道を歩きはじめる。また、まわり道をするかもしれないけど――。それでもいいと、今は思う」

朝生だけでなく、おもな登場人物のひとりひとりがそれぞれの悩みを抱えた等身大の人間として共感をもって描かれる。読むたびに感動を新たにする作品だ。

アマゾンレビューに転載】

2015-07-20

政府は秩序を生まない

国家主義者は、人間社会は国家がなければ成り立たないと信じている。しかしそれは誤りである。社会を律する法も、経済に欠かせない貨幣も、本来は国家(政府)が政治的に作り出すものではなく、民間(市場)で自律的に生み出されるものである。国家が政治的打算に基づき濫造濫発する法律や貨幣は、むしろ社会や経済の秩序を乱す。

評論家の中野剛志は『反・自由貿易論』(新潮新書)で、国家主義のイデオロギーをむき出しにこう書く。「ルールの体系を設計し、担保するのは政治であり、国家です。貨幣、私有財産制度、取引法制など、市場に不可欠なものは全て、国家の政治力がなくてはありえません。市場は、国家の政治力によって形作られているのです」。たいていの人は、法や貨幣は国家が設計し、強制しなければ成り立たないというこの考えを信じていることだろう。だがそれは根拠のない俗説である。

国家による立法が広まったのは近代以降で、人類史においては比較的最近にすぎない。それ以前の法は、部族の慣習、先例に基づくコモン・ローの裁判、商事裁判所の商慣習法、船荷主が設置した法廷で形成された海事法など、国家以外の制度から生み出された。近代国家によって定められた法律には、これら近代以前に確立された法を明文化したものが含まれる。

歴史家フリッツ・ケルンが述べるように、近代以前、法を「創造」するという考えはなかった。法は「発見」するものであった。すなわち、慣習や判決の積み重ねから理性によって抽出される法則であった。それゆえ法とは古いものであり、新しい法とは言葉の矛盾である。「中世の観念にしたがえば、新しい法の制定はそもそも不可能」とすら言える。


貨幣も同様である。貨幣とは元来、貝殻や石、家畜や穀物など、その役割にふさわしい自然の産物を人間が自発的に選ぶことによって生まれた。最も便利な貨幣として世界で使用され、近代の経済発展を支えたのが金や銀である。やがて金貨や銀貨の鋳造は政府が行うようになったが、もとは民間で製造されていた。

これらの事実は、国家の政治力がなければ法や貨幣はありえないという主張が嘘であることを証明している。それどころか、国家による法律の濫造、貨幣の濫発は、社会や経済を混乱させている。個人に任せるべき健康づくりや子づくりを政府が押しつける健康増進法や少子化社会対策基本法をはじめとする悪法の数々、「異次元の金融緩和」がもたらした円相場の乱高下はその典型であろう。

市場経済によって不安定になる社会を政治が安定させるという中野の主張とは逆に、政治の介入こそ社会を不安定にする元凶なのである。
(2013年7月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2015-07-12

押売りの経済学

不景気の原因は、国民がカネを使わないことである。だから景気を良くするには、政府が国民になり代わってカネを使ってやればよい――。ケインズ経済学に毒された政治家や言論人はこう主張する。しかしこれは大きな勘違いである。欲しくないものを無理に買わせても人間は幸せにならないし、社会も豊かにならない。

「日本のケインズ」として最近人気を集める高橋是清は、政府の国防費についてこんなことを書いている。「国防のためには、材料も要る、人の労力も使はれる。それらの人の生活がこれに依つて保たれる。だから拵(こしら)へた軍艦そのものは物を作らぬけれども、軍艦を作る費用は皆生産的に使はれる」(『随想録』中公クラシックス)

これを『目覚めよ! 日本経済と国防の教科書』(中経出版)で引用した経済評論家の三橋貴明は、「高橋是清の『国民経済』に対する理解度は、驚愕するほどに深い」と持ち上げる。そして「国民の安全に直結する公共投資や防衛費」はもちろん、極論すれば「浪費だろうが何だろうが、日本政府がおカネを消費もしくは投資として使えば、日本国民の所得が創出される」と述べる。

