中国古代の漢帝国は前2世紀後半の武帝のころ、北はオルドス地方、西は西域、南は華南からベトナム方面にいたる対外戦争によって、領土を拡大した。中国の版図は最大領域に達したが、問題も生じた。拡大した領土を維持するため、莫大な軍事費が必要となり、財政が悪化したのである。
塩鉄論(平凡社東洋文庫)
武帝は財政再建のため、商人の子で財政を司る官僚であった桑弘羊(そうくよう、そうこうよう)の意見を入れ、大量の銅銭(五銖銭)を発行した。一方で銅銭の発行が引き起こすインフレを防ぐため、均輸法や平準法といった流通や価格を国が統制する制度を設けた。こうした政策は、銅銭を容易に手に入れることのできる官僚や商人には有利である一方、農産物を銅銭に換えて税を支払わなければならない農民にとっては不利だった。官僚や商人はあまりある銅銭で土地を購入し、貧しい農民は銅銭を手に入れるために土地を手放し、小作人となっていったのである。
武帝が始めた財政再建策はもう一つあった。国家による塩・鉄・酒の専売である。のちに酒の専売制だけは廃止されたが、塩鉄専売のほうはとうとうそのままであった。やがて専売政策により人民の生活が苦しくなったとして、廃止論が台頭した。これをきっかけに、古代中国の経済論争が巻き起こった。
武帝の次に即位した昭帝の時代、賢良・文学の士と呼ばれる民間の有識者六十数人が全国から都の長安に集められ、財政再建の功により御史大夫に昇進していた桑弘羊ら行政当局を相手に専売政策について討議する会が開かれた。開催の背景には、桑弘羊の権威失墜を狙ったライバルで武人出身の霍光(かくこう)の思惑があったとされる。その経緯はともかく、次の宣帝の時代、官吏の桓寛がまとめた著作『塩鉄論』に記録された討議の内容は、きわめて興味深い。
会議では桑弘羊らが法家思想に基づいて専売制の維持を主張し、有識者が儒家思想に基づいて廃止を主張した(以下、山田勝美訳、佐藤武敏訳から適宜引用・要約。カッコ内は篇名)。
有識者側はいきなり大上段に振りかぶって、すべての政治経済活動の根底には仁義道徳の考えが必要であると説き、農業を大事にし、商工業を抑えるよう強調する。当面の決め手としては、専売と均輸法の廃止を要請し、これこそ人民本位の農業の振興策だとしている(本議)。農業重視の政策が結果として商業を自由放任とする点は、18世紀フランスのケネーらの重農主義と共通しており、関心を引く。
これに対し、当時72歳だった御史大夫で、専売政策の立案者であり推進の最高責任者でもある桑弘羊は受けて立ち、こう答えた。
匈奴は信用のできない奴で、再三にわたってわが辺境を侵略し、乱暴を働いている。だがこれを討伐するとなると、中国の青年を犠牲にしなければならないし、といって放っておけば、どこまで侵盗されるかわからない。とりでを修理し、のろしを準備しての屯田による辺境警備策は、実に先帝・武帝陛下の仁慈によるものである。その結果、国費が賄いきれなくなったので、一連の新経済政策を編み出し、国家の財源を確保し、辺境の軍事費を調達しようとするものである。これを撤廃せよなどという議論は、一つには国庫を空っぽにし、二つには軍事費を切り詰め、辺境防備の中国青年を見殺しにすることになる。一体、どうして国費を賄うつもりなのか。撤廃するわけにはいかない(同)。
桑弘羊は一歩進んで、商業活動の一つである貿易のメリットを説く。たとえば中国の一端の絹布で、匈奴側の万金の品物が手に入るし、敵国の使用物資の量を減少させる狙いもある。異国の様々な珍奇な品物が国内に流通しても、我が国のお金はさして流出しない。かえって外国品が国内に流通すれば、国民生活は豊かになり、お金が流出しないから、国民生活も充足する(力耕)。
この桑弘羊の主張は17世紀英国で流行した重商主義に似ている。お金は交換手段にすぎず、食べたり着たりすることはできないから、お金が増えれば生活が充足するという部分は誤っているが、貿易奨励の考えは正しい。だが問題は、貿易にしろ国内の商業活動にしろ、それを民間ではなく、政府が主導・実行するところにある。
有識者側は統制経済に反対する根本的な主張を次のように展開する。今日、国家が鉄器を作っているが、粗悪品が多く、費用は節約されず、卒や徒刑囚はたくさん動員され、労働は限りがない。民間でやると民衆は一体となり、父子は力を合わせ、みんな良い器物を作るのに精を出し、悪い器物は集まらない。ところが今日は、国家が塩・鉄を管理し、値段を統一し、鉄器は堅すぎて切れ味の悪いのが多いが、人民は善悪を選択することができない。役人は留守がちで、器物の入手は困難だ——(水旱)。
漢文学者の山田勝美氏は、統制経済の不便を詳しく述べたこの部分から現代日本の経験を想起し、「これらの痛切なる苦い経験が、かつての太平洋戦争中における統制政策に、少しでも採り入れていたら、もってスムーズに政策が進められたであろうに」と慨嘆する。古典を軽視するとがめは、統制政策の失敗となって跳ね返った。
消費者の満足が常に求められる民間企業と違い、国家のお役所仕事はむしろ消費者に負担を押しつける。いつの時代も変わらないこの真理を、古代中国の経済論争は教えている。
そもそも漢の政府が財政難に陥ったのは、匈奴をはじめとする異民族の侵略から辺境を防衛するためだ。軍備を撤廃すべきでないと繰り返す桑弘羊に対し、有識者はこう反論する。かつて匈奴との交易が盛んだったころ、匈奴は漢に親しみ、帰順し、往来していた。その後、漢が匈奴の君長を騙し討ちにしようとする間違った計略を行ってから、匈奴は和親を絶ち、戦争が続くようになった。辺境の人たちは数十年も軍役に従うようになった(和親)。
そして有識者は匈奴との和親を求め、こういう。「君子は慎んで落ち度なく、人と交わるのに丁寧にして礼を守ってゆけば、世界中の人はみな兄弟になる。自分を反省してやましいところがなければ、一体、どうして心配し、どうして恐れる必要がありましょうか」。これは儒教の祖・孔子の言行録『論語』(顔淵)からの引用である。
有識者の非戦の主張は理想主義が過ぎると見えるかもしれないが、実は財政危機という現実を見据えた、現実主義の立場でもある。巨額の政府債務を抱えながら戦争の火遊びにたわむれる、現代の帝国への警鐘といえるだろう。

0 件のコメント:
コメントを投稿