2017-06-04

敵と味方で割り切る馬鹿

カール・シュミットによれば、政治の本質は敵と味方の峻別にある。これはあくまでも政治の話である。ところが世の中には、政治以外の事柄にまでこの発想を持ち込み、なんでもかんでも敵と味方の関係で割り切ろうとする馬鹿がいる。

元航空幕僚長で評論家の田母神俊雄は、日本を愛するマンガ家やアニメーターが立ち上がり、日本の立場や主張を国内・海外向けに発信する作品を作れば、それは高い娯楽性を持ちながら、同時に大変な影響力のある「情報戦力」になるという。そしてタイムトラベルで過去の竹島に渡り、日本の領有権の正当性を主張するアニメや、日本の権益を脅かす中国の海底ガス田採掘施設を少年海賊が粉々に破壊するマンガがあってもよいと提案する(『ほんとうは危ない日本』)。

もし田母神の御託宣に従ったなら、まともな芸術は生み出しえないだろう。なぜなら優れた芸術が描き出す真の人間関係とは、敵と味方で割り切れるような単純なものではないからである。

歌劇の名作を多数作曲したヴェルディは、イタリアが統一国家となる時代に活躍し、同国の愛国的作家といわれる。しかし小宮正安『名曲誕生』(山川出版社)によれば、最近ではヴェルディを極端な愛国の闘士とする見方に疑念が呈されている。

第二の国歌といわれる合唱「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」を含む『ナブッコ』は初演翌年の1843年、イタリア統一運動を厳しく規制してきたハプスブルク家のお膝元ウィーンで、ヴェルディ本人の指揮により上演され、大成功を収めた。政治的主張だけが目的の作品なら、ウィーンでの上演許可など下りなかったはずである。

13世紀イタリアの島民蜂起を題材とする『シチリア島の夕べの祈り』では、支配者側のフランス人総督と反乱側の幹部がじつはかつて生き別れた父子で、ともに社会的立場と情愛の板挟みで懊悩した末、父は蜂起で殺されてしまう。

つまりこの作品は小宮が指摘するとおり、「フランス人=敵、イタリア人=味方、という単純な図式の上に、イタリア人の愛国心をあおるようなオペラではない」。そもそもイタリアの聴衆向けではなく、パリ・オペラ座の依頼によりフランス語で書かれた。なおヴェルディはイタリア王国誕生にあたり、祝典曲の類を一曲も書かなかったという。

もしヴェルディが生きていて、田母神から作品を依頼されたなら、日本人海賊がガス田採掘施設を攻撃したところ、警備役の中国軍人が死に、それは昔の仲間だったというような筋書きにするだろう。しかし田母神やその追随者は満足できまい。すべてを敵味方で割り切る愚者だからである。

(2014年9月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

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