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2026-03-08

草原の道、ユーラシア激動の震源地

【グローバルヒストリーを読む】古来、ユーラシア大陸の東西全体をつなぐネットワークは三つの道で構成されていた。一つは前回取り上げた「オアシスの道(シルクロード)」で、中央アジアの砂漠地帯を越え、ラクダなどの隊商交易によってつながっていた。もう一つはインド洋と南シナ海を結ぶ「海の道」で、港市国家によって結びつけられていった。そしてもう一つが、ユーラシア北部に広がる「草原の道」で、騎馬遊牧民の世界である。今回はこの草原の道にスポットを当てよう。


草原の道とは、モンゴル高原から西へカザフ高原、アラル海、カスピ海の北方を通って黒海北岸に達するルートを指す。この広大な草原地帯は、騎馬遊牧民の活動舞台であり、スキタイや匈奴(きょうど)をはじめとして、様々な遊牧国家が興亡した。

これらの遊牧民は、騎馬による高い機動性を持っており、すでにスキタイの時代に、草原地帯の東西を通じて共通の特色を持つ武器や馬具が見られることから、活発な交流があったとみられる。遊牧民は、オアシス諸都市などを軍事的に保護し、代わりに税を徴収するという方法を取ることが多かった。

紀元後4世紀から5世紀は、草原地帯を震源地として世界史が大変動した時期であった。寒冷化などの気候変動を背景に、遊牧民の移動が活発化する。東部では、鮮卑(せんぴ)などが中国の農耕地帯に侵入した。西部では、東部から移動してきたフン人(匈奴の一部とされる)がヨーロッパに侵入し、民族大移動を引き起こした。

その後、草原地帯ではトルコ系民族が優勢となり、東部では突厥(とっけつ)やウイグルの大帝国が成立した。10世紀以降は、トルコ系民族の西方への進出が顕著となり、この地がトルキスタン(トルコ人の地域)と呼ばれるようになった。13世紀には、モンゴルがユーラシア大陸をまたぐ大帝国を作り上げた。

ここから、遊牧民とアジアの諸国家との関係を見ていこう。

紀元前4世紀ごろから、草原の道をゆく騎馬遊牧民の活動が活発になり、モンゴル高原南部に匈奴などが登場する。これらの勢力のうち最初の覇者となったのが匈奴である。紀元前3世紀末、卓越した指導者、冒頓単于(ぼくとつぜんう)に率いられて強大となった匈奴は、東の大興安嶺からオアシス地帯までを統一する大帝国を築いた。

折しも中華帝国を統一した前漢の高祖劉邦は、匈奴帝国の急速な拡大を抑えようと出兵するが、前200年に大敗を喫した。以後70年間にわたり、前漢は匈奴に貢納を支払うという屈辱的な和親策を取らされることになった。歴史学者・北村厚氏(『教養のグローバル・ヒストリー』)の指摘によれば、漢帝国は匈奴の事実上の従属下におかれたと述べる高校世界史の教科書もあるほどである。

その後中央集権化を完成させた前漢は、前141年に即位した武帝が、ついに匈奴に対する従属関係を打破しようと行動を起こした。

外交面では、匈奴を挟み撃ちにする同盟を築くため、張騫を大月氏や烏孫(うそん)に派遣した。また、朝鮮半島にあった衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡など四郡を置き、東方への外交の窓口とした。

軍事面では、衛青や霍去病に命じてたびたび匈奴と戦争を行い、甘粛地方を奪って敦煌郡など四郡を設置した。さらにフェルガナ地方の大宛(だいえん)を打ち破り、汗血馬を獲得するなど成果を上げた。

こうして匈奴はオアシスの道から駆逐され、北方に追いやられた。東西交易の利益を失った匈奴は急速に衰退し、まもなく東西に分裂する。紀元前1世紀、オアシスの道の東半分の覇権は、匈奴から漢帝国へと移行したのである。

4~5世紀にユーラシア大陸で起こった民族大移動は、日本(当時の倭国・ヤマト王権)にも大きな影響を及ぼした。

朝鮮半島での戦乱から逃れた人々や、百済などの同盟国から送られた技術者たちは「渡来人」と呼ばれ、日本の発展に不可欠な役割を果たした。彼らによって急速な技術革新が起きたのである。

まず、馬文化だ。それまで日本にいなかった馬に乗る風習、飼育技術、馬具が伝わった。古墳時代中期以降の前方後円墳から出土する馬具の副葬品にその影響が見られる。また、大陸の騎馬民族が使用していた鉄製のよろいや武器が大量に生産されるようになった。さらに、漢字の使用が本格化し、後の歴史書編纂や律令制度の導入の基礎となった。

この時期の急激な変化を説明するために、かつて東洋史学者の江上波夫氏によって「騎馬民族征服王朝説」が提唱された。現在では主流の説ではないが、東アジアにおける民族の移動と文化交流が、古代日本の国家形成に与えた影響の大きさは議論の余地がない。

晩年を横浜市で過ごした江上氏が同市に寄贈した資料をもとに開設された「横浜ユーラシア文化館」はホームページで、「ユーラシアという一続きの広大な世界で様々な民族が接し合い影響し合って多様な文化を形成してきました」と指摘している。

草原の道を震源地とするユーラシアの激動は、結果として日本列島に技術革新と先進文化をもたらし、ヤマト王権の軍事力や経済力、文化水準を一気に高めた。古代日本の骨格を形作ったと言えよう。

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