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2025-11-03

荀子、社会は分業で成り立つ

荀子は、名は況。儒家の一人。紀元前3世紀の戦国時代後半、戦乱の被害が深刻さを増す中で、孟子の性善説を批判し、人間は生まれつき私利をむさぼり他人を憎む性質をもつとして性悪説を唱えたことで知られる。

荀子
内山俊彦『荀子』(Amazon

荀子によれば、戦乱を終わらせ、平和を確立するためには、人間の善意に信頼を置く徳治のみでは不可能である。そこで孔子の説いた「礼」に着目し、礼治を唱えた。礼とは規範のことだが、荀子の思想を伝える書物『荀子』(引用は内山俊彦訳から。表記を一部変更。カッコ内は篇名)によれば、その役割は社会に「分」(区別・区分)を与えることにある。

「礼とは、貴賤に等級があり、長幼に差別があり、貧富や尊卑にそれぞれふさわしさがあることだ」(富国)といい、「貴賤の等級・長幼の差別・知愚や有能無能の区分」(栄辱)という、身分・階層・年齢などによる差等が、この「分」にほかならない。「分」が守られ、「少(年少者)は長(年長者)に事(つか)え、賤は貴に事え、不肖は賢に事える」こと、これが「天下の通義」であるという(仲尼)。

身分や年齢による差別は、現代では受け入れられないだろう。しかし能力による区分という考えは、今でも通用する。なぜなら、人間社会が発展・繁栄してきた原動力は、分業と協力にあるからだ。

荀子によれば、他の動物にない人間の強みは「群」(集団)を作って協力するところにある。人間が水火・草木・鳥獣などの万物に優位することを論じつつ、「人の力は牛にかなわず、走ることも馬にかなわないのに、牛や馬が人に使われるのはなぜであろうか。人は群を作ることができ、牛馬は群を作ることができないからだ。人は何によって群を作りうるか。分による」(王制)という。

さらに、「人は生まれては群なしではいられない。群を作っても分がなければ争いになる。争えば乱れ、乱れればバラバラになり、バラバラになれば力が弱くなり、弱ければ他の万物にうち勝つことができない」(同)という。他の箇所でも、「群」を維持するための「分」の重要性を説いて、「分がないことは、人にとって大きな害悪、分があることは、天下の大きな利益である」(富国)といっている。

荀子はこの分業論を土台に、ユニークな経済思想を展開する。「(人の)能力は多くの技術を兼ねることはできぬし、人は多くの任務を兼ねることはできない。だから、バラバラで依存しあわなければ行き詰まる」(富国)といい、「人のもろもろの仕事は、耳・目・鼻・口が、互いに機能の取り替えがきかぬようなものだ」(君道)という。人間の能力に限界があり、学習によって能力が分化することから、農業・手工業・商業などの職能の間で分業が成立する。

分業は平民間の「横の分業」だけでなく、君子(統治者)と平民との「縦の分業」にも及ぶ。「土地の高低を見、肥瘦を調べ、作物を順序よく植えることでは、君子は農民に及ばない。商品を流通させ、その良し悪しを見、高安をわきまえることでは、君子は商人に及ばない。ぶんまわし・差し金を備え、墨縄を連ね、器具類を便利に作り出すことでは、君子は工人に及ばない」(儒効)

横の分業の上に縦の分業が築かれることにより、「天下は平均ならざることなし」と荀子は説く。この「平均」とは、平等ではない。政治が公平に行き届き、国家が安定することである。縦と横との分業は、荀子のいう「分」の表れである。

古代中国で、分業論を比較的詳しく説いたものとして、荀子のほかに、春秋初期の斉の政治家・管仲の言葉として伝えられているものがある。ただし管仲の分業論は、士農工商を雑居させず、強制的に分離する方針をうたっている。これに対し荀子は、分業を、人の能力の限界と学習による分化によって生ずるとしており、そこに相違がある。荀子のいう分業は、経済学者ハイエクの言葉を借りれば「自生的秩序」だろう。

縦・横の分業の立体的な組み立てが理想的に運営されれば、生産が推進され、物資は豊富になり、国家は安定するというのが荀子の見解である。ここでは、支配階級と人民の経済的利益は一致すると考えられている。このため、荀子は「下(人民)が貧しければ上(支配者)も貧しい。下が富めば上も富む」(富国)と民を富ますことを要請し、「亡国は(君主の)箱つづらを富ませ、倉庫を充たす。箱つづらは富み倉庫は充ちて、民衆は貧しい」(王制)と重税を非難する。また、農民を力役に駆り出して農繁期を奪うことに反対する。

こうした、人民の租税負担を軽減し民生を安定させようとする主張は、儒家の伝統的な徳治思想に立つものだ。それは現実における支配者の収奪と農民の痛苦という状況に対する、荀子のぎりぎりの回答だった。

だが一方で、中国哲学研究者の内山俊彦氏が指摘するように、収奪する側の支配者と収奪される側の人民の利益の一致は、幻想でしかない。そうである以上、荀子の主張は、虚構の上に立っていたといわざるをえない。内山氏によれば「そもそも、農民・商人・工人という職能・技術の区分と、君主・士大夫(官僚)のような権力機構としての階層とを無媒介に連結し、前者(横の分業)からのアナロジーを後者(縦の分業)に適用することに、すでに、飛躍があり、現実の抽象化があった」。

荀子が生きた戦国時代の終わり頃、諸国は富国強兵を目指して法治主義へと突き進んでいた。法治主義とは、人の善性に期待せず、徳治主義を排して、法律の厳格な適用によって人民を統治しようとする主張だ。そのような中で、荀子は孔子に始まる儒家の伝統を引き継ぐと自覚し、道徳に基づく政治の重要性を力説した。ただ、漠然とした道徳だけでは国の統治は困難だった。そこで荀子は、統治論として礼治を提唱した。

礼治はあくまで儒家思想の延長線上にありながらも、法治まであとわずかのところにあった。そこに登場したのが、かつて荀子に学んだ韓非子だった。強国化を遂げていく秦を目の当たりにして、荀子は秦の法治の限界を説いたが、韓非子はむしろそれを称賛した。韓非子の法家思想は、秦の強国化に拍車をかけ、空前の大帝国を出現させることになる。

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