国家依存は個人の自立?
日本語で「自立」とは、「他の助けや支配なしに自分一人の力だけで物事を行うこと」(大辞林)を意味する。フランス語でも同じだろう。ところがフランスの高名な知識人であるはずの著者トッドは、それを無視し、おかしな議論を展開する。
核家族は「個人を解放するシステム」だが、「そうした個人の自立は、何らかの社会的な、あるいは公的な援助制度なしにはあり得ません」と著者はいう。自立は援助なしにありえないとは、言葉の定義に反する珍妙な主張である。全体主義を描いたジョージ・オーウェルの小説『1984年』に登場する標語「自由は隷属である」を思わせる。
著者は、「ネオリベラル革命」は国家による個人の援助をなくして「個人が家族に頼らざるを得ない状況」を作り出し、「個人の自立」を妨げているという。家族に頼るのは自立に反し、国家に頼れば自立とは、これまたわけがわからない。
家族、親族、部族は個人の自由を縛る場合もある。だからといって、個人が国家に助けてもらう必要はない。そもそも国家は自前の財産がないから、人を助けることはできない。真の自立を築くのは、市場取引を含む個人間の自発的協力だ。
米国で1935年、ルーズベルト大統領が社会保障を導入し、その後の繁栄の礎になったと著者は述べる。因果関係があべこべだ。米国は経済が比較的自由だから繁栄し、そのおかげで社会保障を維持できたのである。政府は富を生まない。
以前の共著『グローバリズムが世界を滅ぼす』では、著者は真の問題がネオリベラリズム(新自由主義)ではなく、官民癒着の縁故資本主義であることを正しく認識していた。ところが今回の本ではそれを忘れたかのように、言葉の定義を無視してまで、俗耳に入りやすいネオリベラリズム批判を繰り返す。残念である。
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