高田貫太『海の向こうから見た倭国』によれば、早くも弥生時代後半から、日本列島と朝鮮半島の間で交易が本格化していました。その主役は日朝の沿岸や島々に住む、漁労をなりわいとし、優れた航海技術をもつ人々(海民)です。
かつて交易の対象はおもに青銅とみられていましたが、近年の研究により、鉄も対象だとわかったそうです。
韓国・釜山のトンネネソン遺跡からは鉄器を作る当時の工房が発見されましたが、そこから出土した土器の多くは、日本列島の弥生土器やそれをまねて現地で作られた土器でした。これらを弥生系土器と呼びます。大半は北部九州でみられる壺や甕(かめ)です。
工房で使っていた土器が弥生系土器ということは、そこで鉄器を作っていた人々の中に北部九州から渡ってきた弥生人が含まれていた可能性が高いと高田氏は指摘します。
弥生人は沿岸にある港町を利用し、鉄を求めて海峡を往来していたとみられます。さらに沿岸にとどまらず、鉄鉱石を産出する半島南部の内陸にまで鉄器を求めてやってきた形跡があるといいます。
一方、この交易ネットワークを利用し、朝鮮半島南部からも北部九州に盛んに人々が渡ってきていました。その活動は両地域の間にとどまらず、紀元前108年に中国前漢によって楽浪郡が設置された後には、中国から半島南部、北部九州から、西日本の内陸、驚くことに東日本まで及びます。
たとえば神奈川県海老名市の河原口坊中遺跡では、朝鮮半島中南部で製作されたとみられる、全長28.5センチの長大な板状の鉄斧が出土しています。
このように古代の日本列島と朝鮮半島は交易でつながり、盛んに人々や物が往来していました。
今も庶民は変わりません。日本人は韓国製のスマートフォンや韓流ドラマを楽しみ、韓国人は日本の化粧品や医薬品を愛用する。「反日」「反韓」とは無縁のこのつながりがある限り、両国関係は大丈夫です。(2017/11/08)
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