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| キングダム 70(Amazon) |
吃音で、弁論は得意でなかったが、文章を書かせれば秀でたものがあった。韓の王に政策を説いたが受け入れられず、使者として秦に赴き、秦王(後の始皇帝)に注目される。しかしやがて投獄され、自殺した。かつてともに荀子のもとで学んだ秦の高官、李斯の策略といわれる。
韓非子の思想は、その著作とされる『韓非子』にまとまっている。権力を絶対視する態度に危うさも感じるが、その一方で、国家に甘い幻想を抱かず、冷徹で現実主義的な論理展開によって、その本性を暴いている。
韓非子の思想の根底にあるのは、人間を徹頭徹尾、利己的で打算的な存在であるとする冷めた人間観である(以下、引用は冨谷至訳から。表記を一部変更。カッコ内は篇名)。
「医者が患者の傷を吸ったり、血を口に含んだりするのは、肉親の情からではない。そこに儲けがあるからだ」(備内)
「医は仁術なり」という言葉がある。けれども韓非子にかかれば、医者の献身的な行為も利益の獲得という利己的な動機に基づいているにすぎない。続きも面白い。
「車作りが車を作ると、誰もが金持ちになってほしいと願う。葬儀屋が棺桶を作ると、ひとりでも多くの人が若死にしてくれたらと願う。なにも車作りが仁愛に富んでおり、葬儀屋が悪人なのではない。人が裕福にならねば、車が売れず、人が死ななければ棺桶を買う者がいなくなるからであって、人を憎む心があるのではなく、人の死によって得られる利益がそこにあるからにほかならない」(同)
儒家の孟子は、人間の性は善であるといい、韓非子の師である荀子は悪だといった。けれども韓非子にとって、そんなことは空理空論であり、論じる意味がない。重要なのは、人間の行動であり、それが利己心に基づくという現実である。これは、人間は自分の満足を求めて行動するという事実を経済理論の根本に据え、その行動を起こさせる心理要因を考慮の対象外とした、20世紀の経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスを思わせる。
これだけならば、個人の利己心が経済活動を通じて社会全体に利益をもたらすと説いた、アダム・スミス以降の近代経済学を知っている私たちからみて、それほど新鮮味を覚えないかもしれない。韓非子で注目すべきなのは、その利己的な人間観を庶民だけでなく、王侯ら支配階級にも遠慮なく当てはめる点だ。
その前提となるのは、親子をはじめとする家族関係ですら打算に基づいているという、鋭い観察である。たとえば、次のように述べる。
「人というものは幼時に父母におろそかにされると成長して親を恨むこととなる。成人となった子供が老いた両親をぞんざいに養うと親は怒って子供を責める。本来、子と父の仲は、利益を度外視したきわめて親密な関係であるはずなのに、非難したり恨んだりするのは、己の行為に相手が報いてくれるという打算があるからにほかならない」(外儲説左上)
これは儒教に対する痛烈な批判だ。儒教の出発点は家族である。そして情愛に基づく家族関係を君臣関係に当てはめ、国家権力を正当化する。韓非子は、中国法制史研究者の冨谷至氏が著書『韓非子』で指摘するように、親と子の間にも利と計算が働いているとして、この儒家の根本に楔を打ち込む。
家族同士、血縁という最も強い紐帯で結ばれた関係においてすら、打算と利己に基づくことを否定できない。ならば、それを君臣関係に拡大し、君臣の関係を父子の擬制とみなすことなど笑止千万だと韓非子は論じるのである。『韓非子』には、随所にこのことが繰り返されている。たとえば、こうだ。
「そもそも、君臣関係も父子関係と同じくすれば必ず治まるというが、その主張は、父子関係は乱れることはないというのが前提となっている。人間の情は、父母に対する情に及ぶものはない。誰もが父母から愛されているのだが、それでも良い子ばかりとはいえない。愛情が厚かったとしても、放蕩息子が出ないというわけではなかろう。先王の人民を愛すること、父母のそれには及ばない。子でさえもうまく教育できずに、どうして民衆を治めることができようか」(五蠹)
韓非子にいわせれば、君臣関係が功利的関係であることは火を見るよりも明らかである。それにもかかわらず、儒者は血縁の愛を君臣関係に置き換えようとする。韓非子は次のように激しく批判する。
