哲学者、ハーバート・スペンサー
(1851年)
政治的な迷信のうち、多数派が全能だという考えほどあまねく広まっているものはない。秩序維持のためには、何らかの政党が権力を行使することが必要だという印象の下、現代の道徳感覚は、社会の最大多数の者以外にそのような権力を正当に与えることはできないと感じるのだ。
The rule of the many by the few we call tyranny; the rule of the few by the many is tyranny also ... "You shall do as we will, and not as you will," is in either case the declaration. | Herbert Spencerhttps://t.co/RkFOkiTlsR
— Mises Institute (@mises) April 15, 2021
「民の声は神の声」という言葉を文字どおりに解釈し、神の声に伴う神聖さを民の声に移し、民衆の意志、すなわち多数派の意志に不服を申し立てることはできないと結論づける。しかし、この考え方は完全に間違っている。
かりに人口増による飢饉を恐れ、世論を正当に代表した法律によって、向こう十年間に生まれるすべての子供を溺死させるよう定めたとしよう。このような立法が正当化されると思う人はいるだろうか。もしいなければ、多数派の力に限界があるのは明らかである。
ケルト人とサクソン人という二つの民族が一緒に暮らしているとして、数が多いほうの民族が他方を奴隷にすると決めたとしよう。この場合、多数派の権威は有効だろうか。もし有効でないなら、その権威を従属させなければならないものがあるはずだ。
年間所得五十ポンド以下のすべての人が、五十ポンド超のすべての人の所得を自分たち並みまで減らし、超過分を公共の目的に充てるよう決議したとしよう。この決定は正当化されるだろうか。もしされないのなら、民衆の声が従うべき法は、やはり存在する。
では、その法とは何だろうか。純粋な平等の法、すなわち平等な自由の法しかありえない。
多数派の意見に課される制限は、まさに平等な自由の法によって設けられたものだ。私たちは殺人、奴隷化、強盗を行う多数派の権利を否定するが、それはひとえに殺人、奴隷化、強盗がその法に違反し、見過ごすにはあまりに重大だからだ。しかし大きな違反が誤りならば、小さな違反もまた誤りである。
憲法を純粋に民主的なものにすれば、政府は絶対の正義と調和するだろうと、真面目な改革派は考える。このような信念は、おそらく時代の要求なのだろうが、非常に誤ったものだ。いかなる手続きによっても、強制を公正なものにすることはできない。
最も自由な政府の形とは、好ましくない度合いの最も少ない形にすぎない。少数による多数の支配を専制政治と呼ぶが、多数による少数の支配もまた専制政治であり、激烈さの度合いが小さいだけだ。どちらの場合も、「お前の意志ではなく、我々の意志に従え」と宣言する。それが99人によって100人に対して行われるのでなく、100人によって99人に対して行われるとしたら、不道徳の度合いがほんの少し小さいにすぎない。
二つの集団のうち、「お前の意志ではなく、我々の意志に従え」という宣言を実行するほうは、平等な自由の法を破ることが避けられない。唯一の違いは、一方では99人の個人によって破られ、他方では100人の個人によって破られることだ。民主的な政治形態の長所は、少ないほうの人数に対して破るということにしかない。
多数派と少数派の存在そのものが、不道徳な状態を示している。道徳律に調和した性格の人間は、仲間の幸福を減らすことなく完全な幸福を得ることができる。しかし投票によって公的な取り決めを実行すれば、そうでない人間からなる社会を意味する。ある者の欲望は他の者の欲望を犠牲にしなければ満たされないことを意味し、幸福を追求するために多数派が少数派にある程度の不幸を与えることを意味する。したがって、組織的な不道徳を意味する。
政府は最も公平な形であっても、自身を悪から切り離すことはできない。国家を無視する権利が認められなければ、国家の行為の本質は犯罪とみなさなければならない。
(次より抄訳)
The Right to Ignore the State | Mises Institute [LINK]
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