しかし高橋も三橋も、経済にとって肝心のことを忘れている。商品やサービスを提供するのは、人を満足させるためである。そのためには人が商品・サービスの値段を知ったうえで、買うか買わないかを自由に選べなければならない。ところが政府が提供するサービスは、これらの条件を欠いている。

第一に、値段が不明朗である。政府が国防、教育、インフラ整備といったサービスの代償として課す税金は、サービスの質に応じて決まるのでなく、支払う側の所得や資産の額に応じて一方的に決められる。

第二に、購入を拒否することができない。外国に拉致されても助けてくれないような政府に防衛費を払うのは嫌だと言っても、税金をその分負けてはくれない。


このような商売の仕方を、もし民間でやったら何と呼ばれるか。そう、押売りである。なるほど、もし押売り屋が客からカネを巻き上げるのに成功したならば、高橋が言うように、押売り屋の生活は「これに依つて保たれる」ことになろう。しかしこれでは社会全体の幸福は増進しない。押売りが幸福になる分、客が不幸になるからである。

もし押売りが手のつけられないほど横行すれば、人はまじめに働くことをやめてしまうだろう。どんなに稼いでも押売りに奪われてしまうからだ。まじめに働く者が減れば、商品やサービスの供給が減り、社会は物質的に貧しくなる。政府がカネを使えば景気は良くなるという押売りの経済学を声高に唱える輩こそ、社会を貧しくする元凶なのである。
(2013年6月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2015-07-05

金融暴走の犯人

自由な市場経済を非難し、政府による規制を主張する論者がその理由として必ず持ち出すのは、金融市場の「暴走」である。しかしこれは勘違いもはなはだしい。なぜなら金融市場の混乱を引き起こす犯人は、政府自身だからである。

ジャーナリストの東谷暁は『経済学者の栄光と敗北』(朝日新書)で、ケインズを引き合いに出しながら、このおなじみの勘違いを繰り返している。ケインズは大恐慌時代の1933年に書いた論文で、ニューヨーク株式相場の大暴落をきっかけとする恐慌は「野放図な金融の国際化が根本的な原因であり、金融の暴走が見せた強欲は醜悪」と主張し、金融の国際化は危険だと論じた。東谷は、リーマン・ショック以降、資本の移動に制限を課すという議論は力を増しており、これは「ケインズの復活」のひとつだと称賛する。

しかし「金融の暴走」についてちょっと考えれば思いあたる事実に、ケインズは触れず、東谷は気づいていない。金融市場が「暴走」するのは、カネが過剰に供給されるからである。だれが供給するのか。現代の金融制度において、それは中央銀行、すなわち政府以外にありえない。

広義のカネには中央銀行が印刷する紙幣だけでなく、金融機関の貸出しも含まれる。貸出量は中央銀行が定める準備率によって制限されるから、過剰な貸出しの責任はやはり政府にある。

かつては金本位制がカネの過剰な供給に歯止めをかけていた。政府は保有する金の量に応じてしかカネを増やせないからである。第一次世界大戦で多額の戦費を調達する際、この歯止めが邪魔になり、多くの政府が金本位制を中断した。戦後もしばらくその状態が続いた結果、過剰なカネが株や土地に流れ込んで世界中でバブルを生み出し、ついに崩壊する。これが大恐慌の真相である。

東谷が述べるように、ケインズは第二次大戦後、戦後の国際通貨制度について英国代表として交渉した際も、金本位制に反対し、政府間だけで通用する「バンコール」という通貨の創設を唱えた。結局ケインズ案は採用されなかったものの、政府を金本位制の足枷から解き放つという目的は達せられた。


主要国の多くは金本位制にもはや復帰せず、かろうじて維持した米国も1971年のニクソン・ショックで完全に離脱した。これで有権者にばらまくカネを気兼ねなく刷りまくるようになった各国政府こそ、過剰な投機資金を世界に溢れさせた元凶である。

ケインズに惑わされこうした明白な事実が目に入らない東谷は、金融市場には「害悪をもたらさないように規制を課するというのが賢明」と書く。しかし害悪をもたらす根元も、規制すべき対象も、市場ではなく政府なのである。

