日本仏教の権力迎合
すぐれた宗教は、世俗の権力や権威とは異なる価値観を示す。インドで生まれた仏教もそうである。ところが本書によれば、中国を経て日本に渡った仏教は、最初から国家のためという思想で始まった。その影響は現在にも及んでいる。
著者によると、インド哲学者の中村元は常々、「インド仏教では、国王を泥棒と同列に見ていた」と話した。人の物を取り上げる点で変わりないからだ。泥棒が非合法的に取る一方、国王は税金という形で合法的に取るのが違うにすぎない。
ところが日本の仏教は伝来した当初から、鎮護国家の思想が支配的だった。ここがインドや中国との大きな違いという。また、インド仏教では「人」より「法」を重視するが、日本では聖徳太子信仰や弘法大師信仰など個人崇拝が顕著だ。
国家など帰属する集団を優先し、自己の自覚に乏しい傾向は、仏教用語の意味にまで影響する。「義理」とは本来「ものごとの正しい筋道」を意味するが、日本では「義理を欠く」などと「目上の人に対する義務」という意味で用いられる。
日本でも仏教が政治と違う価値観を貫く時代はあった。元寇や島原の乱の戦死者は「怨親平等」の精神から、敵味方の区別なく弔われたという。明治政府はここから逸脱し、靖国神社には官軍だけが祀られ、賊軍の死体は野ざらしにされた。
世俗権力に迎合し、同じ価値観を説くのであれば、宗教の存在意義はない。国家に対する批判精神の弱さは日本仏教の弱点である。税は合法的な窃盗にすぎないと覚めた目で突き放す、仏教の原点に立ち返る必要がある。
2 件のコメント:
現在の教団の実態からは想像し難いですが、浄土真宗では「神祇不拝、国王不礼」と言われています…。
伊藤さんお久しぶりです。浄土真宗もかつては反権力だったのですね。
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