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2025-11-17

司馬遷の経済統制批判

司馬遷は中国・前漢の歴史家。中国最初の通史である『史記』の著者として知られる。紀元前1世紀の初めごろに書かれた同書のうち、多くの人々の伝記を書き並べた「列伝」はとくに面白く、なかでも巨万の富を手に入れた古代の富豪たちの活躍を描いた「貨殖列伝」からは、上からの規制を極度に嫌う司馬遷の自由な経済思想が浮かび上がってくる。
 
史記列伝(五)岩波文庫
史記列伝(第5巻、岩波文庫)

司馬遷は数奇な運命をたどった歴史家だった。漢の将軍李陵が匈奴と戦って敗れ、捕虜となる事件が起きた際、李陵の処分を決める席上では一家皆殺しの意見が大多数を占めたが、司馬遷は一人李陵の忠節と勇敢さをたたえて弁護したために、武帝の激怒を買い、宮刑に処せられた。しかし、これによる精神的打撃にも屈せず、かえって勇猛心を鼓して通史の著作に全力を傾注し、ついに『史記』130巻を完成した。 

『史記』は「本紀」「表」「書」「世家」「列伝」の5部から成り、列伝篇の最後に登場するのが、貨殖列伝である。この列伝で取り上げられた富豪たちは、天子諸侯から授けられた官位も、与えられた領有地もなく、ただおのれの才覚を存分に働かせ、富を築き上げた人々である。素封家と呼ばれる(素は「ない」、封は「領土」の意味)。

司馬遷は貨殖列伝の冒頭で、思想家の老子が描いた自給自足の理想郷の様子を引いて、そのような閉鎖的な小国家は、古代ならともかく、諸王・諸侯国の枠を超えて経済の流通が盛んになった当今では通用しないと批判する。司馬遷によれば、人類はすべて際限なき欲望を満たそうとして、あくせくしている。この欲望はつまるところ、人々の利己心が原因である。それゆえ「天下煕煕として、皆利の為に来たり、天下穣穣として、皆利の為に往く」と言われるのである(以下、訳は岩波文庫版、ちくま学芸文庫版などを参照)。

司馬遷はそのうえで、経済政策の優劣を次のように説く。「すぐれた政治家は、(人民の生活の)ありかたのままにしておく。それに次ぐ人は人民を教えさとす。そのまた次は何とか調整していこうとする。いちばん劣った政治家が民と利益を争うものなのだ」。つまり自由放任こそが最善の策だという。

なぜ自由放任が最善なのか。司馬遷によれば、飲食衣服その他の生活物資は、どのようにして社会の需要を満たすかというと、政府の命令によっていついつまでに集めろと指図するわけではない。一人一人がおのれの才能に応じ力の限り働いて、自分のほしい物を得ようと思うからである。したがって物の値が低いときにはやがて高くなり、高いときにはやがて低くなる。「これはなんと、ものの道理に合った自然のあらわれではなかろうか」と司馬遷はいう。

まるで主著『国富論』で市場経済の「見えざる手」を説いた、18世紀英国の経済学者アダム・スミスを思わせる記述だ。東洋思想史研究家の小島祐馬氏は、司馬遷のこうした考えを「司馬遷の自由放任説」と呼ぶ(『古代中国研究』)。司馬遷は近代西洋で花開く自由放任主義の先駆者だった。

続いて司馬遷は、素封家たちの具体的な活躍を描いていく。最も古い時代に属する人物は、春秋末期に越王勾践を支えた智謀の宰相・范蠡である。初めから商売の道を歩んだ貨殖列伝の他の富豪たちとは異なる、異色の経歴だ。

呉王夫差に敗れた勾践を助けて長年の艱難辛苦の末、ついに呉を倒すと、「狡兎死して走狗煮らる」(用済みになれば捨てられる)との言葉を残し、宰相の地位を捨てて故国を去る。その後、斉の国を経て、物資流通の要路にあたる陶の地に移住し、陶朱公と名を改めると、家族とともに農耕と牧畜に励む一方で、物価の変動をにらんで物資を動かし、巨万の富を築き上げた。中国文学者の林田愼之助氏は「先を見通しておいて、見通したことを実践に移すことは、容易にできることではない。范蠡はそれができた」(『史記・貨殖列伝を読み解く』)と称賛する。

孔子の高弟として儒教を学ぶ一方で、商才を発揮した変わり種は子貢である。子貢は孔子について学んだ後、衛の君に仕え、物資の買い占めと放出を適時に行って、財産を増やした。孔子の弟子70人のうちで、子貢が一番裕福であった。子貢は、徳行においては同門の顔回に劣ると自覚していたが、孔子は子貢の政治・外交手腕を高く評価していた。孔子の祖国魯が斉に侵略されそうになった際、孔子が諸王のもとに使者として派遣したのは子貢だった。

子貢は諸王の利害をうまく説得し、魯は戦わずして斉の脅威から逃れることができた。ビジネスで鍛えた交渉力が発揮されたといえる。前出の林田氏は「貨殖の道で成功し素封家となった子貢が、師の孔子を日月のごとく敬慕していたからこそ、いちどは喪家の犬(落胆して志を得ない人)とまでみなされた孔子は、聖人として天下にその存在を知られるようになった」と指摘する。

相場師の白圭は、商売の時機の変化を観察することが好きで、世人の棄てて顧みないときは自分が買いとり、世人の買いあさるときは自分が売り払って、富を増やした。一方では倹約家で、衣食を節約し、奴僕とともに汗水垂らして仕事に励んだ。自分の商売を名宰相や兵法の達人の功業にたとえ、誇りを込めて「臨機応変に対処する知恵がなく、決断をくだす勇気がなく、ギブ・アンド・テイクを解する仁徳がなく、苦境を耐え抜くしぶとさがない者には、いかにわしの方法を学ぼうとしたって、決して教えない」と語った。その生き方には「富を手にするためには、当然味わわねばならぬ苦労、富を産み出すために必要な節度といえるものがあった」と林田氏は述べる。

司馬遷が生きたのは、漢の武帝の時代だった。この時期、中国の版図は漢帝国の名にふさわしく拡大した。数回にわたる匈奴遠征を行い、朝鮮を侵略し、ベトナムまで支配の手を伸ばした。版図の拡大は、それだけ莫大な国力の消耗につながった。武帝統治の後半期になると、底をついた財政を立て直すために、国家本位の経済政策を次々に打ち出した。製塩・製鉄などの基幹産業を国家の統制のもとに置き、しかもその粗悪品を強制的に販売した。財産税を課し、財産を隠して申告しない者は全財産を没収したほか、隠蔽を摘発した者には没収財産の半分を与えてこれを奨励した。課税による収入よりも、没収財産のほうがはるかに多かったといわれる。

一連の経済統制は、市場原理の競争を妨げ、経済の活力を奪った。こうした武帝時代の経済政策を、司馬遷は『史記』の「平準書」の中で克明に記録した。そうすることで武帝の経済統制を批判したとみられる。

司馬遷の自由放任説は金儲けを卑しむ儒家から嫌われ、その後は広まらなかった。前出の小島氏は「もし当時の社会に司馬遷の説が容認せられていたならば、世界は遅くとも西暦4、5世紀頃までに、中国資本主義の支配に帰していたかも知れない」と指摘している。

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