(2013年5月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿

2015-06-28

覇権国は野盗の親玉

「将来は世界一の大泥棒になりたい」と真顔で話す子供がいたら、周囲の大人はたちまち眉をひそめることだろう。ところが、まったく同じ意味のことを大人の言論人が主張しても、世間で顰蹙を買うどころか、しばしば喝采を浴びる。すなわち「日本は覇権国になれ」という主張である。

工学者で名城大学教授の木下栄蔵は『世界経済の覇権を握るのは日本である』(扶桑社新書)で、「ほかに覇権国家になる国がなければ、日本も手を上げる必要があります」と書く。そして、もし覇権国になれば「世界経済を守る責任が発生」するから、「政治力とそれに付随する軍事力」が必要になると主張する。

同じような勇ましい議論はよく耳にするが、まったくの俗論である。木下は、覇権国には「世界を守っていくという気持ち」が必要だと述べるが、かつて覇権国だった英国も、それを引き継いだ米国も、そんな博愛主義に駆られて行動したのではない。それぞれの国の政府関係者が、みずからの利益の獲得と地位の維持強化のため、武力に物を言わせて国外で勢力を広げたにすぎない。

木下もそうだが、半可通の知識人が理解できないのは、政治と経済の区別である。社会学者フランツ・オッペンハイマーによれば、人間が欲しいものを手に入れるには、二つの方法がある。

一つは自分で労動して作り出すか、作ったものを他人と合意のうえで交換する方法で、これを経済的手段と呼ぶ。もう一つは暴力や脅迫を使って他人から無理やり取り上げる方法で、これを政治的手段と呼ぶ。政治的手段を非合法に用いるのが強盗で、合法に用いるのが政府である。

十九世紀の英国、二十世紀の米国が世界一の繁栄を享受したのは、才能ある企業家が勤勉な労働者と協力して価値あるものを作り出し、それを世界の人々が自発的に買ったからである。つまり経済的手段のおかげである。政府が他国を無理やり植民地にしたり、海外に軍事基地を多数配備したりしたからではない。それらは繁栄の原因ではなく、結果にすぎない。

その証拠に、英国はインドをはじめとする植民地経営が財政の重荷となって経済が傾いたし、米国も冷戦や「テロとの戦い」に巨額の軍事費を注ぎ込んだ結果、財政金融危機とドル安に直面している。


国民が豊かであるほど、政府は課税によって財産を多く奪うことができるから、それを軍事力増強に充て、覇権を握ることが可能になる。つまり覇権国とは、それだけ自国民の富を多く掠(かす)め取る阿漕(あこぎ)な国家である。

覇権国待望論は、すでに十分な重税国家である日本政府に、国民をもっと搾り取って野盗の親玉になってくれと懇願するに等しい。傍迷惑な話である。

(2013年4月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿

2015-06-21

政府崇拝という宗教

保守主義者を自認する元左翼の評論家・西部邁は、近著『どんな左翼にもいささかも同意できない18の理由』(幻戯書房)で左翼を盛んに攻撃する。しかし読むにつれ、西部が今も左翼と同じ穴の狢(むじな)であることがわかる。

典型的に表れているのは、所得再分配と社会保障についての記述だ。西部はまず、米国リベラルの実態について「所得再分配や社会保障といった社会環境を改良する仕事を政府の肝煎で進めようと〔する〕ソフト・ソーシャリスト〔軟らかい社会主義者〕」と批判する。ところが別の箇所では「金持が貧乏人に最低の暮らしができる程度の援助をすればよい〔略〕政府が租税と社会保障の制度を使ってそれをやって社会を安定させる、それが平衡感覚というもの」と、米国左翼と同じく、政府による所得再分配と社会保障を擁護する。

さらにひどいのはここからである。西部は、今の日本で「古き良き価値・規範が破壊されつづけている」と慨嘆してみせる。そしてその責任は、経済のグローバリズムやIT革命をはじめとする技術革新にあると指弾する。悪いのは政府ではなく、民間というわけだ。

