マレー・ロスバードのこの文章は、集産主義、社会主義、平等主義、ニヒリズムといった「悪」の増大に直面したとき、それと戦う道義的な義務があると訴え、その戦いを途中で放棄する人々の行動を批判的に考察しています。
闘いを放棄する謎
筆者は、悪を認識し、それに対抗する義務を理解しながら、戦いを放棄したり、大義を裏切ったりする人々がいることに強い疑問を呈します。これは、彼らが所属していたリバタリアン運動や保守運動で常に起こることでした。
「静かな生活を望み、厄介ごとを避けたい」という理由で戦いを放棄する人がいますが、筆者は、そもそもなぜ彼らが「急進派」になったのかを問いかけます。
敗北主義への反論
大義が「望みがない」からという理由で戦いを諦める人がいます。経済学者ヨーゼフ・シュンペーターは、社会主義の必然性を指摘しましたが、同時に、ボートが沈むとしても最善を尽くして水をかき出すことの価値を説きました。
筆者は、たとえ敗北が不可避に見えても戦いを続けるべき理由を挙げます。
延期:今負けるより30年後に負ける方がマシである。
精神的報酬:敵を困らせ、苛立たせるのはそれ自体が価値があり、戦いに立ち向かうプロセスは鼓舞され、活力を与える。
勝利の可能性:ポーランドやソ連の反共産主義者の例のように、闘いを続ければ、いつか勝利する可能性がある。
闘いの放棄:二つの形態
保守運動とリバタリアン運動において、大義を放棄する主要な形態として以下の二つがあります。
1. 堕落(Sellout)
最も明白な形態は「堕落(売り渡し)」です。ワシントンD.C.などで活動家が敵と親密になり、権力や地位、金のために徐々に、あるいは突然、大義を放棄します。
最終的に、彼らの最大の苛立ちは、原則を主張する現場の「トラブルメーカー」となり、敵と見分けがつかなくなります。
2. 後退主義(Retreatism)
より巧妙で浸透しやすい形態は「後退主義」です。活動家は、大義が絶望的であると判断し、腐敗した世界を放棄し、自らの「純粋で高貴なコミュニティ」へと退却します(例:ランド派の「ガルトの谷」や、小さな町や島にリバタリアンの国を作ろうとする試み)。
彼らは「消極的なことに焦点を当てるのではなく、『自由を生きる』ことに集中している」と主張しますが、筆者は、リバタリアンは反国家ではあっても反社会ではないとし、泥まみれの戦場であっても、愛する価値観と人々を救うために戦い続けるべきだと反論します。
「アメリカは二つの国」であり、一つは腐敗した敵の国、もう一つは私たちの、より高貴な国であり、勝利するまでその国(真のアメリカ)を見捨てるのは重い罪であると述べます。
結論:売り渡しは道徳的に悪ですが、後退主義はひどく誤った行為であり、「実用主義」の名の下であれ「純粋さ」の名の下であれ、どちらも現実世界での悪との戦いを放棄し、歴史の舞台から姿を消すという点で同じ結果に終わります。
物質的な自由の要求
後退主義者は「魂が自由であれば物質的な抑圧など気にしない」と無関心になります。しかし筆者は、リバタリアンは囚人の内なる自由に満足せず、「自由と財産 (Liberty and Property)」を掲げ、外部の現実世界における自由を要求することが闘いの本質であると断言します。
我々の人生、財産、アメリカ、そして現実世界を野蛮人に明け渡してはならないと結論づけ、ジェームズ・ラッセル・ローウェルの賛美歌を引用して、真実のために決断し、戦いを続けるよう呼びかけます。
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