「学者(儒者)が君主に言うに、利を求める心を去り、相愛の道に従えと。これは主君が施す愛が父母のそれよりも強いことを要求することを意味し、恩愛が何たるかを分かってはおらず、ペテンでしかない」(六反)
君と臣下の結びつきが利によるものだとすれば、「詰まるところ君臣関係とはギブ・アンド・テイクの商取引にも似たものだという見方に落ち着く」と前出の冨谷氏は総括する。ぴったり当てはまるのは、韓非子の次の言葉だろう。
「臣下は死力を尽くすことで、君主と取引をし、君主は爵禄を目の前にぶら下げることで臣下と取引する。君と臣との絆は、父と子のような紐帯で結ばれるものではなく、打算・計算によって成立しているのだ」(難一)
国家の権力者とそれに支配される庶民を親子にたとえる儒教の思想は、権力者の慈悲によって悪政に歯止めをかけようとする。だが、それが現実に効果を発揮することはめったにない。むしろ「子が親に従うのは当然」という理論で、権力者の横暴を正当化しかねない。
韓非子は冷めた目で国家の本性を見抜いていた。諸子百家と呼ばれる古代中国の思想家たちの中で、ひときわ異彩を放つ存在といえる。
秦王の活躍を描く人気漫画『キングダム』(原泰久作)には、韓非子が登場する(単行本では第70巻)。秦から招かれた韓非子は「秦はどこか歪(いびつ)だ。冷徹なようで、情に厚い面も見える。ひょっとして秦王は性善説ではないのか」との観察を披露したうえで、こう語る。「法は、そもそも人は放っておくとクソだという性悪説から生まれたものだ。……法と性善説を混ぜると、クソ以下のものが生まれるぞ」
これはフィクションだが、その後の法家思想と儒教の関係をある意味でみごとに言い当てている。法家思想が、戦国時代を統一した秦の始皇帝によって採用されたことは有名だが、漢代以降も、実際の政治を指導したのは法家の法治主義だった。ただし、東洋思想史研究家の小島祐馬氏がいうように、政治の表面を儒家思想で粉飾したため、露骨でなく、容易にその本体を見いだすことができないにすぎない。
表面上は儒教的な道徳心あふれる君主を装いながら、実際には利己心を満たすため権力を利用する統治者がはびこったということだ。現代の世界の権力者の多くもそうだろう。偽善を嫌った韓非子が知ったなら、「クソ以下」だと吐き捨てるに違いない。
韓非子の思想は、その著作とされる『韓非子』にまとまっている。権力を絶対視する態度に危うさも感じるが、その一方で、国家に甘い幻想を抱かず、冷徹で現実主義的な論理展開によって、その本性を暴いている。
韓非子の思想の根底にあるのは、人間を徹頭徹尾、利己的で打算的な存在であるとする冷めた人間観である(以下、引用は冨谷至訳から。表記を一部変更。カッコ内は篇名)。
「医者が患者の傷を吸ったり、血を口に含んだりするのは、肉親の情からではない。そこに儲けがあるからだ」(備内)
「医は仁術なり」という言葉がある。けれども韓非子にかかれば、医者の献身的な行為も利益の獲得という利己的な動機に基づいているにすぎない。続きも面白い。
「車作りが車を作ると、誰もが金持ちになってほしいと願う。葬儀屋が棺桶を作ると、ひとりでも多くの人が若死にしてくれたらと願う。なにも車作りが仁愛に富んでおり、葬儀屋が悪人なのではない。人が裕福にならねば、車が売れず、人が死ななければ棺桶を買う者がいなくなるからであって、人を憎む心があるのではなく、人の死によって得られる利益がそこにあるからにほかならない」(同)
儒家の孟子は、人間の性は善であるといい、韓非子の師である荀子は悪だといった。けれども韓非子にとって、そんなことは空理空論であり、論じる意味がない。重要なのは、人間の行動であり、それが利己心に基づくという現実である。これは、人間は自分の満足を求めて行動するという事実を経済理論の根本に据え、その行動を起こさせる心理要因を考慮の対象外とした、20世紀の経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスを思わせる。
これだけならば、個人の利己心が経済活動を通じて社会全体に利益をもたらすと説いた、アダム・スミス以降の近代経済学を知っている私たちからみて、それほど新鮮味を覚えないかもしれない。韓非子で注目すべきなのは、その利己的な人間観を庶民だけでなく、王侯ら支配階級にも遠慮なく当てはめる点だ。