だがこれはまったくの誤りである。傍証の一つが西部自身の文章にある。上で引用した所得再分配に関する記述のうち、略した部分で西部はこう書いている。金持ちが貧乏人に直接金品を支援すると、金持ちを「傲慢」にし、貧乏人に「屈辱を味わわせる」かもしれない、と。だから間に政府が入り、金持ちから財産を取り上げ、貧乏人に与えればよいというのだ。

しかしこれは、貧乏人は助けてくれた金持ちに感謝しなくてよいと言っているのと同じである。施しを受けたなら、たとえ内心屈辱を感じようと、謝意を表す。これは代表的な「古き良き価値・規範」の一つであろう。ところが西部は政府を割り込ませ、感謝の習慣を社会から消し去ろうとする。

いや実際には、消し去る以上に悪い。なぜなら、支援を受けた貧乏人は金持ちに感謝する代わりに、金持ちの財産を奪い与えただけの政府に感謝を捧げるからである。本来感謝されるべき個人でなく、他人の金で善人を演じる政府が感謝されるよう、社会を(西部が左翼を非難する言葉を借りれば)「変革」する。これこそ「古き良き価値・規範」の破壊ではないか。もちろん破壊者は民間でなく、政府である。


自由主義者の経済学者ミーゼスは七十年前、政府崇拝を「新たな迷信(new type of superstition)」と呼び、その形態には社会主義と干渉主義があると指摘した。干渉主義とは戦後西側諸国で浸透し、西部が擁護する、再分配や社会保障を柱とする体制である。西部は政府崇拝という宗教の信者である点で、左翼と何も変わらない。

(2013年3月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

2015-06-19

小国は侵略に無力か

米軍基地問題などを背景に、沖縄独立論が唱えられることが増えてきた。これに対し、もし沖縄が日本から独立すれば、中国など近隣の大国から侵略されるだけだとみる向きがある。ほんとうにそうだろうか。

防衛にとって重要なのは国の規模ではなく、豊かさだとエコノミストのライアン・マクメイケンは指摘する

豊かな社会は重要で高価な兵器を購入できるし、戦争の素人である一般国民を徴兵で集める代わりに、高度に訓練されたプロの軍隊を維持できる。外国の傭兵を雇うこともできるし、敵対国の要人を賄賂で買収することもできる。

また豊かな社会では、政府が認めるかぎり、国民が個人や小組織レベルで武装することができる。これは政府軍とともに、二段構えの防衛力となる。

世界を見渡せば、大国に近接していながら侵略を受けず、独立を保ってきた小国は少なくない。フランスの隣のモナコ、ドイツの隣のルクセンブルク、イタリアに囲まれたバチカン市国、米国と目と鼻の先のコスタリカなどだ。


大国の政府がとくに道徳的に立派だから侵略をためらったわけではない。侵略は不正で、それに抵抗するのは正しいという国内外の輿論を無視できなかったのである。

物質的な豊かさと、侵略を許さない国民の高い士気と国際輿論の後ろ盾があれば、小国が独立を守ることはけっして無理ではない。

2015-06-18

商売なければ慈善なし

商売はよく冷酷非情に描かれる。これに対し、慈善は商売よりも倫理的に優れているとみられている。だがこの見方は正しいだろうか。

慈善が人を助けるのはたしかだが、商売は慈善よりもはるかに大きな貢献をしている、とライターのスティーブ・パターソンはいう

慈善がおこなうのは富の分配である。つまり誰かの余りで誰かの不足を埋め合わせる。一方、商売は人々が高く評価する物やサービスを売ることにより、富を生み出す。


まず商売で富を生み出さなければ、慈善で何も分配することはできない。人間は何もしなければ貧しいのがあたり前だということを、先進国ではすぐ忘れてしまう。

慈善でハンバーガーを配ると、ほめたたえられる。しかしそのハンバーガーは農家、肉屋、トラック運転手、コック、技術者、実業家がいなければ、作ることはできない。商売に携わる彼らは慈善家と同じく、賞賛されるべき人々なのだ。