その前提となるのは、親子をはじめとする家族関係ですら打算に基づいているという、鋭い観察である。たとえば、次のように述べる。
「人というものは幼時に父母におろそかにされると成長して親を恨むこととなる。成人となった子供が老いた両親をぞんざいに養うと親は怒って子供を責める。本来、子と父の仲は、利益を度外視したきわめて親密な関係であるはずなのに、非難したり恨んだりするのは、己の行為に相手が報いてくれるという打算があるからにほかならない」(外儲説左上)
これは儒教に対する痛烈な批判だ。儒教の出発点は家族である。そして情愛に基づく家族関係を君臣関係に当てはめ、国家権力を正当化する。韓非子は、中国法制史研究者の冨谷至氏が著書『韓非子』で指摘するように、親と子の間にも利と計算が働いているとして、この儒家の根本に楔を打ち込む。
家族同士、血縁という最も強い紐帯で結ばれた関係においてすら、打算と利己に基づくことを否定できない。ならば、それを君臣関係に拡大し、君臣の関係を父子の擬制とみなすことなど笑止千万だと韓非子は論じるのである。『韓非子』には、随所にこのことが繰り返されている。たとえば、こうだ。
「そもそも、君臣関係も父子関係と同じくすれば必ず治まるというが、その主張は、父子関係は乱れることはないというのが前提となっている。人間の情は、父母に対する情に及ぶものはない。誰もが父母から愛されているのだが、それでも良い子ばかりとはいえない。愛情が厚かったとしても、放蕩息子が出ないというわけではなかろう。先王の人民を愛すること、父母のそれには及ばない。子でさえもうまく教育できずに、どうして民衆を治めることができようか」(五蠹)
韓非子にいわせれば、君臣関係が功利的関係であることは火を見るよりも明らかである。それにもかかわらず、儒者は血縁の愛を君臣関係に置き換えようとする。韓非子は次のように激しく批判する。
「学者(儒者)が君主に言うに、利を求める心を去り、相愛の道に従えと。これは主君が施す愛が父母のそれよりも強いことを要求することを意味し、恩愛が何たるかを分かってはおらず、ペテンでしかない」(六反)
君と臣下の結びつきが利によるものだとすれば、「詰まるところ君臣関係とはギブ・アンド・テイクの商取引にも似たものだという見方に落ち着く」と前出の冨谷氏は総括する。ぴったり当てはまるのは、韓非子の次の言葉だろう。
「臣下は死力を尽くすことで、君主と取引をし、君主は爵禄を目の前にぶら下げることで臣下と取引する。君と臣との絆は、父と子のような紐帯で結ばれるものではなく、打算・計算によって成立しているのだ」(難一)
国家の権力者とそれに支配される庶民を親子にたとえる儒教の思想は、権力者の慈悲によって悪政に歯止めをかけようとする。だが、それが現実に効果を発揮することはめったにない。むしろ「子が親に従うのは当然」という理論で、権力者の横暴を正当化しかねない。
韓非子は冷めた目で国家の本性を見抜いていた。諸子百家と呼ばれる古代中国の思想家たちの中で、ひときわ異彩を放つ存在といえる。
秦王の活躍を描く人気漫画『キングダム』(原泰久作)には、韓非子が登場する(単行本では第70巻)。秦から招かれた韓非子は「秦はどこか歪(いびつ)だ。冷徹なようで、情に厚い面も見える。ひょっとして秦王は性善説ではないのか」との観察を披露したうえで、こう語る。「法は、そもそも人は放っておくとクソだという性悪説から生まれたものだ。……法と性善説を混ぜると、クソ以下のものが生まれるぞ」
これはフィクションだが、その後の法家思想と儒教の関係をある意味でみごとに言い当てている。法家思想が、戦国時代を統一した秦の始皇帝によって採用されたことは有名だが、漢代以降も、実際の政治を指導したのは法家の法治主義だった。ただし、東洋思想史研究家の小島祐馬氏がいうように、政治の表面を儒家思想で粉飾したため、露骨でなく、容易にその本体を見いだすことができないにすぎない。
表面上は儒教的な道徳心あふれる君主を装いながら、実際には利己心を満たすため権力を利用する統治者がはびこったということだ。現代の世界の権力者の多くもそうだろう。偽善を嫌った韓非子が知ったなら、「クソ以下」だと吐き捨てるに違いない。

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